seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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揺れる戯言師

時として常識は儚いものと化すらしい。少し前のこと、或る人物からこんな質問を受けた。
共感覚が有るのは煩わしくないのか、と。この純粋な問いには罪も無ければ裏も無いだろう。
そのような知覚の状態の存在を知って摩訶不思議な感覚を覚えるのも私は何処かで頷ける。

通常揺らぐ筈のない事象や状態を疑うのは、其れが反証される何かに出くわす時であり、
出来ればそうした"非常事態"は避けて通りたいもので、頑固者であれば認めようともしない。
事実、一般社会はそれで成り立っているのだから平和な日常をわざわざ侵すこともなかろう。

言うなれば、共感覚は人間間の常識を打ち破る存在であり、此れは当事者同士でも同様だ。
一方で、一個人の内部における常識・観念を覆す事象や変化にも巡り会うことがあると思う。
何れに対しても無知の知を自覚することで、世界は別の様相を呈して来ると言えるのだろう。

ともすれば、予期しない状態と対面するのは不快で、不安を呼び起こし、己を盲目にする。
何時の間にか構築された"安住の地"―またの名を思い込みとも呼ぶ―に踏み留まろうとして、
かえってアンバランスな選択肢を採っている、なんて事態も現実に無いとは断言出来ない。

一方で冒険心と好奇心を掻き立て、我々を否応無く引き摺り込む新しいものも、他方では
猜疑心を募らせ、事実を知ろうとする心の行方を阻む。彼方は何れの道を択ぶだろうか。
どちらも一理あり、妥当である。然し、偏りとは終着点を目指し、生み出さぬことがある。

共感覚の有る状態とは、常に定まらない何かに身を委ねることだと思うことが良くある。
恐らく、数種類の共感覚だけであったならそこまで揺れ動かないだろう、"触角の多さ"が
此のやけに心地の良い不安定を齎す。何かに"心奪われている"場を生きている訳だ。

新しい出会いをひたすら拒むのも生き方の一つだが、可変な姿を生きる手段も無くは無い。
其れは"ソフトやハード"を更新するかしないかと同様の話であり、時に熟慮を要すること。
未知の事は痛みを伴うにしても、揺らぎを慕い求める外ないと感じるのが此の私なのか。

一度過ぎ去ったものは決して遣って来ないのであり、どんなに大切に思い遣っていても、
揺らぐもの等は何時だって違う方角を目指している。逆に、踏み固めれば失うものも有ろう。
他に喩え様のないこの様態を仮に芸術的プロセスと呼ぶのであれば、此れを私は護りたい。

共感覚を不随意な知覚状態だと定義するならば、此れが如何に切ない意味を持つのかを
当事者自身も自覚することであろう。我は此処に居ながらして、此処に居ないということ。
操縦桿を握るのは内的世界なのか、それとも外的世界なのか。またしても、結末は揺らぐ。

sssnnn
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  1. 2012/02/12(日) 20:49:06|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

見覚えのある優しさと

雨上がりの夜道を歩いて居たら、何処からともなく青いような不思議な光が前に迫って来た。
一瞬驚いたものの、暫く経ってみるとそれが青草の香りなのだと気づく。そしてふと我に返る。
ずっと昔から知っていた筈の匂いになぜ戸惑ったのだろうか?その色も初めてではないのに・・・

たとえ自分にとっては"見慣れた"共感覚であったとしても、こうした再会の段はよくあることで、
後から考えてみると、「何だ・・・」と自分の反応に笑ってしまうような出来事も多々遭遇するものだ。
久しぶりに会った友人に中々気づかないことと類似した状況でもあるが、別の理由も在るのだろう。

文字や音楽といった有り触れた共感覚と比較すると、日常生活で自分の意図とは全く関係のない、
極々普遍的な共感覚は、思い立って観察することがなければその実態を知らぬ"者"も実は多い。
味噌汁の出汁の立体感や、トースト一枚に広がる赤みを帯びたバターの味。至って平凡な存在だ。

普段、「きっと其処に居てくれる」と自分が密かに期待している存在ほど、それが消えた時には
言い表せない程の悲しみをもたらすもの。有り難味を感じていない訳ではないにしてもこうである。
そうした慎みのある"友人たち"が生活を如何に面白く、彩り豊かなものにしているかに気づかされる。

そうした"不義理"が祟って、私は時々驚かされるのかもしれない。「世界はまだまだ広いのだ」と。
幾ら文字の色が綺麗だからって、其れは実はホンの一部なのであり、地の果てまで届く訳もなし。
喜怒哀楽をより一層深くして呉れる彼等を"雑音(ノイズ)"等と呼ばわってはきっと失礼に当ろう。

何時だって美しさはそのまんま其処に居るのだろう。他者が其の意味を良くは知らなくたって
今の私は一向に構わないだろうし、逆に耳を傾けて貰えたらそれはそれで楽しめる気がして来る。
ただ眺めて共に居るだけで、その有余る重厚さに私は押し潰されそうだ。此れ以上、何が欲しい!?

tttzzzzsshhhh

  1. 2011/06/09(木) 23:38:23|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

折り目のゆらぎ

結果かプロセスか、という次元で言えば、共感覚は紛れもなく後者に属する知覚現象だと思う。
付け加えれば、プロセスはプロセスでも微視的な知覚であるし、要素間の関係性も存在する。
当事者にとって確実な知覚であると共に、揺れ動く何かも同時に共生しているのではないか。

これが確かな知覚だという認識は、私の中では決して消えることがないだろう。だが同時に、
不確実性の中にあることも自覚する。時間の経過と共に色や形が弱くなったり強まったり・・・
行く当てもなく揺らいでいる水のような存在でありつつも、否定する必要は感じられない。

夜中に地震が来ると、その少し前に激しい色に目を覚まされてしまうことが私にはよくある。
ナマズでもなければ小動物でもないが、凄まじい黄色と赤色を脳内に感じることは否めず、
ただ天災が遣って来るのを知って、ハッと驚いているだけだ(人間的愚かさと遅さゆえか・・・)。

共感覚がコレコレであるからドレドレの論理の正しさが証明される、といったような事柄は、
研究現場では数値的に示されることはあったにしても、私にしてみれば皆無に等しいもの。
知覚する本人の中では至って平凡な知覚であり、高尚なものとみなすには些か距離がある。

言わずと知れたことだが、共感覚は不随意に起こる知覚であり、意識的な"結果"ではない。
何時、何処で、どんな色や味に出遭うかは脳内に決定権があり、一見強固な文字の色でも
其れは必ずしも保障され尽くしたものとは言えないのだろう。動的な知覚であるならば。

がしかし、不確実な脳の知覚を他所にして共感覚者は贅沢な我侭で身を固めていることも。
共感覚者自身が色や形の海にどっぷり浸かっていたいと望むこともあり、これはさながら、
非共感覚者の中に共感覚を待ち望む者が居ることも鑑みれば、奇妙な話という訳でもない。

ただ単純に同じ刺激を欲する人も居るものの、ある種の不確実さに常時接する不安感から
心地好い音楽を見返したり、眩いばかりの文字の世界を行き来することもあるのではないか。
決してこれは人間的弱さのみにより説明出来る習慣ではなく、いとも複雑な話と言えよう。

"在る"と"無い"の境目とは、共感覚者の私からすればそれほど大きな溝とも思えないものだ。
人体の繋ぎ目よろしく、総ては連続体の中に在りながら始まりも終わりも判らぬ姿をしている。
単純な複雑さの営み。そうした知覚の繰り返しが、やがては色から言葉、空間に生きるのだろう。

aar...
  1. 2010/09/11(土) 19:47:54|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

いきものであればこそ...

時間の共感覚、というものがある。ある共感覚者にとってこれは"時間単位"に感じる共感覚であり、
一方では、これが生物的な時間のサイクルに呼応する共感覚だと感じる共感覚者もいるのではないか。
一見して"時間"とは共有されている事象でもある。共感覚は、如何にして其処に生きるのだろう。

共感覚における時間とは、社会的な意味合いを持つ時間とは一線を画す存在とも考えられそうだ。
なぜなら、これは感覚や感性としてある種の共感を寄せることは出来ても、共感覚それ自体となれば、
如何なる場合であっても共有はされ得ないものだからである。あくまで個人の知覚ということになる。

所謂、時間単位に対する共感覚とて厳密な意味合いから分析していけば、文字→色の共感覚に近く、
何かの意味記号との符合の繰り返しに近いものと感じられる。カレンダーの色、時計の針の位置の色…
これらは共感覚者本人の身体性からは少しばかり距離のある知覚であり、外的世界との関係を示す。

生物学的な観点から言えば、もう一つの共感覚が在っても何等おかしなことではないのだと思う。
つまり、体内時計やホルモン周期等の可変性を持つ"時間"である。それは歪みもすれば消えもする。
言うなれば、日照時間や月の満ち欠けといった"自然界の時間単位"との関係が其処に在るのだろう。

私個人の見方をもってすれば、先に挙げた"時計の色"は然したる重要性も持たないものと言えよう。
逆に、後者の流れはヒトとして生きていくためにはなくてはならないものだと常日頃感じている訳だ。
どちらが脆いかと言えば、当然変化に富んだ後者の共感覚だろう。いとも簡単に消えてゆくのだから。

仮に、夜型になったり生活リズムが奔放なままに過ごしていたら、私の身体の時間性は消え行く。
時計にだけ時間の共感覚を知覚するのは、ともすれば現代の特徴と言えるだろう。そう考えていけば、
共感覚の時間が"共有"されない理由がまた増える。彼方の時間は、すぐ近くに生きているだろうか。

ishi_ni_naru
  1. 2010/02/02(火) 00:26:04|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

感覚的戯れの行き先

自分の感性と知覚体験の関係性について深く問い尋ねて、苦悩することはあるだろうか。
その数珠繋ぎの存在を知って宇宙の果てを目の当たりにしたこと、彼方にも記憶に在ろう。
ふとした瞬間に共感覚者として、いや一人間として気付かされるのは、こういったことである。
感覚そのものと、その上にある人間性。決して"同一"ではないが、相互に強く結ばれている。
時として奇怪な姿を現わす共感覚の世界を振り返ると、指揮棒の振り方に戸惑いを覚える。

共感覚の知覚体験とそれを前提とした感性の行き先。これらは本来は別物な筈なのだが、
当事者として日常生活ではこれ等を敢えて二分して考えるようなことはない。言うなれば、
不可分の関係にあるがために、言語化してみればほぼ判別の付かない状態にもなろう。
とは言うものの、洞察を重ねていけば両者が如何なるプロセスを経て"ここに居る"のかが、
具に見て取れることもあるのではないか。共感覚とは、"習慣の集積体"でもあるのだから。

無論、ここで言及しているのは思い込みやスピリチュアルと言った、似て非なるものとは
一切結び付きのない事象だと断りを入れておかなければならない。現実の共感覚現象は
それこそ自分自身の知覚の問題なので、他者の前世がどうとかいうとのは更々関係ない。
いや、それらより数段地に足の付いた話であり、気の遠くなるようなディテールの事柄だ。
既存の時間性から解き放たれた中で感じられる共感覚には、幸も不幸も意味を成さない。

共感覚それ自体について論ずるともなれば、私の中では場所性の意味も変わって来る。
果ては言語の違いにまでその"憑依現象"が及んで、ただの感覚だけが残るということ。
自分にとっての海外体験が、ごく一般的な意味でのそれとはまったく異なる様相を持ち、
時として国・言語の違いで認知されないのはこの"共感覚的憑依"によるところが大きい。
何語を話す何人という基準を、感覚そのものが通り越してしまう瞬間と言うことにもなる。

しかしながらヒトとしての現実を述べるならば、それは日常生活の部分的評価に過ぎない。
言語の担う"対話手段"としての役割は当然無視出来ず、そのことも併せて突き進むならば
感じる主体と感じる客体、そして表現する主体の存在を認めねばならない。この意味では、
共感覚を感じる"私"は選択を迫られているのだが、実際には幾つかの領域で暮らしていて、
感覚そのものに向かうヴェクトルと構築された感性へ進むヴェクトル、両者が共生している。

そんなひどく複雑な環境条件を振り返ると、一つの像として共感覚者の私が浮かび上がる。
"私は日本語を話す"という感覚が『私は英語を使う』『私はオランダ語を操る』と異なること、
または"音楽の中を歩く"と『音楽を絵に描く』、"文字の色で感じる"と『文字の色を表わす』、
いずれの関係にしても、どんな役柄を演じているかで私自身の生活も様変わりするだろう。
事実、まったく意味不明であるが、私は感覚質そのものではなく私であるという結論になる。

Niks is niks
  1. 2009/10/02(金) 00:43:02|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0
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