seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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幾多の幻

人類史上の何処かで人間は文字を手に入れたらしい。何故、そんな道を選ぶに至ったのだろうか。
他者との対話のためか、或いは、自分個人で色を楽しむ為だったのか。もっと深い理由が在ろう。
たった数千年前に起こった此の事実を、私は疑うことがある。いっそのこと、逆でも良かった?と。

文字を放棄したって良いじゃない、と私が思うのは、恐らく「言葉の乱れ」を懸念する諸氏の機嫌を
損ねてしまうような事象とはまるで別個の範疇においてである。文字が無くても人は人であろう、
序に言えば、文字による文化を少し距離を持って見ることも必要ではないかと常日頃感じるのだ。

数字や文字は、果たして人間を"賢く"して来ただろうか。そんな筈はないだろう。どんなに知識を
蓄えたからと言って知恵を身に着けるのは別のこと。そして知識と知覚は別事象だが、自分のように
総ての文字に色を感じるのも実は褒められたもんじゃない(寧ろ"馬鹿の一つ覚え"と呼ぶべきか)。

文字や記号に色彩を感じるとはいえ、私の場合には文法を文法として解すことがないと自覚する。
見掛けの文字の刺激が強過ぎて(共感覚の刺激ではない)読みづらいこともあるが、それより何より、
目の前で文字が整然と並んでいても文字が整然と並んでいないと感じる。(此れは謎々ではない)

仮に文法的な順序を守って読書をしたとすれば、宙に浮かぶ大小の光を両腕で掴むようなものだ。
網膜にはそれなりに平面らしく映っている文字が、何故にして空間的に姿を変えて感じられるのか。
本人も不思議でならないが、他人にとっては更なる疑問であり、其れがしばしば誤解を生むことも。

付け加えておくが、"器用に"ジグザグに読むことで私は何とか対処している。書く時も同様である。
普通の人々と同じ読み方をすれば、数分と経たないうちに私は宇宙の中で"溺れる"ことになるため、
判り難い文章はそのまま放置し、文法上のミスは適当に想像することで"海難事故"を防いでいる。

もしも、私の文章を書かれたままに受け取る人が居れば、自他共に災難に遭うことも在るには在る。
過去にもそんな例に数多く遭遇しているため、言い方を変えれば文字色に感謝しつつ矛盾を感じる。
人間の脳の複雑さや精巧さを思えば何のことは無いとはいえ、人の感情も同様の側面を持つのだ。

時折、共感覚者の中にも言語の歴史と文字の色の間に強い絆があると話す人々が居て私は戸惑う。
果たして本当にそうだったのか。多面体を一方向から眺めていても、答えは曖昧なものに過ぎない。
文字も空間も共感覚も、普遍なようで居て特殊である。何れの現実も、"今"を経験しているだけなのだ。

la vita
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  1. 2010/08/21(土) 23:51:50|
  2. もじいろ おといろ
  3. | コメント:0

許された色彩に問う

文字→色について、周囲の共感覚者と対話していると、溢れんばかりの疑問に遭遇する。
ヒトはどのようにして文字を見たり、言葉を理解するのか、また共感覚はどう係わるのかetc...
"遠くて近しい"他者を知ることが自己理解につながるのは紛れもない事実だが、ある意味、
多様な共感覚(者)の只中に在っては総てが飽和状態に飛ばされたかのような心地にもなる。
それが文字→色という、一見"有触れた"様相を持つ共感覚であっても宇宙は果てを知らない。

あくまでも自分の場合だが、文字色=言葉そのものであり、色がなければ意味を成さない。
言語的な内訳で行けば、幼少期に生活言語として学んだ日本語・オランダ語に関して言えば、
色彩のみならず、形で文字を読もうとする傾向もあるが、私にとっては逆にややこしい事実か。
何しろ、形→音→意味と理解するプロセスが"永久の通行止め"を其処此処に抱えているため、
原感覚的な文字へのアプローチそれ自体が、大よそ言語機能として作動してはいないのだ。

先に挙げた"宇宙語"を平坦な"地球語"に置き換えるなら、読字障碍が文字の形そのものの
理解を困難にしているということになる(視覚的にも、音韻的にも字形→音には距離を感じる)。
"話せるのに書けない"現実も、実を言えばキコクの3文字で私自身ずっと片付けてきたらしい。
知覚的な、すなわち先天的・遺伝的要素による特徴だとは考えもせずにいたのは妙な話だが、
恐らくは、ヒトの認知機能になど目にもくれない日々を送っていたことがその素因ではないか。

というのも何も、日本社会でキコクの3文字の"毒素"があまりに"効果抜群"なこともあってか、
思春期特有の自己認知の問題に関しても、「多分、これもオランダで"もらった"何かだろう」、
程度の意識で須く認知したつもりになっていた(これで私の能天気、いい加減さもバレてくる)。
実際、オランダの学校教育によって私の共感覚が死なずに済んだのは、彼等の文化土壌が
私の感覚世界を丹念に守ってくれたこともあるが、そうは言っても、根本は別の空間に在る。

帰国子女というのは、マイナーな国に行けば行く程、"強毒性"の素質を育ててしまうのか、
通常共感覚者が抱える孤独感の幾らかを、私は知らずに(或いは破棄して)今に至っている。
本来なら共感覚者の苦労として数え上げられる筈の部分さえ、私は"オランダ帰り"とみなし、
周囲もそう信じて来たのではないか。それがゆえに誤診に遭ったりもしたにせよ、共感覚や
読字障碍といった側面は、20代後半になった私に思いがけない"啓次"を与えてくれた訳だ。

文字→色の話に話題を戻すと、私が英語を如何にして学んだかは大よそキコクらしくない。
確かに外国語の発音を聴く基礎だけは小さい頃に身体が覚えた要素だろうけれども、現実、
話し言葉と書き言葉には、言語に関係なく"国境"を見ている私は実に奇妙な路線を選んだ。
"文字色で読み飛ばす"という反則技を、いったい誰が考えるのか。私以外には聞きもしない。
共感覚の色と言葉の意味を繋げることで、文字の形の歪みに気付きもしなかった訳である。

これは高校卒業後の浪人時代、夜更けに暗がりで"毒書"する中で編み出した抜け道であり、
どこの参考書にも書かない方法(いや、書けない)。何せ、文法を無視するのが鉄則なのだから。
言付けをきちんと守るような秀才に馬鹿呼ばわりされても構わないが、不必要な文字の色を
"適度に見落とす"ことで、脳に負担の掛かる読字作業を多少なりとも"合理化"したということ。
後に読み方を改良するまで逐語訳が出来なかったというオチはあるが、それで総て事足りた。

こういうことを書くと、あたかも共感覚が優れているかのような印象を与えてしまいがちだが、
他者と決して共有することが出来ない手法ということを承知の上で私はこうするだけである。
共感覚で、頭が良くなる、記憶力が上がる、といった上乗せされるポイントは皆無に等しい。
それに現実を申せば、元々、文字→色や文字の歪みによって私は夥しい片頭痛を経験する。
人と違うだけでなく、痛みをも覚悟の上での独自の読字法は、然も毒々しい負荷を併せ持つ。

"What is your colour?"と仮に色で読めば、音としては「ワ、ヨ、コゥ」程度しか聴こえない。
色彩で意味を理解し、そこから初めて発音に繋げ、再び発音の共感覚で言語理解を強め・・・
といった迷路のような道具を使っているのは、今此処で言語化してみるとどうもみすぼらしい。
がしかし、私はこの方法をこの上なく愛している。なぜか。誰にも邪魔されずに済むからだ。
人と違って生まれたにせよ、許された感覚としての共感覚に有難みを覚えるのはこんな時か。

Ja, inderdaaaaaaaaaaaaaad
  1. 2009/11/23(月) 00:28:46|
  2. もじいろ おといろ
  3. | コメント:0

The Dancing Act II

文字→色の共感覚アート、これは私にとって無限の可能性を秘めた行為に思えるものだ。
言語、文字の種類、読み方、発音、並び方、日々の見え方etc.・・・この豊かな知覚世界を
もたらしているのが一方では私自身の持つ障碍に在ると認知しても、その"見返り"は多い。
言語の持つ本来の目的から遥か遠くに飛び立つことを許される瞬間、と言えば良いだろうか。
そのプロセスは至福であり、悲しみがあり、それでいて平凡だ。がしかし、カオスでもない。

一般的な文字認知の仕方、出来ればこの私も一生に一度は追体験してみたいものである。
黒字の文字を読んで音と意味を理解する、とは如何なる幻か。それこそ、"得体"が知れない。
厳密に言えば、私の文字認知は共感覚なしではほぼ意味を成さない。そう、色彩のみならず、
歪んで揺れ動く文字を掌でつかむざらついた感触や、舌で味わう滑らかさ、総て必要に思う。
どんなに「楽だ」と"唆されても"、私の脳には普通に文字を読む"隙間"が残されていないらしい。

無論、共感覚は新たに付け加えられたものではなくて、元からそこに在ると考えるのが妥当で、
引き千切ってみようと思えばこの私にも出来る筈だ。意味の理解を放棄する、という条件の下で。
私自身、共感覚と種々の障碍は地続きだと思っている(その大半は自意識の問題でもあろうか)。
それゆえか、文字をアートで表現する時にそういった非言語的感覚世界に没入していくことには
何等違和感も覚えないものである。そして、それが異常/正常で二分されない事象だとも感じる。

普段からこうして見えているともなれば、アートと現実を敢えて別物と思うこともなくなるのであり、
ともすれば、自分の知覚世界の方が余程芸術的な色彩を感じさせてくれる時がない訳でもない。
現実の生活の中では、時間の関係で"芸術鑑賞"は程々に抑えるものであり、美しさに浸るなど、
到底叶わぬ夢である。何しろ、言語そのものへの道のりが人より長いので、常に走りっぱなし。
脳内で"何か"が底を尽きた、と自覚出来る程に一般的な読字の作業は困難を極めるものである。

はて、こんなブログで書いて居ればそうは気付かれもしないが、私は普通には文字を扱えない。
このサイト内の文字の色が一様に"薄味"なのはお分かりだろう。そして、五行区切りということも。
自分で書いたのにまるで読めない、という(半ば恥かしい)事態に日常的に遭遇しない訳でもない。
印刷の色の濃度によっては、2・3行ごとに改行しなければ海に溺れた気分を経験するものであり、
仮名文字が増えれば眩しくて目を閉じてしまうだろう。これは共感覚ではなく、障碍所以の現象だ。

そんな人間が文字→色を表現するのは、果たして単なる皮肉の現われなのか。それとも偶然か。
本音を申せば、そのどちらでもなく、どちらでも在る。"文章を書く=覚えた色彩パターンを並べる"、
という翻訳手段を日々(努力して)使うことがなければ、ある種の有難みも覚えない筈だと感じる。
私の場合、無防備なままに30分間まともに読書すれば頭痛や吐気が起こる。だが、悲惨ではない。
痛みの一方では美しい色彩で感じられ、そういった"逸脱"が文字のもたらす威圧感を妨げてくれる。

とっくの昔に読書を"苦手なもの"にして表向きの健康を保っても良かったが、私はそれを拒否した。
知識と美しさを渇望するのは人間の根源的な欲求ではないか。恐らく、学校時代の友人・教師には
読書好きとして認知されている筈だ。紛らわしい事実だが、私自身、このことはどこかで誇りに思う。
共感覚アートと読書の関係で言えば、私は漱石の著作が最も好きだ。漢字の並びの美しいこと!
そうして振り返れば、私の文字への審美眼は文学とはまた別次元に生きるとも思えて来るものだ。

今時珍しく兄弟の多い家族で育ったこともあり、良いもの・美しいものは分け合いたいと私は思う。
自分だけが文字の色を楽しんでいるなんて、どこか意地の悪い話。そうとも考えられないだろうか。
当然ながら、周囲の人間が私にとっての読み易い環境を知っている訳ではないが、だからと言って
そこで捻くれるだけなのもおかしな話。"ヘン"な自分の世界に周りを巻き込む位の心意気で居たい。
創造的であることと社会的であることは相容れないのか。何れ、後半の言い分は塗り替えられよう。

Flames revealed
  1. 2009/10/25(日) 17:30:01|
  2. もじいろ おといろ
  3. | コメント:0

塗りムラの姿は隠されるのか

ふと思い立って小学校の頃の作文ノートを開いてみたら、何とも奇妙な気分になった。
清書したはずなのに主語の居ない文章、いったいどんなつもりで私は綴っていたのか。
舌足らずの3歳児がそこで一生懸命に話しているような状況。切なくて、とても懐かしい。
こうして今ブログを書いていれば、どのようにして歩いて来たかさえ伝わらないだろうし、
何事もなく到達したはずだと自分でも信じたくなる。実際には道の数が増えただけでも。

私が虫食いパズルのような作文をしていたのは何も学校に上がってすぐの頃ではなく、
小学校3年生も終わろうとしていた時のこと。当時の記憶は鮮明に残っているのだが、
あれらを思い出せるのは楽しいからではなくただ単純に苦しかったからなのだと感じる。
そして、今も厳然と対面する問題であるがために、決して忘れることがないのだとも思う。
表面的な"何か"が如何に脆い存在なのか、つくづく考えさせられる事象でもあろうか。

ちなみに、上述した作文ノートとは、日本語ではなくオランダ語で書いたものである。
唯一私が"まともに"評価を受けたのは詩を書いた時。何もこれは偶然ではないだろう。
読字障碍と一口に言えど、現実には様々なタイプが存在していて"これだけ"と言った
明確な境目のない障碍なのだと思う。これは共感覚の従兄妹のような関係にもあり、
幾つかの層に亘ってグラデーションが重なって出来る、ある種の"環境条件"と感じる。

普通の文章で綴るとなれば、当然日本語の方が"共感覚的中率"は格段に高くなる。
逆に、韻文ともなれば漢文やオランダ語の方が私の場合には都合が良く、運も良い。
共感覚としての色彩の並びを考慮すればこれは至極道理に適った話なのではないか。
動詞の活用語尾の色に法則があること、韻を踏めば色が同じになること、何れの場合も
仕事量が軽減されるので言葉の意味そのものに集中出来て、非常に効果的なのだ。

同じ詩の範疇であっても、逆に日本語の俳句・短歌が含まれないことを考えるならば、
私の場合には共感覚の情報量の多さが逆に言語理解を阻んでいるという事実も判る。
言語の得意・不得意というのは、何も文化的な条件ではないのだと私は考えており、
経験上、人の倍の努力をしても成し得ないこともあれば、苦労なく達成することもある。
ヒトの持ち得る能力というのは、実際には"断面"の偏り方を見ているだけなのだろう。

共感覚を知覚する、という始原に立ち戻るならば断面の切り方には慎重になるべきか。
というのも、共感覚を言語変換するからには現象的な脆さも考慮に入れねばならない。
一方で、文字が歪んで感じられる私からすれば共感覚は"感覚以上の感覚"でもあり、
時に不確かな様相を持ち合わせてはいるものの、信用出来る相棒とも言うべき存在。
本人にとってどう感じられるのか、結局はそこに論理が絞られていくのかもしれない。

学校という空間から遥か遠ざかろうという時期に共感覚を知り、読字障碍はつい最近。
今だから冷静に見つめられるのか。いや、心の穏やかでない自分によく遭遇している。
話すように書け、と必死に頭に言い聞かせながら文章を綴る日々は現実のものである。
方程式の解き方を順繰りに覚えて来ただけなのだろう。未だに筆の運びはぎこちない。
感じることと表現することとの隙間を埋めていくこと。何人にとっても恒久の課題だろうか。

Welke wereld heb je gezien?
  1. 2009/07/21(火) 01:03:23|
  2. もじいろ おといろ
  3. | コメント:0

地下世界からの主張

文字や言葉の感じ方には、人口の数だけ方法論が存在するのだと私は常々感じている。
何もこれは共感覚的な意味合いだけではない。書き方、読み方、使い方・・・言語は無限だ。
しかしながら、普段の生活の中ではこの"不都合な"現実の姿を見過ごしてしまうこともある。
というのも、人間同士の対話は共通項を当てにしなければ成立しない。相手にどう伝わるか、
これを考え始めると、途方もない宇宙の果てに飛ばされたかのように錯覚することもあろう。

この世の中に、自分の操る言語表現が絶対的で完璧なものだと思える人はいるのだろうか。
当然ながら私はこれと正反対の地点から世界を眺めている。そう、"絶対的"に自信がない。
それなので、こうしてブログを書いていながらも自分の文章に対する愛着は一向に持てず、
不確かな共感覚の感触を頼りにした文章が表面では成立していることが不思議でならない。
言うなれば、言語に関して自己愛がなさ過ぎる。かと言って表現を止めようとも思わずにいる。

小さい頃からずっと文字が読み難かったにもかかわらず、なぜ最近まで沈黙していたのか。
例えば、他者の書いた内容と自分の思考・経験することとの関係性が理解出来なかったり、
空間的に感じる自分の考えを二次元世界の文字に落とし込むことにいつも難しさを感じる。
要するに、私は知識を基に自分の感覚や障碍を認識出来ずに過ごしていた訳なのであって、
それを言葉に出来たなら、苦労という苦労もなかったかもしれない。偶然、且つ必然とはいえ。

そもそも、ディスレクシア(読字障碍)という事態の説明そのものが未だに私はしっくり来ない。
なぜなのか。文字が"正常に"見えている人の視点からの説明がほとんどだからだと思う。
後天的な疾病や片頭痛などの一過性の症状によって文字が読み難くなることを参考にして
初めてこの障碍の実態が世に知れ渡ったことからするに、生まれ付き読み難く、成長しても
ずっとその状況が変わらない人にとっては、訴える方法が最初から存在しないとも思えて来る。

私からしてみれば、時々読み難くなる程度のディスレクシアは距離感を覚える世界と感じる。
決して大袈裟なのではなく、落とし穴の中から上に広がる空を眺めていた私からしてみれば、
地上の世界も見知っている人々は別世界の住人と思われる訳である。果たしてどうだろうか。
言わずもがな、共感覚者が自分の共感覚を認知するまでの期間も同じような事象かと思う。
無論、共感覚は感じるもので、出来る・出来ないの話ではないがその窮屈さは似ていよう。

大方の人間には文字が整然としていると知ってから、共感覚の見え方に興味を持っている。
他の共感覚者との交流や国内外の文献と通してそれはたくさんの事実を知ることとなったが、
あまりにも自分の文字の見え方に一般性がないことに、正直、驚かずにはいられなかった。
大きな発見だったが、一時は自分の感じる文字の色が本当に共感覚なのかと疑ったほど。
一言で言えば、私は色の道草を喰って識字のプロセスで寄り道し過ぎているのだろうと思う。

もう今となっては共感覚者同士で知覚形態が違っていると知っても、そうは動揺しない。
寧ろ、いろいろ在ると分かった方が嬉しいし、思考の手段にも幅が生まれて来ると感じる。
元来、人間が創造的な素質を兼ね備えていなかったらどれほど人生つまらなかったことか。
幾つ在っても現実は現実。世界の認知の仕方を在る・無いの二項対立で捌けるはずがない。
言語に在る相対性を忘るべからず、そんなことを文字の共感覚が我々に語るのではないか。

Wie, wat, waarom?
  1. 2009/07/17(金) 00:45:17|
  2. もじいろ おといろ
  3. | コメント:0
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