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時として常識は儚いものと化すらしい。少し前のこと、或る人物からこんな質問を受けた。
共感覚が有るのは煩わしくないのか、と。この純粋な問いには罪も無ければ裏も無いだろう。
そのような知覚の状態の存在を知って摩訶不思議な感覚を覚えるのも私は何処かで頷ける。
通常揺らぐ筈のない事象や状態を疑うのは、其れが反証される何かに出くわす時であり、
出来ればそうした"非常事態"は避けて通りたいもので、頑固者であれば認めようともしない。
事実、一般社会はそれで成り立っているのだから平和な日常をわざわざ侵すこともなかろう。
言うなれば、共感覚は人間間の常識を打ち破る存在であり、此れは当事者同士でも同様だ。
一方で、一個人の内部における常識・観念を覆す事象や変化にも巡り会うことがあると思う。
何れに対しても無知の知を自覚することで、世界は別の様相を呈して来ると言えるのだろう。
ともすれば、予期しない状態と対面するのは不快で、不安を呼び起こし、己を盲目にする。
何時の間にか構築された"安住の地"―またの名を思い込みとも呼ぶ―に踏み留まろうとして、
かえってアンバランスな選択肢を採っている、なんて事態も現実に無いとは断言出来ない。
一方で冒険心と好奇心を掻き立て、我々を否応無く引き摺り込む新しいものも、他方では
猜疑心を募らせ、事実を知ろうとする心の行方を阻む。彼方は何れの道を択ぶだろうか。
どちらも一理あり、妥当である。然し、偏りとは終着点を目指し、生み出さぬことがある。
共感覚の有る状態とは、常に定まらない何かに身を委ねることだと思うことが良くある。
恐らく、数種類の共感覚だけであったならそこまで揺れ動かないだろう、"触角の多さ"が
此のやけに心地の良い不安定を齎す。何かに"心奪われている"場を生きている訳だ。
新しい出会いをひたすら拒むのも生き方の一つだが、可変な姿を生きる手段も無くは無い。
其れは"ソフトやハード"を更新するかしないかと同様の話であり、時に熟慮を要すること。
未知の事は痛みを伴うにしても、揺らぎを慕い求める外ないと感じるのが此の私なのか。
一度過ぎ去ったものは決して遣って来ないのであり、どんなに大切に思い遣っていても、
揺らぐもの等は何時だって違う方角を目指している。逆に、踏み固めれば失うものも有ろう。
他に喩え様のないこの様態を仮に芸術的プロセスと呼ぶのであれば、此れを私は護りたい。
共感覚を不随意な知覚状態だと定義するならば、此れが如何に切ない意味を持つのかを
当事者自身も自覚することであろう。我は此処に居ながらして、此処に居ないということ。
操縦桿を握るのは内的世界なのか、それとも外的世界なのか。またしても、結末は揺らぐ。
- 2012/02/12(日) 20:49:06|
- らせん と じかん
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感性で生きるのか、理性で生きるのか。或いは、感性が生かすのか、理性が生かすのか。
何故に私は此処に居て感じ、考え、周囲の世界に目を向けたり、背けたりするのだろうか。
総てが謎めいて感じられるひと時を過ごした後に、再び感覚という次元に立ち戻りたくなった。
一共感覚者として鑑みるに、感性は理性の司るものとは到底言えず、隙さえ与えられていない。
振り回され、中身を抉られ、其れで居ても己の感性に愛を感ずる理由とは何処に在るのか。
唯の物好きでもなく、一つの生命体として私が噛締めている此の感情は果てを知らないだろう。
本来、共感覚そのものは社会的な意味等は持たずに存在する訳であり、其処から派生する
種々の色彩表現や文学表現も、本をただせば何の相関性も無く純粋な侭の知覚体験である。
修辞としての意味を付し、"味付けされた共感覚"を生み出すのは専ら社会的な要求に拠る。
何某かの関係性の内に己の謎を寝かせて安堵するのは共感覚者も非共感覚者も同様だろう、
"裏を取る"為に酷く疲れる旅をすることが在ったとしても、其れは決して無駄ではないのだ。
然し、現実として其処まで世界は単純なものだろうか?今の私は暫し首を傾げた侭で居よう。
或る問答を続けて居ながら、其れに敢えて答えを出さずに過ごして居るのも不可能ではなく。
理不尽の三文字を承知の上で感覚体験の謎を引き受けるのは、冒険以外の何物でもない。
事実、感性そのものの特質を知り尽くすには、其の種の"リスク"も本来背負うべきであろう。
言うまでもなく、此れは並大抵の努力で達成出来る状態ではないのと同時に、そもそも、
努力で勝ち得るような代物でもない。空から降って来るような存在を管理出来たものか、と。
自然の織り成す業を如何にして否定出来ようか。少なくとも、私は此処で言葉を失くす。
そうした範疇で言えば、理性的な統制の利いた共感覚や、他者と共有可能な共感覚等は、
何処かしら偽善的なふうにも見えて来る。荒々しく、棘を持ち、牙を向くような感性の姿を
目の当たりにしては、其れと社会との接点も自ずと薄まって行くもののように思えるのだ。
此れは一方で、ただ感性のままに振る舞って良いのではないことを示唆するものであり、
感性を尊重した理性の在り方を考えさせる論点とも言える。強いて言えば、動物的な感性。
其れを人間的な理性が操って終わるのであれば、それ程悲しいことは無いのかもしれない。
何も考えて居ないかのように映る感性の立ち振る舞いの中に宿る微かな言語を聞き取り、
じっと見守ることも必要ではないか。無論、此れは総ての共感覚(者)には当て嵌まらず、
耳を傾けるまでもない、と思うことが有っても当事者の目からすれば何等不思議ではない。
動物には共感覚は有るのか、という問いがある。個人的には其れは有ると思っているが、
此れも私自身の感覚体験に因る処が大きい。人間的な秩序とは別の法則を指向することで
逆に守られる感性もあるのだろう、と。其れは何時の時代も白黒つかない詩歌ではないか。

- 2011/10/14(金) 00:28:39|
- 共感覚/synaesthesia
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共感覚を感じる者同士で色や形、香りや音について語らうことはこの数年間に日本でも
少しずつ増えて来ている。オンライン・オフライン問わず、これは喜ぶべき変化ではないか。
出来るなら身近な家族友人と分かち合いたいが、そうは言っても貴重な機会なのは確かだ。
一方で、私はこんなことも感じずには居られない。当事者間で話し合われるその言葉は、
はたして、ありのままの感覚に忠実な姿をしているか、と。此れは非常に繊細な事象なのだ。
社会的な意味も併せ持った言語、それは何がしかの妥協を含んでいると言えなくもない。
共感覚それ自体が言葉で表現するには難しさを伴うためか、文学的要素の力を借りることで
難解極まりない現象の姿が共有するに値するものへと変化することも往々にしてあるだろう。
美学的世界をも共に出来る仲間内であれば、そうした趣向も決して無駄なものではない。
はて、文字や音楽等の汎用性のある媒体の関わる共感覚ならいざ知らず、一般性のない、
超越した現象を表し示すには、そのような既知の伝達手段のみで事足りるのだろうか?
主体的ではあっても、社会的な"我"の存在とは懸け離れた共感覚に行き場は在るのか、と。
芸術表現をあくまでも虚構としてみなすならば、詩歌や絵画の限界を見過ごすことは出来ず、
素の感覚状態を分かち合う場には、或る種の痛みと悲しみが在るのではないかと私は考える。
無論、そこまでして感覚の様相を深く理解しようとする者が現実に居れば、の話ではあるが・・・
兎角、恐怖感や痛みに関しては、現状を語ろうとする前に他者の共感を求めたくなるものだ。
常日頃から苦痛を"科学する"姿勢を持っていると、或る種、冷静さを培う訓練とは為っても、
他方では人間味を失いがちであり、ともすれば、均衡を欠いた状況をも生み出しかねない。
グロテスクな感覚を敢えて語らないのは単なる"思い遣り"の現れなのか?それとも違うのか?
ただ心地好いことを語るだけが共感覚的語らいの総てではない。と同時に、共通の目的無しに
そうした試みが達成されることも決してないだろう。"仲間"であればこそ、そうなるものだ。
決死の覚悟で発した言葉が、何の応えもなしにただ其処に木霊して居るのではやはり物悲しい。
"一歩踏み込んだ"共感覚への眼差しは、時を越えて何処かで必ずや実を結ぶのだろうか?
評価ではなく、素のままを洞察するということ。此れは恒久の願いであり、目指すものである。

- 2011/06/26(日) 23:16:21|
- 共感覚/synaesthesia
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雨上がりの夜道を歩いて居たら、何処からともなく青いような不思議な光が前に迫って来た。
一瞬驚いたものの、暫く経ってみるとそれが青草の香りなのだと気づく。そしてふと我に返る。
ずっと昔から知っていた筈の匂いになぜ戸惑ったのだろうか?その色も初めてではないのに・・・
たとえ自分にとっては"見慣れた"共感覚であったとしても、こうした再会の段はよくあることで、
後から考えてみると、「何だ・・・」と自分の反応に笑ってしまうような出来事も多々遭遇するものだ。
久しぶりに会った友人に中々気づかないことと類似した状況でもあるが、別の理由も在るのだろう。
文字や音楽といった有り触れた共感覚と比較すると、日常生活で自分の意図とは全く関係のない、
極々普遍的な共感覚は、思い立って観察することがなければその実態を知らぬ"者"も実は多い。
味噌汁の出汁の立体感や、トースト一枚に広がる赤みを帯びたバターの味。至って平凡な存在だ。
普段、「きっと其処に居てくれる」と自分が密かに期待している存在ほど、それが消えた時には
言い表せない程の悲しみをもたらすもの。有り難味を感じていない訳ではないにしてもこうである。
そうした慎みのある"友人たち"が生活を如何に面白く、彩り豊かなものにしているかに気づかされる。
そうした"不義理"が祟って、私は時々驚かされるのかもしれない。「世界はまだまだ広いのだ」と。
幾ら文字の色が綺麗だからって、其れは実はホンの一部なのであり、地の果てまで届く訳もなし。
喜怒哀楽をより一層深くして呉れる彼等を"雑音(ノイズ)"等と呼ばわってはきっと失礼に当ろう。
何時だって美しさはそのまんま其処に居るのだろう。他者が其の意味を良くは知らなくたって
今の私は一向に構わないだろうし、逆に耳を傾けて貰えたらそれはそれで楽しめる気がして来る。
ただ眺めて共に居るだけで、その有余る重厚さに私は押し潰されそうだ。此れ以上、何が欲しい!?

- 2011/06/09(木) 23:38:23|
- らせん と じかん
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未だかつて経験したことのない天災が起こった。そしてそれに続く"想定外の"事故も。
事故は別としても、此れを読む彼方は果たして地震や津波を何時感じ取ったか尋ねたい。
揺れが始まった瞬間、或いは、地球の唸り声を見聴きした瞬間のどちらなのだろうか。
イルカや鯨を初めとして、動物が地震の前に異変を感じるのはよく知られたことである。
では、人間たちはどうなのだろう?揺れて初めて気付くだけとは、この私には到底思えない。
地表の奥底から響く呻きは、何も地獄耳の為に残された手段でもなければ、妄想でもない。
通常の可聴領域の際に聴こえるような音を動物たちは確かに聴き取り、そして"形"に残す。
逃げるものも在れば、感覚の狂いに苛まれて無残にも海辺に打ち上げられてしまうものも。
此れは至極正直な反応であり、私からしてみれば驚嘆する事実ではない。寧ろ、必然である。
自由意志を持った人間がそうした音を見たり聴いたりしたら、どんな軌跡を描くのだろう?
現に、事の起こる数日前に聴覚が急に過敏になり、地震や津波の前兆を音・光・痛みとして
確かに感じ取っていても、逃げるという発想には及ばなかった人が此処にいる。何故なのか?
人間の住まうこと、そして生きること。此れは動物の其れとは大いに異なる場合が殆どであり、
現代人の"ライフスタイル"となれば、哀しいかな、まるで別物である。然し、何れも生物足り得る。
空間に宿る概念を論じ、其れに愛着を感じ、住まうことを考えるのは何も建築家とは限らない。
動物にも縄張りはあるが、社会生活や文化と契りを結んだ人間が所有する土地との関係とは、
また別個の事象であるようにも感じる。だからこそ、天災の発生は避けられないと思いつつも、
現実に起こって欲しくないと願い、資財の損失を補償するシステムの構築に期待する訳である。
こうした絵の裏側には物質と人間との関係性が見え隠れする。生への愛着とモノへの愛着とが、
綯交ぜになるのが人間の性の一つであり、ただ生きていよう、この目で現実の姿を見届けよう、
という考え方とは其れは少々掛け離れたもののようだ。はて、此処で少し立ち止まってみたい。
"感覚"の入り込む余地は何処へ?感覚することも、本来は人に許された行為ではなかったのか。
日々不自由なくモノを手に入れたとしても、其れで満ち足りる訳がない(欲望とは可変である)。
その代わりに重苦しい音を身体に感じて、何かが失われる悲しさに涙を流しても良いだろうか。
何の為に自分が悲しいのか判らずに居た人が、ある瞬間にハッと気付く。事は起こるのだと。
自分だけ、家族だけ逃げてしまって良い訳がない、そんなに卑怯なことが在ってなるものか!
人間たちが積み上げて来た"自由な不自由さ"のツケを払うまでは目を背けられる筈もない。
そんなことを感じ考えるのは、天災ではなく人災によって一度は死の存在を垣間見たからなのか。
自然の齎す脅威も計り知れないが、人の過ちの造り出す死ほど重苦しく理不尽なものはない。
が、今の瞬間もそうした行為が時々刻々と進んでいる(何も此れはリビア情勢のみならず)。
無論、天災は天罰ではない。(仮にそう考える者が在るならば、動物の感覚など虚構となろう)
地球という生き物、自然という存在を肌身で感じる者には此れの意味が殊の外強く感じられる。
不気味に色づいた光が、痛みが運んで来たのは災いそのもの。然し、其れが自然の姿のようだ。
敢えて、共感覚という言葉は出さずにおいた。当事者の感覚とて多様であり、測り知れない。
地震波を色や光でずっと感じて来たからこそ思うのは、感じる者にも何も出来ないということ。
ただ純粋に感覚すること、痛みを味わうこと、その現実の姿を風化させぬよう生きて行きたい。
諦念という言葉を借りるのはこの状況下では不謹慎だろうか。然し、此れ以外に言葉を知らぬ。
過去に苦しんだからこそ感覚するのであれば、何も不真面目ではない。寧ろ、真摯な認知である。
家族や仲間以外に信じようのない光はこれから何処へ向かうのか。暫し、その行方を見届けたい。

- 2011/04/13(水) 23:31:06|
- おとをみる いろをきく
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人は誰しも"苦手"なことがあり、他者には隠したいような弱さを持つものなのだと思う。
時に自らのそんな状況を悲観もすれば、解決を目指して努力を重ねることも在ろうか。
然し、何とかしたいと思ってはいても何も出来ない、という文脈も往々にして生まれ出る。
はて、彼方は閃く人間だろうか。仮にそうならば、どんな時に閃いているのかと尋ねたい。
総てが絶好調の時にアイディアに恵まれる者もあれば、どん底に在りながらも閃く人も。
この私には、恐らく後者の側の経験が殆んどである。幸せな時は愚かさに埋っているのか。
これは言い換えるなら、"逆転の発想"というものなのだろう。何時になく生き生きした、
それで居て緊張感を持った閃きの数々。言うまでもないが、私は"彼ら"に救われた来た。
そうした助っ人の影に共感覚の光が木魂しているのは何も誇張ではないと考えている。
調子の良い時に上手い事をぽんぽん思い付いて、実行に活かせるのは勿論益となる。
大概、人はピンチに立つとそれとは逆方向へと暴走して転んでしまいかねないものだ。
どうだろう、世間で言う「モチベーションが下がる」などと今風に言えば格好がつくのか。
こんな時、私は感覚的なものを優先して或る種の"逃避"に走っている気がしなくもない。
音楽を想起して音と形の世界で息抜きしてみたり、或いはそんな状況下では落ち着いて
文字の意味も読み取れないことからと、逆に文字の色から想像力を羽ばたかせたり・・・
不謹慎極まりない奴だと思われても仕方ないが、何もしないよりかはマシな気がする。
恒常的に在る感覚の世界に立ち返ることで何かを閃くのは、何故か心地好いものである。
半ば妄想に近いアイディアであっても、不思議と生命力が在ると感じるのは気のせいか。
無意識の内に自らの感覚を研ぎ澄ましていたのは、今になって思えば苦境の最中が多い。
余りに恵まれ過ぎて者達には、逆境の中を生きることなど耐え難い苦痛そのものだろう。
或る意味で、"最底辺"を経験するのもそう悪くはない(トラウマを克服すればの話だが)。
元来人は強く出来ているが、痛いことや不利なことから避け出すと何故か逃げ癖が付く。
好きなことばかりして居たからと言って共感覚が衰える訳でも何でもないとはいうものの、
たまには苦手なことに挑戦して、客観的になるのも良いのだろうと今の私は考えている。
ドMだからこう発言する訳ではない。人と共通点が少なく、独自の生き方をしているからだ。
他者と距離感の有る世界を生き抜くには、閃きが絶対的に欠かせないものと成って来る。
一般には障碍と括られるものも、何時しか柔らかな力として此処に留まってくれたようだ。

- 2010/11/07(日) 22:41:45|
- 共感覚/synaesthesia
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共感覚を普遍的なものとして捉える向きもあれば、特殊な現象として考えるものもあるようだ。
果たしてそれはこの私からしてみればどちらでも無く、どちらでもあると言うことが出来そうだが、
一体全体、共感覚者は自らの感覚を社会にどう認識して欲しいのか。複雑、且つ微妙な論題だ。
こうした話題は、それこそ当事者個々人で異なるものであり、一つとして同じ意見はないだろう。
そして、それらの思考の拡がりは敢えて一つの箱に押し込めるものでもなく、その必要もない。
感覚の差異のみならず環境要因の問題も在ろう、どれが正攻法で、どれが異端だとも言えない。
普段から孤独感を味わっているからと言って、当事者同士でやたらと共感し合う必要もなければ、
逆に離散性を過度に求める意味もないだろうと私は考えている。それにしても、此処で問いたい:
"ありのまま"とは、如何なる状態を指し示すのであろうか。其れの持つ意味とは果たして何か。
常日頃から、我々は『ありのままを信じたい』等と言いはするものの、案外"為ってない"ものだ。
私思うに"ありのまま"とは、常時揺れ動く"何か"の集合体でもある上に、人それぞれの感性も違う。
概して言えば、そのままの共感覚を(殊に他者のそれを)理解するなど曖昧過ぎて難しい気もする。
では、当事者・関係者間での歩み寄りを止める必要があるかと言えば、それは話の筋が違う。
曖昧模糊とした課題に取り組んでいる自覚を初めから持つなら、何のことはないのかもしれない。
自分には総て分かる、と構えてはテンで可笑しな話になる筈だ("完璧"とは、第七の感覚である)。
他者の知覚についてあらゆる思考力を働かせて想像すること=理解すること、では断じてない。
しかし、自分の感じ方をよく反芻した上で想像力を働かせるのには"完璧"を超えた良さもある。
そんな時には人の強さや弱さに自然な形で出会えるが、これは或る意味での幸せではないか。

- 2010/11/05(金) 21:22:25|
- 共感覚/synaesthesia
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