seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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点と線、どちらの光か

何の悪戯なのか、私の場合文字のフォント如何で共感覚の光の表情が変わって来る。
明朝体の光は"痛い"のに対して、ゴシック体は"怠けている"などと言葉にしたところで、
現象世界の光がどう動いているのか、他者に事細かに伝わることはほぼありますまい。
されども、これは活字体としての"標準"に収まる光の変化に過ぎないと私は感じている。
手書き文字に感じる共感覚にはそれ相応の重みが在ると思わずにはいられないだろう。

2年少し前に共感覚を認知して以来、長きに亘って疑問に思って来たことが一つ在った。
共感覚のテスト上で目にする文字色は(海外のテストゆえ総てアルファベットの話である)、
どういう訳か私が海外で生活していた頃に見ていた色彩とは大幅に見え方が違っている。
大文字と小文字の色彩に差異があるのも然ることながら、それ以上に光が別物であり、
夕陽を眺めているはずがよく見たら蛍光灯だった、というほどでガックリした記憶さえも。

こんな悪さをした主の正体はフォント、いや書き手の"筆跡"の違いにあるのではないか。
実を言えば、私は小さい頃通っていたオランダの小学校でブロック体を習ったことがない。
使うことが許されていなかったという方が正しいが、筆記体しか教わった覚えがないのだ。
今から考えてみると、かなり古風な学校である。筆記体を、それも万年筆で書いていた。
教科書や色鉛筆同様に学校から貸与される自分専用の万年筆、思えば不思議な話か。

当時の算数のノートには、青い万年筆の"血痕"が幾つも居座っていて不気味な様子。
何もかも筆記体で書き通す経験、日本に居たら決して味わうことのなかったことかと思う。
日本で言えば、小学生が行書体で全科目を学ぶような環境、先ず現代ではないだろう。
一斉授業の形式を採らない教育制度の下では私の共感覚勉強法も存分に活きていて、
異邦人ではあるものの、共感覚の光と影を味わうだけの余裕も残されていたのである。

帰国して通った中学校で"筆記体は難しい"という理由でほとんど書かされなかったが、
懐かしの光に出会えるのなら、との思いから私はテスト以外では筆記体で通していた。
ローマ字を小学校で習わせるにしてもそうだが、それほどに筆記体は難しいのだろうか。
その習慣がなければ気付かないものの、力の加減、筆の運び方は仮名文字と似ており、
曲線的な動きの中で感じられる共感覚はゴシック体では一度として感じたことがない。

色彩的な光としての特徴を述べるならば、筆記体のそれは柔らかく親しみを覚える。
尤も、ゴシック体のように線的に筆記体を書いていてはこうも感じられないものである。
無数に散らばる点と点の間を駆け巡って躍り、果ては崩れていくような感覚というのは
何もアルファベットを書いている時にのみ感じているものでもないと思うのは私だけか。
やはり、共感覚は日常に生きる生物なのだ、と一人呟いては夜明けを待つことにしよう。

Zo, heb je alles gezien?
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  1. 2009/06/02(火) 00:37:09|
  2. 海をわたる
  3. | コメント:0

外側と内側の現実

時折、私はどこの文化圏の人間と思われているのか、と考え直してしまうことがある。
海外経験を隠していても、逆に公にしても、十中八九誤解されるがためにこう思うのか。
よくよく振り返ってみれば明らかだが、私の精神世界は共感覚による文化が中心にあり、
どこの文化圏ともつかない感性の中で生きて来たのではないか。海越えて生きること、
これによって共感覚者としての本分は変わらなかった、そんなことを書き綴ってみようか。

兎角、海外での生活を基準に私がものを考え、言葉を話しているのと思い込む人も多い。
現実にはこれは甚だしい誤謬に他ならず、どんな知識をもってしても正しくないと感じる。
私の中での海外経験は年月にして4年半であり、その濃度も次第に薄まって来ている。
当時のことを鮮烈な記憶として想起することは在ったにしても、特別だという訳でもない。
何しろ、私は海外に憧れを抱く部類でもなく、現実としてのそれを知っているだけだから。

私がいたオランダという国は地球儀を小さくしたような空間で、複雑な環境でもあった。
現代日本よりも余程アジア的な場所に巡り会ったものであり、何だかあべこべだろう。
多数の文化が平和のうちに過ごしている空間である、当地の人々にもその心があり、
彼等の文化を強要されたことが一度としてないのは何にしても感謝を覚えることだが、
あの地での私は日本に居る時よりも日本を感じていたし、そういうものだと思っていた。

実を言えば、「自分は海外にいた」ことを意識せねばならなくなったのは帰国してからで、
あたかも浦島太郎の如く、日本が日本ではないことに逆に疑問を感じ始めたと言える。
中でも奇妙な感覚を覚えたのは、日本人が海外を完全な"他者"とみなしていることか。
少なくとも、共感覚者としての本音を言えば私にとって海外は他者でも自己でもないし、
身体的拡がりの一部として私の感性は地球の表面を生きているのだと感じてしまう。

「ここは日本だよ」と言われたことは何度となく在ったが、その度に強い悲しみを感じた。
無論、共感覚の認知はもっとずっと後のことなので仕方はないが、手や足と同じように
私は海外を知覚しているのである。そうして日本を分ける意味が分からぬままだった。
いや、分かる・分からないの前に体の一部が切り裂かれるような苦しみを覚えていた。
目の前の相手が平然と日本を分別するその様子は、何とも悲壮感を感じる事態だ。

今でも、大よそアジア的とは言えない切り裂きジャックに時々対面することがある。
たとえ共感覚者であっても私の身体観を理解する前に「海外ではどんなふうですか」
と臆面もなく尋ねて来たりするのには、驚きと言うよりかは悲しみを隠せずにいる。
感情を露にすることも出来るが、経験上、私は"海外生活経験者"を演じ切ることで
相手の微分された感覚を覆い隠すことにしている。事実、総ては経験と智だろうから。

共感覚者として海外を生きるのは、ある意味では苦痛を伴うことなのかもしれない。
オランダのような多文化社会ならば話はこの限りではないが、排他主義に従えば、
自らの感覚とは逆ヴェクトルでされてしまうことが多くなる(実際にはである)。
これはつまり、感覚によって存在する感性の世界を他者が刈り込んでいくことによって
意志とは相反する形で自己認知を迫られる、とも言い換えられるのではないだろうか。

実際、事あるごとに当ブログでも触れている私の誤診経験もそんな誤謬に起因する。
今でこそ自分の脳内構造に興味を持っているが、元来私にはそういった習慣はなく、
現象的世界をただひたすらに"生きる"ことで日常が恙無く流れていたような人間だ。
共感覚研究の論文を読みはしても、その総てを鵜呑みに出来る筈もないのであって、
咀嚼するにはそれなりに違和感を覚える状態に身を置いていることも付け加えておく。

確かに、海外経験が発端であちらの文化圏に心身共々自分を移してしまう人もいる。
十代の頃は私とて感覚的苦痛ゆえにそういった生き方に魅力を感じたこともあるが、
現実にそうしたにしても、身体論的に何の変化も望んでいないことに気付いただろう。
オランダという類希な環境下でなければ話は別だったかもしれないが、私の共感覚は
あの地を経験したから、悲惨極まりない誤診を生き延びる余地があったのではないか。

Wie is zeker?
  1. 2009/05/17(日) 22:30:29|
  2. 海をわたる
  3. | コメント:0

マイノリティーへの手紙

この島国から一たび海の外へ出て暮らした者にとって、少数者としての認識は避けて通れない。
無論、例外もあれど、一人間として社会の中に生きるということがツアー旅行と訳が違うのは
然るべき現実なのであり、これが弱者としての自己認識につながることも往々にしてあること。
弱者の視点と言えども、この姿勢が他者に何かを期待できるほどの余裕のある事態でないのは
体験者には自ずと意味がわかるものなのではないか。これは異国に住む・住まぬに関わらず。

日本国内にも地域性というものがあるように、海の外と言えど物事の考え方はそれは多様だ。
他者との関係性の中で築かれた小国もあれば、帝国主義の中でいつしか台頭した国々もあろう。
それぞれの国や地域の歴史性に根ざした文化や言葉、人間性が生まれるのは言うまでもないが、
この総てを書物や数字に変換できた人物がこの世に誰一人としていないのは、ともあれ興味深い。
"努力"の下に体験されたこと以外をも知ったかのように振る舞うのは、ナイーヴ過ぎるのだもの。

マイノリティーとしての自覚、私の中ではもはや消し去る必要もないほどに大きな位置を占めるが、
西欧の小国オランダにいたことも、共感覚者であることも、地球儀の中ではほんの小さなこと。
この構成的ディレンマから逃れて生きることは、もはや今となっては自ら望んではいないものの、
現実を知らしめたいと思うのは至極当たり前の人間的な感情であることには他ならないと感ずる。
序に付け加えれば、誤診に遭ったのもマイノリティーゆえ。一度、多数者になって考えてみたいさ!

生憎、そんな願いは叶えられないぞ、と論理学のカミサマが唸り声をあげている。しかし、妙だ。
少数者は、いつ何時多数者の側の視点に無知蒙昧なまま社会に生きることはできないのだから、
常に"成らずして成る"状態にある。想像力、とでも分かり易く置き換えるのが妥当なのかしらん。
相手の立場に立って考える、云わば当たり前のこの概念を、己が心にもう一度突き刺してみよう。
思うに、これを忘れた人間は共感覚だろうと何者だろうと、ひどく貧しい方向に向かいかねない。

このブログにも度々登場してきたオランダ体験記、現地社会に生きた異国の者にとっては日常。
言語の不自由さ、これは共感覚の有無に関わらず付き纏う問題であり、何分特殊でもないはずだ。
日本人のように海外に自国のコミュニティーを持つ集団にとっては、確かに逃げ道も多数あるが、
それはこの私からすれば姑息で野暮な発想。孤独や苦痛は立ち向かってこそ、その輪郭を持つ。
海の外に自分を殺す野蛮人が溢れ返っている訳もなかろう、人間の価値は普遍的ではなくて?

幸運と呼ぶべきことだろうが、私が幼少期に暮らしたオランダは九州ほどの小さな国だった。
他者に対して敵愾心を抱く代わりに、ただあるがままに相手を受け入れること、彼らの知恵だろう。
私とて、行った当時は現地校でただ一人の日本人だったために言語は学ばねばならなかったが、
それ以外に文化として何かを強要されたことがあっただろうか?実を言えば、覚えてさえいない。
自然体のまま、自分の母国と今住む環境の両方を大切にしていいよ、暗に彼らはそう教えた。

利己心からの言動はお叱りを受けるものの、分け合うことにはいくらでも手を貸してくれたっけか。
足りない分は補え合えば、お互いに歩み寄れば、和やかなひと時を過ごせるじゃないの!とね。
この素敵なアイディアが世界のどこにあっても私は歓迎するだろうが、今あるもので楽しむこと、
その空間に在るもの総てが喜びや悲しみを共有できること、彼らはそれを"gezelligheid"と呼ぶ。
日本でいうところの"和の精神"だが、老若男女にホモ問わずこの恩恵を受けるに値する、と。

社会学用語のゲゼルシャフト(独)と語源を同じにする言葉ではあるが、その意味はまるで別もの。
何か明白な形での利益や目標がある訳でもなく、多様な存在を受け入れることを表している。
冗長的と言い切ってしまえばそこまでだが、マイノリティーの受容はさほど単純なことではない。
自他の一長一短を終始見つめて生きることの背後にあるのは、並々ならぬ想像力なのだろう。
想像力に創造性を加味して、矛盾の渦を互いに眺め合うこと。生きる知恵とはそのようなものか?

思うに、あの国の人間にマルティリンガルが多いのもこんな文化の土壌あってのことだろう。
自分が自分が・・・、と言い続けて国を守ろうとするのではあの国はとうに滅びていたのだと感じる。
体は大きく、自己主張は強いのにシャイであったり、否定したかと思えば認めてくれたりもする。
激しく移り変わる天気の如く、彼らの心は優しく柔かい。無論、目の前に本人がいればの話だが、
これが農耕民族ならではの国民性であるのは間違いなく。牛も野菜も観察しながら育てるものよ。

私の共感覚もご多分に漏れず、あるがままの姿と色をあの国に守られていた、と気付かされる。
日本に帰国し、"異物"や"異端"として迫害に遭い、鬱になるまでは自然な感覚として生きていた。
マイノリティーとしての自負、それを培うきっかけを備えてくれた人々に再び感謝の念を捧げよう!
鬱になった時期に色彩や形態に関する知覚力や感性が鈍ったのは、明白なことではあるものの、
その自負なしに、私はかの凄まじい誤診を生き延びることができただろうか?疑問を抱くところだ。

長年の言語学習を通して出来上がった私固有の共感覚が一つある。言語共感覚図とでも呼ぼう。
手前に日本語があり、心臓から30cm前進したところに"意味のブラックホール"が鎮座している。
その地点を通り過ぎてから角を右に曲がるとオランダ語、左に曲がると英語が居る。その他にも、
趣味で覚えた仏・独・伊・・・と各言語に領域が付与されているのだが、いつも位置だけは一定だ。
無論、日本語の"何"は英語の"what"に直結せず。文化に踏み込まずして、意味は聴こえない。

wherever you are, they have their own realms
  1. 2008/09/12(金) 00:12:00|
  2. 海をわたる
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logical dumpingⅡ

私にとってオランダはどんな国だったのだろうか?自らを共感覚者として認知し、誤診を知り、
今の地点に来るまでの嵐の如き日々を、焦燥感を背負いつつ駆けている間に何かが転げ落ちた。
これは、原点回帰と一般に称されるものだろうが、自らの生きる・生きた空間について考えると
日常の中で消え失せていた色が、ごく自然な形でぼんやりとその輪郭を露にするものだろう。
異国に住むということ以上にオランダが私に影響を与えていると感ずるその根源は何処にある?

自らの失敗に目を向けるとその理由がちらほら見え隠れするのは、恥かしくも興味深いこと。
共感覚、建築、音楽、人間社会、個人。どこかの辞書からランダムに取って寄越したかのような
これらの用語を点と線で結ぶと私の中の地球儀が緩やかに回転を始め出すのだと言えようか。
子どもながら真剣に建築を求めた理由、何とも衝撃的な体験がそこにあったからに他ならない。
色彩豊かなデザインに囲われたあの国で、私がある時垣間見たのは社会の現実そのもの。

多文化社会なんぞいう聞こえの良い代名詞とは裏腹に、オランダは移民の多い社会だ。
酪農国のゆったりとした時間世界とはまったく別次元に流れる文化の生命が混在している。
"個"の凄まじい格差、外国人として日々生きていると直視せざるを得なくなるものであったのは
隠し様のない事実だと今更ながら感じる。後ろから指を差され、己の出自を他者に叫ばれる。
拒もうと、拒まざると、それが個と呼ばれる事物の背後に潜むものの本質だと認知する訳だ。

オランダ社会の中で唯一共有できた空間という他者が私にとっては天下一品だったのも、
自らの能力の限界と社会の現実の隙間で得られる自由に飢え渇いていたからに他ならぬこと。
人間は何故に言葉を必要とし、物質を追い求めるのか、ただの小学生が考えていたのだから、
今になってみると恐ろしい日常だったのではないか。大学時代に読み漁った哲学書さえも
どこかしら空虚に思えたのは、原体験の凄まじさゆえのことだったのか?ふと思い出す。

皮肉なことに、物質主義について子どもながらに考えざるを得なかった根源は日本人にある。
オランダ人は周囲の欧州諸国からも"stingy(ケチ)"で片付けられてしまう国民性が特徴だ。
ユーロ登場の遥か昔の80年代末のオランダ、アルミホイルで補修した乗用車が道を行く、
そんな経済状態だった上、海外からの労働者で都市はある意味ではカラフルな空間だった。
ピカピカで疵一つないBMWを走らせている日本からの駐在員に対して私は疑問を感じ始める。

私自身、現地校へ通っていたため日本人学校という共同体からも切り離された日常生活。
学校でただ一人の黒髪の少女、どんなに涙を流しても伝わらぬ言語の違いに諦観を抱いたのか、
いつしか妙な事柄に強く深い興味を持ち始めた。"個"の壁は強固だから取り壊せないもの。
少なくとも、他者との共通項を求める学習環境でなかったことが幸いしたのだと言えようが、
自分のペースで周辺社会を理解し、アイディアを表現する機会を与えられたのは救いだった。

どういう訳か、オランダでは個の集積体が集団に直結していないことがほとんどなゆえに、
集団行動を強いられた経験自体ほとんど記憶にないほど。自己責任、どこかで鳴り響いている
この四字熟語がどんな意味を持つのか今になって振り返る時、当時の学校の"掟"を思い出す。
かの不文法を日本に帰国してからいつの間にか心の隅に追い遣ってしまった自分に恥を知る。
現在形のNOの先に永遠のYESを証明するには孤独が付き纏うこと、私は心得ているのだろうか?

共感覚者として名乗りをあげること、この意味を知る者は今の日本に如何程存在するのだろう、
と問い返しても現実問題、芳しい答えを期待することはできないに等しい。定義すらないのだから。
この現象の「ある」「ない」からして、誰が的確に説明できようか?本人の知覚しか現実を語らぬ。
何とももどかしくじれったい話だが、真実を表現することが幾百の誤解と疑問を産んでしまう。
しかしながら、事実としてこの現象とその意味を当事者が語らねば社会は変わらない。

知覚体験とは身に纏う民族衣装でも、瞳や髪の色でもない。人間の生命活動の根幹にあり、
地球上のすべての思考や営為を支えている構造体であることには何の意見の相違もないだろう。
型破りと称されようが、私が挑戦をし続け、自己を解体して何かの創出行為に向かおうとするのは
揺るがぬ使命感がどこかにあるからかもしれない。"個"とは何か、と考えることは止められない。
オランダという社会、建築というフィールドに立ち戻らざるを得ないのも、この性(さが)ゆえだ。

オランダにいた頃から、格好の良い建築にどういう訳かあまり興味がない。なぜなのか?
現実はいずれ崩されるためにある虚構なのかもしれない、との恐れを常に抱いていた私だもの、
素直に見栄えの良いものを受け取ることが出来ない。かと言って捻くれ者だとは思わない。
最底辺にある事柄を見ずして快楽に勤しんでいられるほどに楽天的な人生でもなかったから。
自らの命あることに感謝を捧げつつ、どこかへと走り続ける日々がそこで私を待っている。

wie is wie
  1. 2008/08/31(日) 01:25:06|
  2. 海をわたる
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シーソーをつたう季節

私は梅雨の時期や夏のシーズンが苦手だ。気圧の変化に非常に身体が弱いこともあるが、
それに伴って全身の感覚が鈍くなる。当然、共感覚の"質"も悪くなるから心地よくはない。
感覚が暴発するといえば良いのか、梅雨に共感覚アートを拵えた記憶さえないほどだ。
遠い昔にオランダに住んでいた時も雨の多い季節は終始何かに悩まされていたのだから、
何も日本の気候がいけない訳でもないのだが、いろいろ思い返すことの多い時期でもある。

物心ついた頃から喘息を患っていたこともあり、低気圧とは本当に仲が悪いのだな。
雨が降る前の鬱陶しさ、触覚に視覚共感覚を強く感じていた子どもの頃は不快で不快で。
言葉も上手く通じない異国の地でそんな複雑系如き現象を説明できるはずもないのが現実で
神経がパンク寸前になるとよく喘息発作が出ていたものだ。今思うと懐かしい苦しみ。
ゼーゼーと鳴る奇妙な呼吸音、薄く青白い筋のようにして私を取り巻いていたっけ?

喘息だけではなかった。オランダで必死に生きている中で片頭痛も患うようになったいた。
これはmomからのもらいもの。ずっと後になって弟もそうなのだと知って何だか嬉しかったよ。
不謹慎だろうが、一匹狼の私にも家族に仲間がいたと思うと心強い。共感覚はなかろうと。
しかし、発症した時期が言葉の不自由なオランダ時代。異文化のシャワーの中で生きること、
言語力の無い私にとってはそれは大きなストレスだったのだろうな。あ、今もそうかしら。

これが我がままなのか、それとも正当な権利なのかは誰にも判断のつかぬことだが、
日本人として西洋社会に生活していると、ここから先はアジア人として譲れない領域だ、
とアイデンティティーを固辞したくなる場面にも多く存在するのは間違いないことと思う。
私の場合、帰国したらしたで今度はオランダに住んだことによって培われた自己もあってか、
もはやどこに住んでいようと"異文化"からは逃れられない生き物と化してしまったのね。

感覚の飽和状態に陥り易い雨季、洋の東西問わず、私を悩ます存在なのでありましょう。
一頃経験した重い鬱も、いつの間にかふわっと舞い戻ってきた片頭痛もそんな背景がある。
医学的には共感覚も鬱も片頭痛もセロトニンの作用だとする説があるのも理解できることで、
これらの現象が、あたかもシーソーの如く自分の脳内で起こっているのかと思うと何だか妙だ。
自然(じねん)の概念に裏打ちされたものかと考えると、痛みも許せてしまうことがあるもの。

晴耕雨読の文化。なるほど、納得です。酪農国オランダの人々も、そういやそうでしたわ。
雨の日に友達の家に遊びに行くと、暗い居間で分厚い本を読むおばちゃんの姿があったものよ。
日本よりもよっぽど気紛れな天候のあの国。忙しさよりもゆとりを愛するその心に我も学ばん。
生き急いだら、また空に虹の輪が広がって視界もろ共消え去るというのにいったい何が欲しい?
どこにいようが七つの海の呪縛から解かれぬ愚か者、しばし書の中に潜り込んでみましょうや。

育ち盛りのペリカンへの哀歌
  1. 2008/06/22(日) 17:07:44|
  2. 海をわたる
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