seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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いにしえの光たちへ

未だかつて経験したことのない天災が起こった。そしてそれに続く"想定外の"事故も。
事故は別としても、此れを読む彼方は果たして地震や津波を何時感じ取ったか尋ねたい。
揺れが始まった瞬間、或いは、地球の唸り声を見聴きした瞬間のどちらなのだろうか。

イルカや鯨を初めとして、動物が地震の前に異変を感じるのはよく知られたことである。
では、人間たちはどうなのだろう?揺れて初めて気付くだけとは、この私には到底思えない。
地表の奥底から響く呻きは、何も地獄耳の為に残された手段でもなければ、妄想でもない。

通常の可聴領域の際に聴こえるような音を動物たちは確かに聴き取り、そして"形"に残す。
逃げるものも在れば、感覚の狂いに苛まれて無残にも海辺に打ち上げられてしまうものも。
此れは至極正直な反応であり、私からしてみれば驚嘆する事実ではない。寧ろ、必然である。

自由意志を持った人間がそうした音を見たり聴いたりしたら、どんな軌跡を描くのだろう?
現に、事の起こる数日前に聴覚が急に過敏になり、地震や津波の前兆を音・光・痛みとして
確かに感じ取っていても、逃げるという発想には及ばなかった人が此処にいる。何故なのか?

人間の住まうこと、そして生きること。此れは動物の其れとは大いに異なる場合が殆どであり、
現代人の"ライフスタイル"となれば、哀しいかな、まるで別物である。然し、何れも生物足り得る。
空間に宿る概念を論じ、其れに愛着を感じ、住まうことを考えるのは何も建築家とは限らない。

動物にも縄張りはあるが、社会生活や文化と契りを結んだ人間が所有する土地との関係とは、
また別個の事象であるようにも感じる。だからこそ、天災の発生は避けられないと思いつつも、
現実に起こって欲しくないと願い、資財の損失を補償するシステムの構築に期待する訳である。

こうした絵の裏側には物質と人間との関係性が見え隠れする。生への愛着とモノへの愛着とが、
綯交ぜになるのが人間の性の一つであり、ただ生きていよう、この目で現実の姿を見届けよう、
という考え方とは其れは少々掛け離れたもののようだ。はて、此処で少し立ち止まってみたい。

"感覚"の入り込む余地は何処へ?感覚することも、本来は人に許された行為ではなかったのか。
日々不自由なくモノを手に入れたとしても、其れで満ち足りる訳がない(欲望とは可変である)。
その代わりに重苦しい音を身体に感じて、何かが失われる悲しさに涙を流しても良いだろうか。

何の為に自分が悲しいのか判らずに居た人が、ある瞬間にハッと気付く。事は起こるのだと。
自分だけ、家族だけ逃げてしまって良い訳がない、そんなに卑怯なことが在ってなるものか!
人間たちが積み上げて来た"自由な不自由さ"のツケを払うまでは目を背けられる筈もない。

そんなことを感じ考えるのは、天災ではなく人災によって一度は死の存在を垣間見たからなのか。
自然の齎す脅威も計り知れないが、人の過ちの造り出す死ほど重苦しく理不尽なものはない。
が、今の瞬間もそうした行為が時々刻々と進んでいる(何も此れはリビア情勢のみならず)。

無論、天災は天罰ではない。(仮にそう考える者が在るならば、動物の感覚など虚構となろう)
地球という生き物、自然という存在を肌身で感じる者には此れの意味が殊の外強く感じられる。
不気味に色づいた光が、痛みが運んで来たのは災いそのもの。然し、其れが自然の姿のようだ。

敢えて、共感覚という言葉は出さずにおいた。当事者の感覚とて多様であり、測り知れない。
地震波を色や光でずっと感じて来たからこそ思うのは、感じる者にも何も出来ないということ。
ただ純粋に感覚すること、痛みを味わうこと、その現実の姿を風化させぬよう生きて行きたい。

諦念という言葉を借りるのはこの状況下では不謹慎だろうか。然し、此れ以外に言葉を知らぬ。
過去に苦しんだからこそ感覚するのであれば、何も不真面目ではない。寧ろ、真摯な認知である。
家族や仲間以外に信じようのない光はこれから何処へ向かうのか。暫し、その行方を見届けたい。

zzzzzoommm....
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  1. 2011/04/13(水) 23:31:06|
  2. おとをみる いろをきく
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平面への憧れ、空間への望郷

文字に色を感じる共感覚。色聴と共に、もはや共感覚の代名詞的な存在なのではないか。
他の共感覚者に「どんな共感覚を感じますか」と尋ねれば、文字→色、音→色・・・といった、
非常に"分かり易い分類"をもって説明してくれる。当事者間では挨拶代わりにもなる事柄だ。
がしかし、文字→色や音→色の共感覚はある地点に到達すると疑問を生じさせる話ともなる。
というのも、"色"だけを純粋に感じているとなれば、どこか不自然なこととはならないか、と。

人類が文字を使っているのは高々5千年程度と言われているが、現代の日本社会に居ると、
ともすれば文字の読み書きを行なえること自体が"標準"となり、疑うこともなくなってしまう。
具にたどっていけば自明なことだろうが、文字そのものは"言語を演じる形態"に他ならない。
そして、純粋に歴史を溯って行けば文字→色の共感覚が新進気鋭の部類に入ることも判る。
文字表象を使うことなしに、この共感覚は生まれ得たのか。果たして、現実は何を語るのか。

注意深い共感覚者ならばとうに気付いていることだが、文字→色の共感覚と一口に言っても、
発音→色から派生した色であったり、純粋に形だけに色彩を知覚している場合・・・と様々だ。
純然たる連想とはまるで別物だが、言葉そのものに宿る人格・イメージの色彩が他の表象に
跨って同じ共感覚色として現れることは、数の概念→色といった部類からも理解出来そうだ。
"Actually, where do you come from?"と共感覚の出自を問い直すことは興味深い。

子どもの頃はより強く、多くの共感覚を感じていたと口にする共感覚者は殊の外多いもの。
私含め成人以後に逆に強まるような例は無きにしも非ずとはいえ、大概は前者ではないか。
"共感覚"という用語の下に自らの知覚を認知するのが何時なのかも関係するのだろうが、
地が固まる前の共感覚の飽和状態を追体験するような機会は、別の意味で新鮮さを持つ。
太平洋プレートの移動とまでは行かなくとも、共感覚は時と共に"動く"知覚現象だと感じる。

本来、五感の壁を知らない世界で起こる共感覚である。私からしてみれば、文字→色で言う
色彩は世間一般で考えられている色彩とは大よそ異なる閾に住む代物と思えて来るものだ。
では、いったいその色彩は何物で、なぜ"色"だと言えるのか。なぜ"別物"と感じられるのか。
共感覚の色とは光であり、そこには温度や質感、重さ、感情が在る。と同時に、同一性が在る。
がしかし、色相のような社会的な色彩の概念とは相容れない点では似て非なる色なのだろう。

複数の感覚情報が出合って初めて共感覚は生まれる。実験等で「この文字は何色ですか」
と尋ねられた瞬間というのは、現実には国境を跨いで行き先を決め兼ねている状態に近く、
"文字には色もあれば、質感もある。この文字には味と空間性があるので特定の色はない"
と答えても構わないのだが、この回答がどんな結末を生むかは触れなくても明らかだろう。
"何色"と言うにしても、全体的に見れば共感覚情報の数%だけに留まっているということだ。

そういう点では"文字→色は感じますか?"という質問自体、"木を見て森を見ず"なのだろう。
私自身、文字を含む2次元平面の統合画像が上手く見えていないことも関係しているのか、
初めて共感覚者とこの"挨拶"を交わした時には、何か決まりの悪い思いをしたものである。
文字の共感覚を一般的な色名で語るのはどこか"フラット"で、寂しさを覚えるものではないか。
共感覚者間では、せめて囲いを飛び出したい。現実の世界へようこそ、と言わんばかりに。

mayoeba mayou hodoni
  1. 2009/09/19(土) 17:24:06|
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その崩壊が生み出すものⅡ

視覚に聴く空間のリズム、私はこれを音の共感覚として知覚しながら日々過ごしているが、
そこには"定性なるもの"が何一つ存在しないかのように見える。無論、それはミクロの世界。
段々と視野を拡げてゆくと、生成と崩壊を繰り返している空間も言語を持つのではないかしらん。
多面的に空間を考えるうちに姿を現す粗もあれば、瞬間的に差し込む光の筋もあるということ。
あらゆるベクトルで交差する音の連鎖。秩序や完全性から少し距離を置いてみるのも美味だ。

ずっと昔に、純粋な意味での工学的建築を背にして音楽史の世界を旅してみたことがある。
実際に譜面と楽器に埋没していたあの頃だから、図面の宇宙はそこまで絶対的ではなかった。
今でこそ、"よくもそんな蛮行を悠長に!"と自分に矢を向けたくなる感情も生まれ出づるが、
当時15、16だった小娘は恐れも知らずに建築と音楽を共感覚で料理しては楽しんでいたのか?
こんな過去がある割には、その後の生き方に回り道が多いとも感じられる。実に愚かな奴だ!

と、マイナーな懐古主義に浸っているだけでもよいが、それがこれを書く目的ではないのさ。
一般に言う、聴覚情報主体の音楽と視覚・触覚情報主体の建築の間を双方向的に運くことで、
私の中で知覚される共感覚も多様な表現手法と出会ったのではないか、と今になって思う。
普遍的図式の中で物事を捉え始めて、少しイイ気分になってその後も一点に留まっていると、
悲しいかな、創意も単なるジョウイとなって膠着したモノと化すことを過去の失敗から実感する。

動的な均衡状態とは何たるや。有無を言わせぬ変化を迫られた時によく自問自答することだ。
時として不条理な様で変化を遂げてきた音や空間の史実が私を助けるのは言うまでもないが、
いずれも実世界では遍在しているのだから、一先ず空間の側から歩き出してみることにするか。
あたかもル・シャトリエの原理の上に成り立つかのようなこの発想、あまりに不純ではあるが、
地球の縦横に跨る共感覚現象は尽きる所、そういった"異端"の塊なのだと言い切ってしまえ!

巨視的なまとまりを持つ空間世界に何がしかの外的変化を加えることで平衡状態が崩壊する。
建築史の中の不易流行の推移を見ながら、実空間に耳を傾けているとそう感じなくもない。
何せ、私の脳ミソの中では空間が客体の物質による視覚・触覚現象を介してのみ感じられる
訳では決してなく、共感覚としてはリズムと形の変移によって楽劇が演じられているのだから。
そんな空間音楽の中で、時たま二律背反に出くわすことがある。物事の分岐点と言えようか。

単一なリズムを意図的に崩すことで創出されるデザインが、次なるモードとして取って代わる。
一つの建築や都市空間の中でも当てはまるが、時間的枠組みからこの話を捉え直し始めると
より奥深い森に突入していくことにもなろうか。建築史の流れを音の共感覚で考えるのは、
どだい無茶な話。がしかし、音楽はそこに留まらないのだから、4次元空間では黙り込むだろう。
演奏なしの空を音楽と呼べるのはφの生きる論理世界。実空間では"間"の次に来る者がいる。
(続く)

drrrrrrrrrrrrrrr................
  1. 2008/09/21(日) 10:43:39|
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演じる音、感じる色

たまたま手元に届いた、中学校の部活の同窓会のはがきが一枚。色を重ねた仲間たちから。
何とも言えぬ懐かしさや嬉しさに昔日の記憶に思いを馳せてみる。音楽は、永遠の絆だもの。
今からひと昔前に、私は一人の中学生として合唱に明け暮れる日々を送っていたのか。
思い返すだけで、感慨深い気持ちになってしまうのは、はて、なぜかしらん。しばし立ち止まる。
共感覚のキの字も知らずに、毎日色を求めて仲間と歌い続けていたのだから、不思議だね。

日本語の響きが迸る色の蒸気の如き存在に昇華する、歌うことはそんな喜びと冒険。
それも、たった一人の歌声だけではないのだから、私にとっては化学反応のように楽しい。
音楽を聴くことは今でも日々の習慣なれど、音を描く演者の一員となるのは感動的なことだ。
季節の気候、日々の天気が織り成す人の声の繊細さにまた別の旋律が流れ出すほど。
幾重にも重なった色の記憶、これは本来は私だけが築いたものではない。仲間に多謝!

そういや、妙な記憶がある。顧問は当然音楽の先生だったが、彼女の言葉で忘れぬことが一つ。
とあるオペラ歌手の声が「黄色で気持ち悪い」と言っていたのを覚えている。無論、この黄色が
一般的な意味合いでの"黄色い声"ではないのは当たり前。当の歌手は男性歌手だものねぇ。
後の日に、その歌手のCDを視聴してみたら私にはどうにも紫色の声にしか聴こえなかった。
彼女の当初の意図は、歌い方と声の色の関係を説明すること。何ともおもしろいお話だこと。

今度同窓会で再会したら、彼女に音の色について語ってみようかな、とふと思うのでありました。
自分の中学時代は決して明るくはなかったものの、音楽の光に満ちていたから幸せもそこに。
日本語の美しさを共感覚として噛み締めていた頃が今となってここまで愛おしくなるとは!
人の作りし楽曲を丁寧に紐解き、音の一粒一粒を演じきるのは掛けがえのない行為なのさ。
何かを造ることばかりに目を向けるだけでなく、造られたもの等に目を向けると爽やかさを感ずる。

In the forest, you'll find the nest...
  1. 2008/08/07(木) 23:10:09|
  2. おとをみる いろをきく
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プロセスを縫って生きる

初めて聴いた外国語の発音をその場で再現することにはそれなりに自信があると思う。
共感覚として知覚した色や形に対して顔中の筋肉がちゃんと呼応してくれるのであれば、
という条件付ではあるが、緊張感を持ってリスニングに臨む時は身体全体で聴くようにする。
真剣になると自然と頬や口のあたりが動き出し、指先が形をつかもうとしていることも。
しかし、シャドウイングといったリスニング技術としての効果はゼロ。意味には到達していない。

一方でそこまで得意ではない聴き取りもある。楽曲の歌詞を聴き取ることなどがそうだ。
共感覚としてのメロディーラインや音色を追いながら音程を把握しつつ、歌詞の色を見ている。
一回でまともに聴き取れたことがこれまでどれくらいあっただろうか?片手の数えても事足りる。
日本語だろうと外国語だろうと、音と言葉の両方まで網羅しようとすれば混乱に終わるもの。
うるさい色の飛び交うカラオケで歌など歌えたものではない。あれだけは本当に御免被りたい。
それ以前に五感で感じる視覚もあるのだから、精々ゆっくり生きて色を楽しんでやろうと思う。

当事者本人にしかわからない共感覚なのだが、孤独な割には出会えるものが多い。
音と歌詞を同時に覚えるのが苦手なのに合唱が好きだったというのも、何だか笑える話。
オランダから帰国後の6年間、合唱を通して日本語の色や形を見て味わっていたことがある。
歌詞を覚えるのが異様なほどに早かったのだが、それは何も記憶力の問題ではない。
音程と一緒に暗譜することができないから、共感覚で"分業した"というだけのこと。

音は音で楽しみたい、そう思うことがよくある。それが言葉であれ、自然の音であれ。
厳密な意味で共感覚なしに音を聴き、尚且つ快感を味わうにはどうしたらよいのだろうか?
共感覚のない世界=死の世界、と感じる今の私にとっては矛盾するとはいえ、夢に見る。
これは贅沢な悩みなのか。共感覚者としての感覚や感性を持ったままには達成し得ない。
私がどんなに想像し尽くしても、それは借り物に過ぎず。虚構では意味がないもの。

それならそうと観念して、唯一無二、この言葉の袂で雨宿りして生きてみようか。
秘められた色に誰が気付くというのか、いや誰も。言葉にせず、色のままであれば
激しい想いも何もかも、社会のシンボリズムから解き放たれて在るがままに飛び跳ねる。
意味が生まれる前の言語、言葉になる前の色彩、そんなものがあってもいいと思う。
ものを生み出すのは何も結果だけではなかろう。中間生成物として生きる共感覚に幸あれ。


彩りは君を想う
  1. 2008/05/12(月) 23:16:28|
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