文字→色について、周囲の共感覚者と対話していると、溢れんばかりの疑問に遭遇する。
ヒトはどのようにして文字を見たり、言葉を理解するのか、また共感覚はどう係わるのかetc...
"遠くて近しい"他者を知ることが自己理解につながるのは紛れもない事実だが、ある意味、
多様な共感覚(者)の只中に在っては総てが飽和状態に飛ばされたかのような心地にもなる。
それが文字→色という、一見"有触れた"様相を持つ共感覚であっても宇宙は果てを知らない。
あくまでも自分の場合だが、文字色=言葉そのものであり、色がなければ意味を成さない。
言語的な内訳で行けば、幼少期に生活言語として学んだ日本語・オランダ語に関して言えば、
色彩のみならず、形で文字を読もうとする傾向もあるが、私にとっては逆にややこしい事実か。
何しろ、形→音→意味と理解するプロセスが"永久の通行止め"を其処此処に抱えているため、
原感覚的な文字へのアプローチそれ自体が、大よそ言語機能として作動してはいないのだ。
先に挙げた"宇宙語"を平坦な"地球語"に置き換えるなら、読字障碍が文字の形そのものの
理解を困難にしているということになる(視覚的にも、音韻的にも字形→音には距離を感じる)。
"話せるのに書けない"現実も、実を言えばキコクの3文字で私自身ずっと片付けてきたらしい。
知覚的な、すなわち先天的・遺伝的要素による特徴だとは考えもせずにいたのは妙な話だが、
恐らくは、ヒトの認知機能になど目にもくれない日々を送っていたことがその素因ではないか。
というのも何も、日本社会でキコクの3文字の"毒素"があまりに"効果抜群"なこともあってか、
思春期特有の自己認知の問題に関しても、「多分、これもオランダで"もらった"何かだろう」、
程度の意識で須く認知したつもりになっていた(これで私の能天気、いい加減さもバレてくる)。
実際、オランダの学校教育によって私の共感覚が死なずに済んだのは、彼等の文化土壌が
私の感覚世界を丹念に守ってくれたこともあるが、そうは言っても、根本は別の空間に在る。
帰国子女というのは、マイナーな国に行けば行く程、"強毒性"の素質を育ててしまうのか、
通常共感覚者が抱える孤独感の幾らかを、私は知らずに(或いは破棄して)今に至っている。
本来なら共感覚者の苦労として数え上げられる筈の部分さえ、私は"オランダ帰り"とみなし、
周囲もそう信じて来たのではないか。それがゆえに誤診に遭ったりもしたにせよ、共感覚や
読字障碍といった側面は、20代後半になった私に思いがけない"啓次"を与えてくれた訳だ。
文字→色の話に話題を戻すと、私が英語を如何にして学んだかは大よそキコクらしくない。
確かに外国語の発音を聴く基礎だけは小さい頃に身体が覚えた要素だろうけれども、現実、
話し言葉と書き言葉には、言語に関係なく"国境"を見ている私は実に奇妙な路線を選んだ。
"文字色で読み飛ばす"という反則技を、いったい誰が考えるのか。私以外には聞きもしない。
共感覚の色と言葉の意味を繋げることで、文字の形の歪みに気付きもしなかった訳である。
これは高校卒業後の浪人時代、夜更けに暗がりで"毒書"する中で編み出した抜け道であり、
どこの参考書にも書かない方法(いや、書けない)。何せ、文法を無視するのが鉄則なのだから。
言付けをきちんと守るような秀才に馬鹿呼ばわりされても構わないが、不必要な文字の色を
"適度に見落とす"ことで、脳に負担の掛かる読字作業を多少なりとも"合理化"したということ。
後に読み方を改良するまで逐語訳が出来なかったというオチはあるが、それで総て事足りた。
こういうことを書くと、あたかも共感覚が優れているかのような印象を与えてしまいがちだが、
他者と決して共有することが出来ない手法ということを承知の上で私はこうするだけである。
共感覚で、頭が良くなる、記憶力が上がる、といった上乗せされるポイントは皆無に等しい。
それに現実を申せば、元々、文字→色や文字の歪みによって私は夥しい片頭痛を経験する。
人と違うだけでなく、痛みをも覚悟の上での独自の読字法は、然も毒々しい負荷を併せ持つ。
"What is your colour?"と仮に色で読めば、音としては「ワ、ヨ、コゥ」程度しか聴こえない。
色彩で意味を理解し、そこから初めて発音に繋げ、再び発音の共感覚で言語理解を強め・・・
といった迷路のような道具を使っているのは、今此処で言語化してみるとどうもみすぼらしい。
がしかし、私はこの方法をこの上なく愛している。なぜか。誰にも邪魔されずに済むからだ。
人と違って生まれたにせよ、許された感覚としての共感覚に有難みを覚えるのはこんな時か。

- 2009/11/23(月) 00:28:46|
- 共感覚/synaesthesia
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文字→色の共感覚アート、これは私にとって無限の可能性を秘めた行為に思えるものだ。
言語、文字の種類、読み方、発音、並び方、日々の見え方etc.・・・この豊かな知覚世界を
もたらしているのが一方では私自身の持つ障碍に在ると認知しても、その"見返り"は多い。
言語の持つ本来の目的から遥か遠くに飛び立つことを許される瞬間、と言えば良いだろうか。
そのプロセスは至福であり、悲しみがあり、それでいて平凡だ。がしかし、カオスでもない。
一般的な文字認知の仕方、出来ればこの私も一生に一度は追体験してみたいものである。
黒字の文字を読んで音と意味を理解する、とは如何なる幻か。それこそ、"得体"が知れない。
厳密に言えば、私の文字認知は共感覚なしではほぼ意味を成さない。そう、色彩のみならず、
歪んで揺れ動く文字を掌でつかむざらついた感触や、舌で味わう滑らかさ、総て必要に思う。
どんなに「楽だ」と"唆されても"、私の脳には普通に文字を読む"隙間"が残されていないらしい。
無論、共感覚は新たに付け加えられたものではなくて、元からそこに在ると考えるのが妥当で、
引き千切ってみようと思えばこの私にも出来る筈だ。意味の理解を放棄する、という条件の下で。
私自身、共感覚と種々の障碍は地続きだと思っている(その大半は自意識の問題でもあろうか)。
それゆえか、文字をアートで表現する時にそういった非言語的感覚世界に没入していくことには
何等違和感も覚えないものである。そして、それが異常/正常で二分されない事象だとも感じる。
普段から
こうして見えているともなれば、アートと現実を敢えて別物と思うこともなくなるのであり、
ともすれば、自分の知覚世界の方が余程芸術的な色彩を感じさせてくれる時がない訳でもない。
現実の生活の中では、時間の関係で"芸術鑑賞"は程々に抑えるものであり、美しさに浸るなど、
到底叶わぬ夢である。何しろ、言語そのものへの道のりが人より長いので、常に走りっぱなし。
脳内で"何か"が底を尽きた、と自覚出来る程に一般的な読字の作業は困難を極めるものである。
はて、こんなブログで書いて居ればそうは気付かれもしないが、私は普通には文字を扱えない。
このサイト内の文字の色が一様に"薄味"なのはお分かりだろう。そして、五行区切りということも。
自分で書いたのにまるで読めない、という(半ば恥かしい)事態に日常的に遭遇しない訳でもない。
印刷の色の濃度によっては、2・3行ごとに改行しなければ海に溺れた気分を経験するものであり、
仮名文字が増えれば眩しくて目を閉じてしまうだろう。これは共感覚ではなく、障碍所以の現象だ。
そんな人間が文字→色を表現するのは、果たして単なる皮肉の現われなのか。それとも偶然か。
本音を申せば、そのどちらでもなく、どちらでも在る。"文章を書く=覚えた色彩パターンを並べる"、
という翻訳手段を日々(努力して)使うことがなければ、ある種の有難みも覚えない筈だと感じる。
私の場合、無防備なままに30分間まともに読書すれば頭痛や吐気が起こる。だが、悲惨ではない。
痛みの一方では美しい色彩で感じられ、そういった"逸脱"が文字のもたらす威圧感を妨げてくれる。
とっくの昔に読書を"苦手なもの"にして表向きの健康を保っても良かったが、私はそれを拒否した。
知識と美しさを渇望するのは人間の根源的な欲求ではないか。恐らく、学校時代の友人・教師には
読書好きとして認知されている筈だ。紛らわしい事実だが、私自身、このことはどこかで誇りに思う。
共感覚アートと読書の関係で言えば、私は漱石の著作が最も好きだ。漢字の並びの美しいこと!
そうして振り返れば、私の文字への審美眼は文学とはまた別次元に生きるとも思えて来るものだ。
今時珍しく兄弟の多い家族で育ったこともあり、良いもの・美しいものは分け合いたいと私は思う。
自分だけが文字の色を楽しんでいるなんて、どこか意地の悪い話。そうとも考えられないだろうか。
当然ながら、周囲の人間が私にとっての読み易い環境を知っている訳ではないが、だからと言って
そこで捻くれるだけなのもおかしな話。"ヘン"な自分の世界に周りを巻き込む位の心意気で居たい。
創造的であることと社会的であることは相容れないのか。何れ、後半の言い分は塗り替えられよう。

- 2009/10/25(日) 17:30:01|
- もじいろ おといろ
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いつ頃から共感覚を絵として表現し始めたのだろうか、と時折過去を振り返ることがある。
実を言えば確かな記憶が無かったりする。色鉛筆を握れるようになった頃から、というのも
強ち間違いではないし、もっと後に音楽を聴いてコラージュに仕立て上げた時かもしれない。
心が渇望して意図的に表現し出したのは十代半ばだが、当時何か特別な出来事によって
触発されたような記憶もない。何とか外に出さなければ、との使命感を感じたのは事実だが。
自分が共感覚者と認知して少し経った頃のこと、疑問に思って随分と悩んだことが一つある。
それは何かと言えば、"なぜ共感覚者はこんなに多いのに、表現する者は少ないのか?"と。
当時はそこまで共感覚の知識が在った訳でもない、当事者間に多様性が在ることさえ知らず、
そうと名乗る人たちには一様な知覚体験が在るものなのだと勝手に思い込んでいた。がしかし、
時が経つに連れて、共感覚者同士で差異があることにも深い意味があるのだと悟ることとなる。
海外のサイトで、共感覚者は"心の眼(Mind's eye)"で文字の色等を感じている、と読んだ時は
正直なところ、言葉の意味を理解出来なかった。後になってこれがnon projectorの主張だと
知って初めて合点が行ったのだが、共感覚の感じ方にもいろいろ存在するということになろう。
私自身はprojectorと言って、共感覚に強い空間性や質感が伴っているため、感覚そのものも
内的な知覚とは到底思えず、より外的な事象に近いと感じる。無論、網膜には映らないが。
実際にはprojector云々に拘わらず、共感覚そのものは主観的で内的な知覚とも解されるが、
仮に自分の共感覚に空間性が伴わなかったら、恐らく表現活動にも結び付かなかったと思う。
"内部にしかない筈の共感覚を身体の外側に感じる"、これは見方を変えれば自己矛盾であり、
他者にはそれがないと判れば尚のこと落ち着かない(別段、彼等が感じていても構わないが)。
幼少期に言語との距離が大きかったこともあろう、その葛藤を絵にせざるを得なかったのだ。
そもそも、共感覚それ自体が違和感を生むこともあるためか、表現する対象(object)そのものも
"違和感それ自体"ということになる。なぜこの色彩を感じるのか、なぜ目には見えないのかetc...
そういった疑問を如何にしてカタチにするか。言うなれば、これは純粋な自問自答の意味もある。
表現手法は人によりけりで、私はその点では「見たまま」を表現してはいないと言えそうだ。
どこかで"問題提起"を趣旨としているがために、結果論としての芸術表現は半ば放棄している。
学術的な関心が建築の計画論や構法に傾いていることからするに、私自身の感覚と感性は
時折"破断した構造体"如き様相を覗かせる。共感覚の表現ともなれば、尚のことそう言える。
では、どうしてそこで敢えて表現を試みるのか。それは言わば、隠れた同一性への憧憬である。
あたかも感覚と感性が一体であるかのように演じ尽くすことに快感を覚えており、それと同時に
新たな地平を旅して来るようなものではないか。"共感覚的演技"とはそういった事柄である。
然もアヤシイ響きを持った話に聞こえるだろうか。いや、現実の創作風景は至って平凡だろう。
文字の色を延々描き込んでいったり、音楽を色で配置することには、実際、神秘の欠片もない。
自分の知覚した色彩を、他者に別次元で"感覚デリバリー"していることは大概はバレないもの。
何でも、これではコスプレ趣味に聞こえるが、ヒトとは思いの外"見掛け"に弱い動物なのである。
無論、"届けた"後の私には他者の評価などどうでも良くなっている。感覚を解き放ったのだから。

- 2009/10/09(金) 18:53:54|
- 共感覚/synaesthesia
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自分の感性と知覚体験の関係性について深く問い尋ねて、苦悩することはあるだろうか。
その数珠繋ぎの存在を知って宇宙の果てを目の当たりにしたこと、彼方にも記憶に在ろう。
ふとした瞬間に共感覚者として、いや一人間として気付かされるのは、こういったことである。
感覚そのものと、その上にある人間性。決して"同一"ではないが、相互に強く結ばれている。
時として奇怪な姿を現わす共感覚の世界を振り返ると、指揮棒の振り方に戸惑いを覚える。
共感覚の知覚体験とそれを前提とした感性の行き先。これらは本来は別物な筈なのだが、
当事者として日常生活ではこれ等を敢えて二分して考えるようなことはない。言うなれば、
不可分の関係にあるがために、言語化してみればほぼ判別の付かない状態にもなろう。
とは言うものの、洞察を重ねていけば両者が如何なるプロセスを経て"ここに居る"のかが、
具に見て取れることもあるのではないか。共感覚とは、"習慣の集積体"でもあるのだから。
無論、ここで言及しているのは思い込みやスピリチュアルと言った、似て非なるものとは
一切結び付きのない事象だと断りを入れておかなければならない。現実の共感覚現象は
それこそ自分自身の知覚の問題なので、他者の前世がどうとかいうとのは更々関係ない。
いや、それらより数段地に足の付いた話であり、気の遠くなるようなディテールの事柄だ。
既存の時間性から解き放たれた中で感じられる共感覚には、幸も不幸も意味を成さない。
共感覚それ自体について論ずるともなれば、私の中では場所性の意味も変わって来る。
果ては言語の違いにまでその"憑依現象"が及んで、ただの感覚だけが残るということ。
自分にとっての海外体験が、ごく一般的な意味でのそれとはまったく異なる様相を持ち、
時として国・言語の違いで認知されないのはこの"共感覚的憑依"によるところが大きい。
何語を話す何人という基準を、感覚そのものが通り越してしまう瞬間と言うことにもなる。
しかしながらヒトとしての現実を述べるならば、それは日常生活の部分的評価に過ぎない。
言語の担う"対話手段"としての役割は当然無視出来ず、そのことも併せて突き進むならば
感じる主体と感じる客体、そして表現する主体の存在を認めねばならない。この意味では、
共感覚を感じる"私"は選択を迫られているのだが、実際には幾つかの領域で暮らしていて、
感覚そのものに向かうヴェクトルと構築された感性へ進むヴェクトル、両者が共生している。
そんなひどく複雑な環境条件を振り返ると、一つの像として共感覚者の私が浮かび上がる。
"私は日本語を話す"という感覚が『私は英語を使う』『私はオランダ語を操る』と異なること、
または"音楽の中を歩く"と『音楽を絵に描く』、"文字の色で感じる"と『文字の色を表わす』、
いずれの関係にしても、どんな役柄を演じているかで私自身の生活も様変わりするだろう。
事実、まったく意味不明であるが、私は感覚質そのものではなく私であるという結論になる。

- 2009/10/02(金) 00:43:02|
- らせん と じかん
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時折、"共感覚保持者"という表現を見掛けるのだが、そこで一つ疑問に思うことがある。
果たして、共感覚は保持する・保持出来るものなのか?と。当事者と共感覚との関係性、
これについては過去にも幾度と無く自問して来たのだが、もう一度考え直してみても良い。
ここで思うのは、共感覚との出会いや別れというのは実際にはひどく個人的な事象であり、
他者から見れば、感覚の有無で人の価値が決まる訳でもない。"共感覚者"とは何なのか。
あくまでもこれは私の経験上の話であるが、成人以後まで共感覚を知覚する環境にあれば、
どんな目に遭っても共感覚者は"引退"出来ないと思うし、何がしかの形で感じ続けるだろう。
年齢と共に共感覚がフェードアウトしていく人は居たにしても、"実感"そのものともなれば、
恐らく一生涯剥れることはないと思う。要するに、強弱の差に変化はあっても在るには在る。
海外で言う、projector/non projectorの分類の何れかに当て嵌まるかということなのか。
私自身、誤診に遭ってほぼ総ての共感覚を失っていた期間を数年経験した。そんなもので、
今現在、共感覚が溢れんばかりに戻った身としては、"保持している"というイメージは薄い。
ただ単に共感覚が"そこに在る"という印象の方が余程強く、自分で守っているつもりもない。
どちらかと言えば、成長過程で構築された感性の方が共感覚を強く希求しているのであり、
ヒトの行なう資産運用に比べれば、遥かに動物的な感覚を持ってそれが"維持されている"。
神経の構造自体は固有のものだろう。がしかし、これは意志だけではどうにもならない。
もし仮に、自分の神経総てを意志(ないしは意思)によって管理出来たら、奇妙ではないか。
恐らく、共感覚によって心弾ませることもなくなるだろうし、文学もアートも生まれないだろう。
共感覚者自身がこの感覚を大切にしようと日々努力するのは紛れもない事実だと感じるが、
かと言って、本人のみがこの感覚を支えているのではない。総ては相互作用で起こっている。
半ば折衷的な"他力本願"でもあるならば、なして当事者のみがその保持者と成り得ようか。
思うに共感覚とは間主観的な事象を数多く含んでおり、決して主観的なだけでは終わらない。
知覚している本人の感性・感情総てを理解出来ないにしても、社会的な関係の中に在っては
共感覚(者)は何がしかの形で守られているのかもしれない、と私は感謝の念と共に振り返る。
無論、そういった経験には極端に差があり、時に人間性に欠けたエピソードも見るとはいえ。
知覚現象の起こるメカニズムも考慮すると、共感覚は遺伝子によって"守られている"としか
言い様がないのではないか。共感覚の強さも物理的身体の特徴同様、受け継がれる筈だ。
仮に家族の中で自分だけ共感覚者だったとしても、保持者として名乗りを挙げてしまっては
些か不遜な態度となろう。理屈や言葉はどうとして、大概の人間は共感覚を"知っている"。
それを裏打ちするのが新生児共感覚の存在だと私は思うし、これは現実の示す通りだろう。
事実、共感覚を極端に理解出来ない人々も結構居るものだ。それを"忘れて"しまったのは
別に彼等の能・不能の問題ではない。分化を愛した神経が学ぶチャンスを逸してしまった、
それだけに彼等は共感覚者とは掛け離れた感性で生きている、と逆手に取ることも出来る。
原始社会が共感覚で満ちていたというのも、現代の世にあっては"妄想"の範疇を超えない。
共感覚者間の差異を直視する中で遭遇した現実が、それを物語る。"個"も普遍である、と。

- 2009/09/27(日) 12:18:00|
- 数 と くうかん
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日常的に見る色彩を"空間的なもの"として感じる人は、世界にどれほど居るのだろうか?
この問いが"共感覚的"なのか、はたまたそうでないのか正直なところ良く判らないでいる。
では、視覚世界の見え方とは果たして固有なものなのかと問えば、これの答えは明白だ。
共有されているという前提の下でなければ産業構造自体が成立しないこともあるだろうし、
逆に個性が無ければヒトの営みも機械的で面白くない。両者の駆け引きがモノを創っている。
形態・色彩のいずれに関しても言えるが、社会的に通用する指標というのは便利でも在り、
同時に不便でも在るはず。「これこれの色彩の部材をどれどれの大きさで加工すると美しい」
などと一デザイナーが主張したとしても、他者の脳細胞達は首を縦に振らないかもしれない。
「センスが良い」と世間一般に言われるのは、「常識的な美」に関する話だけなのだろうか。
一方で活躍する"主観的な美"、これの出番は果たしてどこに来るのか?疑問は尽きない。
私見を述べるなら、ヒトの感性に含まれるのは決して一つのコンセプトだけではないと思う。
共感覚者としての考えも当然あろうが、一般ピーポー寄りのアイディアだって皆無ではない。
加えて文字等の2次元平面の知覚が他者と違うこともあるので、どれが絶対とも言えない。
幾つかの要素が複合的に混ざり合うことで、初めて私個人の知覚があるということになる。
日常的には、無意識のうちに可能な限り"演じ分けている"といった感じの印象を受ける。
文字認知に関して言えば、私の場合には物理的な痛み以外に然したる"自己表出"がなく、
他者に対して「障害」というイメージを与えないらしい。代替手段で生き延びて来たとはいえ、
私としては共感覚よりも理不尽さを経験する。がしかし、こちらには"変位"が存在しない。
どういうことかと言えば、補助手段がなければ文字の歪み・滲みの具合が一定ということ。
そして、脳機能としても(恐らく)共感覚より解り易い話なのだろう、障碍の姿はシンプルだ。
これに対して共感覚というのはかくも"気紛れ"な役柄であり、ある文字が色だけなのに、
他の文字には空間性が伴い、味が付いていたりテクスチュアも具わっていたりするのだ。
無論、或る共感覚者には同じ文字体系に"同じ"タイプの共感覚質が感じられるだろうし、
他の共感覚者は、私と同じく"多様性"を見知るのかもしれない(後者の方が多いと思うが)。
しかし一人として完全に同じ共感覚体験をしない点では、共感覚はカメレオン同然である。
類似性は無きにしも非ずだが、各共感覚者が抱える問題とて常に"同じ"だとは思わない。
ある共感覚者にとっての"快感"が他の共感覚者にとって耐え難いことだって在るだろう、
言葉の上で「同じ」であることが、体験でも"同じ"とは限らない(もちろん同じでも良いが)。
一個人の中でも多様性があるだろうし、個人間でも差が存在するということ。とどのつまり、
共感覚者にとって相応しい知覚の指標もどうやら無さそうだ、と。別に悲しいことではない。
結局共有出来ないのなら、共感覚者は孤独なままに過ごさねばならないのかと言えば、
決してそういうことではないと思う。いろいろな知覚があるという"掟"さえ知っていれば、
お互いの過ごし易さに早く近付けるのではないか。たまには常識を破壊するのも悪くない。
ほんのジョークだが、キーボードで共感覚と心行くまで打ってみたまえ、とでも言い残そう。
共感覚者が
KY呼ばわりされる理由も自ずと分かる筈。彼方のKYは何色に煌くだろうか?

- 2009/09/24(木) 00:03:33|
- 共感覚/synaesthesia
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文字に色を感じる共感覚。色聴と共に、もはや共感覚の代名詞的な存在なのではないか。
他の共感覚者に「どんな共感覚を感じますか」と尋ねれば、文字→色、音→色・・・といった、
非常に"分かり易い分類"をもって説明してくれる。当事者間では挨拶代わりにもなる事柄だ。
がしかし、文字→色や音→色の共感覚はある地点に到達すると疑問を生じさせる話ともなる。
というのも、"色"だけを純粋に感じているとなれば、どこか不自然なこととはならないか、と。
人類が文字を使っているのは高々5千年程度と言われているが、現代の日本社会に居ると、
ともすれば文字の読み書きを行なえること自体が"標準"となり、疑うこともなくなってしまう。
具にたどっていけば自明なことだろうが、文字そのものは"言語を演じる形態"に他ならない。
そして、純粋に歴史を溯って行けば文字→色の共感覚が新進気鋭の部類に入ることも判る。
文字表象を使うことなしに、この共感覚は生まれ得たのか。果たして、現実は何を語るのか。
注意深い共感覚者ならばとうに気付いていることだが、文字→色の共感覚と一口に言っても、
発音→色から派生した色であったり、純粋に形だけに色彩を知覚している場合・・・と様々だ。
純然たる連想とはまるで別物だが、言葉そのものに宿る人格・イメージの色彩が他の表象に
跨って同じ共感覚色として現れることは、数の概念→色といった部類からも理解出来そうだ。
"Actually, where do you come from?"と共感覚の出自を問い直すことは興味深い。
子どもの頃はより強く、多くの共感覚を感じていたと口にする共感覚者は殊の外多いもの。
私含め成人以後に逆に強まるような例は無きにしも非ずとはいえ、大概は前者ではないか。
"共感覚"という用語の下に自らの知覚を認知するのが何時なのかも関係するのだろうが、
地が固まる前の共感覚の飽和状態を追体験するような機会は、別の意味で新鮮さを持つ。
太平洋プレートの移動とまでは行かなくとも、共感覚は時と共に"動く"知覚現象だと感じる。
本来、五感の壁を知らない世界で起こる共感覚である。私からしてみれば、文字→色で言う
色彩は世間一般で考えられている色彩とは大よそ異なる閾に住む代物と思えて来るものだ。
では、いったいその色彩は何物で、なぜ"色"だと言えるのか。なぜ"別物"と感じられるのか。
共感覚の色とは光であり、そこには温度や質感、重さ、感情が在る。と同時に、同一性が在る。
がしかし、色相のような社会的な色彩の概念とは相容れない点では似て非なる色なのだろう。
複数の感覚情報が出合って初めて共感覚は生まれる。実験等で「この文字は何色ですか」
と尋ねられた瞬間というのは、現実には国境を跨いで行き先を決め兼ねている状態に近く、
"文字には色もあれば、質感もある。この文字には味と空間性があるので特定の色はない"
と答えても構わないのだが、この回答がどんな結末を生むかは触れなくても明らかだろう。
"何色"と言うにしても、全体的に見れば共感覚情報の数%だけに留まっているということだ。
そういう点では"文字→色は感じますか?"という質問自体、"木を見て森を見ず"なのだろう。
私自身、文字を含む2次元平面の統合画像が上手く見えていないことも関係しているのか、
初めて共感覚者とこの"挨拶"を交わした時には、何か決まりの悪い思いをしたものである。
文字の共感覚を一般的な色名で語るのはどこか"フラット"で、寂しさを覚えるものではないか。
共感覚者間では、せめて囲いを飛び出したい。現実の世界へようこそ、と言わんばかりに。

- 2009/09/19(土) 17:24:06|
- おとをみる いろをきく
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ある視点から眺めてみると、共感覚は"ゆらぎ"を持った感覚ではないかと思えて来る。
これはあくまでも私自身の場合だけかもしれないし、あるいはその逆なのかもしれない。
科学的な範疇からすれば共感覚を感じているのはヒトの大脳という箇所になるものだが、
生命そのものが無ければ共感覚も在り得ない以上、共感覚は身体総てが支えるもの。
移ろい行く身体と共に共感覚の地平をしばし歩いてみたい。果たして何が見えるのか。
初めに断りを入れておくが、共感覚は物理的な性別如何ではまったく異なる様相を現し、
一人として"同じ"感覚はない、一般性を持つ概念では決して捌き切れない現象である。
実際、同性の共感覚者同士であっても個々に感じているもののベクトルは多様であり、
同じ傾向を持つかのように見えて、その出所がまるで違うことも往々にしてあるものだ。
従って、私が断言出来るのも私自身がこれまで体験した感覚だけということになろうか。
心理的な性別の在処は保留とするが、私は女性の身体を持ち、これと共に生きて来た。
種々の生理現象と共感覚の関係性という点は、恐らく語り始めれば切りがないだろう。
一言で言えば"ゆらぎ"としての共感覚がそこにある訳であり、非常にゆたかな世界だ。
見方を変えれば、不快感漂う日常生活とも思えて来る筈だが、これだけはなぜなのか、
耐えるべき苦痛という発想自体、私にはあまりない。自然なもの、とどこかで感じている。
自分の持つ共感覚の中には、ホルモンのバランスにより強まるor弱まるものがある。
少なくとも、高校時代からはずっと続いていることなので、もはや違和感も感じないが、
文字の色が鮮やか(過ぎ)な日が続いたかと思えば、彼等が旅に出たかと思う時もあり、
私にしてみれば、カレンダー上の時間単位の色と連動して動く色彩があるということ。
便利かどうかは別として、廻り行く色彩を眺めているのはそう悪いことではないと思う。
薬等によって人工的に共感覚が消えるのとは異なり、この"ゆらぎ"には特徴がある。
ホルモン分泌のエラー等は、その時だけ現れる共感覚の色や触感が存在したりする。
普通、体の調子が悪ければ痛みや不快感で気付くのかもしれないが、私の場合には、
自分の纏っている色彩が違う、と認識することで異変を知る。どこかあべこべだろうか。
"痛みがまた遣って来る"ではなく、"あの辺りにもうすぐ着く"と空間的に考えている。
こういった、内蔵を含む身体全体に係わる共感覚というものは"何色だ"とは言えない。
社会一般の色彩観に押さえ込めば「こんな色彩でこうこうの形が動いている」となるが、
敢えて言えば、それは私本人にとっての共感覚の実態とはまた別個の表象と言えよう。
既存の言語に当て嵌まらないものとして、これらの共感覚が生き続けてくれたら良いが、
現実には、誤診等の私の過去が語るように、誤解や偏見も付き纏う事象なのかと思う。
何せ、私にしてみれば「ズキズキと頭が痛い」の概念自体が理解出来ないことがある。
一般的な言語とは別のアフォーダンスを知覚するということだが、ある意味で興味深い。
いつまで経っても世間の現実に近づけずにもどかしい思いをするものの、感覚の"柔"を
受け入れるのはさして悲しいことでもなく、その逆ともなる。いろいろ楽しめるのだから。
他者の言う・書くことが時々分からないという珍事が在るにしても、感性を守ってみたい。
原感覚により生じるアフォーダンスと共感覚により起こるアフォーダンス、ということ。
ただ単に私の場合には後者の比重が高いのだろう。日常的に尋ねられる前者の要素、
歳を経るごとに少しずつ記憶に留めるようにしてはいるが、やはり実感は部分に留まる。
言うなれば、マイノリティの身体論ということ。夕映えの富士こそが"青"をもたらしたり、
激痛が丸かったり・・・。時折"ゆらぎ"の透き間に居る一般論も、もちろん"知っている"。

- 2009/09/17(木) 23:53:57|
- らせん と じかん
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共感覚関連の幾つかの書物には「共感覚者にとって共感覚は一生変わらない」とある。
あはずっと
あのままである、といったことがこれに含まれるのは非常に分かり易い例だ。
だが実際、色彩の波長のように"明快"な要素だけを感じる訳ではない場合も存在する。
あくまでも個人差の問題だが、複数の共感覚を持っていればより複雑で豊かな環境が
生まれることも在り得る。では、ネットワークの様相までも果たして"不変"なのだろうか。
文字→色彩というカテゴリーの共感覚だけを知覚していると思ったのに、具に見ていくと
実は触覚・味・香り・温度・痛み……といった共感覚情報も同時に感じていた、ということも。
視覚優位な共感覚者(自分も含め)には、これが容易に起こり得るとさえ思えて来てしまう。
ある意味、総ての知覚をヒエラルキーなく楽しめたら理想的ではあるが、日常生活の中で
達成することは非常に困難であり、ふとした隙に"気付く"ことで道が現れるのではないか。
時折、"サブ"として生きている彼等を"メイン集団"と同一に数え上げて良いのだろうか
と疑問に思ってしまうことがある。これは言い換えるならば、メインとサブの両方が居る、
つまり、一共感覚者内の知覚にも多様性があることの現れでもあり、非常に興味深い。
がしかし、一見してサブ扱いだった要素がいつの間にか主役の座を掴んでいて驚いた、
なんてことも現実には結構あるもので、ここでもう一つの多様性に遭遇することになる。
元来、共感覚が神経活動の一環であることを思い起こせばそれは何の不思議もないが、
どんな感覚をどう感じるか、は実際のところ"習慣の産物"とも言えるのではないだろうか。
思うに、私がこれまで不快な共感覚をやたらと避けなくなったのもこれと深い関係があり、
共感覚的な選択肢の多さを活かしたからだと思う。例えば、ある文字の色が苦手ならば
文字→味・香りに集中力を傾けてみる、といったこと。例外はあれども、8割方上手く行く。
冒頭に挙げた話題に立ち返るならば、どうだろうか。個々の共感覚の認識自体は不変で、
良い・悪いや強弱・明暗に関係なく共感覚それ自体は変わらないということが言えそうだ。
無論、過去の知覚記憶が本人の中にも残っており、現実に感じる共感覚との同一性が
ある程度なければ問題は別だろう。記憶が無ければ、当然、"イマ"の知覚が総てとなり、
文字の色一つ採っても各事象に具わる要素に揺らぎが生じる、と自身の経験から感じる。
そもそも、人工的に共感覚を消される経験をしなければこういった見方も持たなかったが、
共感覚は変幻自在な性質も兼ね備えていると感じる。認識の上に積み重ねたイメージで
逆に"損"をしてはいないだろうか、とここで振り返ってみると物事の構造が判然として来る。
一言で"脳の可塑性"云々並べたところで共感覚者の心に強く響かないのは当然の話だ。
経験に対する内・外の差を考慮すれば、共感覚者は"森の中"で生活しているのではないか。

- 2009/08/30(日) 00:34:47|
- 共感覚/synaesthesia
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時折、こんな誤解に出くわすことがある。「共感覚って、単なる知覚過敏ではないのか」と。
初めに断っておくが、これは偏見の基となる考えであって私は真っ向から否定する他ない。
と同時に付け加えておきたいのは、単なる感覚の暴走を安易に共感覚と思い込むことも
どこかしら間の抜けた話だということ。似ているもの同士を一緒くたにして考えるのに比べて
似て非なるものを抽出して洞察することの方が余程難しいのは、ともあれ事実ではないか。
実際、共感覚者にとって現代社会の中で生き抜いていくのは至難の業とも成り得るもの。
人工物からの知覚量が際限なく積もっていけば、別に共感覚者でなくても疲弊するだろう。
自分で知覚量を制御出来る環境にいつも居られるとは限らないのが世の常なのであり、
そうして振り返ると、共感覚者の"ハードディスク"が過熱気味になっていてもおかしくない。
無防備に過ごしていれば、どんなに楽しく元気に遣っているつもりであっても限界は来る。
無論、共感覚の種類や強度がそこまで多様でもなければ、バッテリーも持つことだろう。
要するに、共感覚が豊かで在れば在るほどリスクも高まる。ある意味、妥当ではないか。
共感覚を感じるということは、一方では自らの感覚を具に観察する機会を与えられている。
そうであれば、逆に感覚・感性を管理する術を主体的に考えるチャンスもそこにあるはずだ。
見出せば決して裏切られはしない、私自身これまでの経験からそう感じずには居られない。
ところで、ここで少し方向転換してみたい。若干偏っていると思われても仕方ないだろうが、
"共感覚の近傍"的な知覚現象を須くこれと並列化・同一視する向きには私は反対である。
心理的にクリティカルな状況ともなれば、人間誰しも感覚が鋭敏・繊細になるものだと思う。
だが、こうした特異的な環境条件でなければ感じられない"感覚"には大概落とし穴があり、
自分の経験も含めて言えば、はっきり言って心地良くない感覚が多いと言わざるを得ない。
何しろ、普段健康なままに知覚する共感覚の多くは快感や安心感さえも感じられるのだ。
一般的な五感覚知覚にある普遍的な快・不快と同様にマイナス面もあるとは言うものの、
我慢の限界を超えるのは、他者の無知や偏見以外には実はこれと言って見当たらない。
あまりにもマイルドな感覚なのだから。仮に、成人以後もそういった共感覚による不快感で
世界を斬捨てるような真似をするとなれば、やはりそれは幼稚さが表出しただけなのだろう。
現実、共感覚知覚とそれら鋭敏な感覚を知覚することの間には類稀な親和力が在る。
ともすると、そのグラデーションは本人にも他人にも差異を感じさせない空間なのであり、
何がどう違うのか敢えて分別はしないが、真性の共感覚者にしてみれば、言葉にせずとも
"空気"で分かってしまうほどの距離感か。普段はKYな筈の共感覚者にしか読めない流れ、
少なくともそこに在るのは排他的な感情ではなく、共感覚者としての自負に他ならない。

- 2009/08/27(木) 00:55:10|
- 共感覚/synaesthesia
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