seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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扉のない空間

これは"恐らく"という前置きの下で語る方が良いのかもしれないが、芸術には危うさを伴うものもある。
時として理性のたがをわざと外してしまうような音や形に出会った瞬間、私は何を感じるのだろうか。
悦び?恐怖?恍惚感?・・・言うまでもなく、これを言語に置き換えるようとするのは些か陳腐な精神だ。

共感覚、それも空間性を持ち合わせた感覚の状態を例にとるならば、ある種"危ういもの"が満ち溢れ、
誰にも止めようのない、いや、もはや止める必要のないような流れにしばしば遭遇するようにも思う。
この領域に入った自分に向かって"戻る"ことを要求するのは、制止を生業とする理性の存在くらいか。

異論もあるだろうが、感覚や感性をその根源とする共感覚芸術に関して言えば、アートを言語化する、
という翻訳作業は"批評家体質"の者でもなければ、敢えてしようとは思わないのだろうと私は考える。
何せ、言語という論理体系に組み込むこと自体が甚だ愚かと感じられるような共感覚もあるからだ。

今から数年前に私は"ある失敗"をした。誰かに災難が降りかかるとか、所謂社会的責任のあるミス等の
一般的な意味合いでの間違いではなかったと断っておくが、理性で感性を殺めかけたようなところか。
失敗の背景に、周囲の共感覚(及び芸術)への根本的誤解や先入観があったのも事実ではあるが・・・

"危うい感覚"の"危うい"を、何を以ってして"危うい"と論ずるかは読者諸君にその判断を任せるが、
仮に、ここで私が焦点を当てている対象が色や触覚に関る共感覚のみであるならば話は単純であり、
空間性に潜む矛盾―これは時として合理ともなる―を殊更に苛める必要もない。自明の論理として。

柔かい時空、そこには明確な出入口などない。なぜないのか?玄関口があれば分かり易くなるのか?
明日の扉を開くのが、他でもなく明日を生きる主体そのものであるのと同じように、共感覚の空間も
共感覚者という主体なしには存在し得ない"優れもの"である。これが共有されないのも明白だろう。

言うなれば、私の失敗とは共感覚空間は固有なものとしてのみ感じられるものだと断らなかったこと。
自分ではこの空間の精緻な構造を知っていながら、周囲の圧力に負けてあたかも"共有される対象"
であるかのように表現したがために、その言葉に思いも依らぬを断面を与えてしまう結果となった。

その後暫くの間私が経験したのは災難以外の何物でもないが、今になって振り返ってみると不思議だ。
それこそ、非共感覚者にとっては奇妙なだけの共感覚の空間だが、私などには否定のしようがない。
主観的な知覚体系とは、個人空間と共に形成されるがゆえに、本来、他者には検証不可な領域だが・・・

一人の人間が他者の一生を最初から追体験する、などという珍事は(生憎)達成され得ないだろう。
煮え滾る対話の中で線と線が交点・接点を造り、その論理が共通の解に廻り会うにしても、大概、
個人空間は侵害されずに眠りに就くことを保障されている。一部の病的状態を除くとするならば。

科学的立場も考慮に入れるべく場においては、今現在の私は多少は弁えることを覚えたらしい。
これはつまり、共感覚それ自体は他者の知覚とは何等リンケージを持ち得ないのを認めること。
その上で共感覚が芸術を生むのは何も偶然ではない。感性の論理は、如何にも"常識的"なのだ。

ssssssshhhhhhhhhhhhhtt..........
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  1. 2010/06/07(月) 00:40:22|
  2. 数 と くうかん
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レイヤー、ふたたび

先回の記事にも書いたことだが、私自身の共感覚世界では"空間"が非常に大きな役割を演じている。
普段からその空間性を言語化せずにいるのには種々の背景があり、時として、そういった世界観を
言語の枠組みから守ることこそが、共感覚含めた諸事象の真の在り様を永らえさせるとすら思う。

あくまでも私の見方となろうけれども、言語とはそれこそ"枠組みに納まる"ことなしには存在せず、
古語から現代語へのパラダイムシフトもその中での"建具の一新"の繰り返しながら起こったと感じる。
建築的な意味合いでの、平面や断面、屋根伏図といった、2D形態にまとめることでこれは成立する。

もし仮に、私が大多数の人々(勿論、共感覚者も含む)と同じように空間思考が不得手だったならば、
先に挙げたような言語の仕組みに違和感を覚えることもなく過ごしていたに違いない。だがしかし、
あべこべの世界観をもって生まれたことで、かくも不可解な"間"の存在を意識せざるを得ないでいる。

恐らく、究極の平面世界に生きている人々も地球上にはそれ相応に居ることだろうし、私からすれば、
彼等の感性世界が私のそれより劣る、何がしかの要素に欠けると断言することはまずもって出来ない。
これは共感覚にも言えるが、感性の豊かさは感覚条件以上の"何か"に必ず支えられているものである。

総ての事象、即ち感覚も感性もその表現も"同じ"と感じることは空間人間の私にもない訳ではない。
幾層ものレイヤーにばらばらに散在していた要素がある瞬間に"集合する"ような状況、これこそは、
私にとって生きられた"平面世界"である。しかし、だからと言って其処に留まれるのでもないのだ。

自分の世界の認知の仕方がヘンだと気付いたのは子供の頃であり、この私とて平面に憧れたことが
ないと言えば"まぁまぁ嘘に近くなる"(=嘘も"一つ"のレイヤーだろう)。コピー能力には自信があり、
須くパンピー共の真似をしてフツーっぽくに生活することは、別段不可能という訳でもなかったりする。

なぜそうしないかと言えば、それが私の共感覚の消去行為だからだ。そして、空間寄りの共感覚者が
超マイノリティであることも付け加えればお分かりだろうか。個々人にとって"共感覚状態"というのは
それなりの距離感をもって存在するということ。私自身の空間的共感覚は決して"絶対"ではない筈だ。

詳細を数え上げたこともないので幾つかは知らないが、私の共感覚自体、物凄く数が多かったりする。
100に対して50くらいしか感じない共感覚は私には"其処に居るのか居ないのか知れない"程度なので、
別に夜空の星の如く在る共感覚が、空間的に感じられることはどことなく好都合な環境でもあろうか。

無論、空間的に共感覚を知覚すると言っても、所謂数学的な座標値に置き換えない分からないといった、
面倒臭い手順を踏んだ記憶は皆無である。時間と空間の関係性を認知するのに西洋的思考や論理操作を
経ねばならない等と考えてしまう御方は、それこそ「一枚の紙」の上でグルグル彷徨う人間のことを指す。

他者の話を聞く時に、私はどう思考しているか。これは愚問に違いないが、共感覚者の如何に係らず、
レイヤリングの仕方が個々人で異なることさえ明確に把握していれば別段苦でも何でもないということ。
そういう観点から鑑みれば私も酷く偏りの多い人間と見えるのかもしれないし、何事にも結論はない。

私自身にとっては、紙面の上の文字でさえも平面とは言い難い。文字が動く、位置関係が変わるetc...
つい最近或る方に言われた、"彼方は平面に押さえ込まない方がより良く生きられるのでしょう"と。
全くもってこれは事実であるが、と同時に何ものにも依存しない格闘との連続というのも現実だろう。

二項対立的事象が空間世界ではあまり意味を為さず、平面には居るらしい絶対存在も粗方姿を消す。
人生の早い時期に東洋vs西洋の図式の破壊を見たのは、ともあれ幸運だったのではないかと思う。
(そうではなかったにしても私は私の空間世界の中で生きている訳だが、矛盾や怒りは感じられる)

初めて共感覚者と出会った時、もしかすると彼等にも似た空間世界があるのかもしれないと思った。
確か彼等も非常に個性的であるが、必ずしも空間ありきの感性を持つ者ばかりではないと知るに至り、
一方では狼狽し、もう片方では安心感を心の内に感じたものである。やはり、共感覚は共感覚だと。

そんな背景もあるが、私が共感覚に関する文献を読む時は当然、"他人事"だという前提の下に読む。
仮に自分と「同じ」共感覚の話などと思い込んだら大変なことになろう。総てが"嘘"っぽいのだから。
しかしそういう範疇で続ければ、このブログも"疑惑の陳列棚"と化す。バランスは土台に必須である。

時として、人は不安を抱くもの。同じでなくて、なして他者と共有し、心を穏やかに出来るのかと。
そんな時には、大気中の水蒸気の存在を思い起こすのは快い。共感覚は類稀なる均衡の下にあって、
空間(或いは平面)の中で事も無げに其処に在る。心の盲目さとは、何かの始まりを告げるものか。

iiiiiiiiiiiiikagennnnnn
  1. 2009/12/26(土) 16:21:29|
  2. 数 と くうかん
  3. | コメント:0

空間は、消えてしまったのか

彼方は、共感覚とその空間性について問うたことはあるだろうか。これは非常に壮大な事象ではないか。
そもそも共感覚がどのような知覚を指すのか体験・認知されていない段階では意味を為さぬ問答だが、
当事者、ないしはその体験談を生に見聞きしたことのある者にとっては、全く覚えのないことではない。
共感覚と空間認知が係ると感じる・考える人は決して多数派ではない。捉え方に依っては非常に少なく、
且つ"隠された"感覚でもある。意外や意外、現代空間に在る現代人の多くは"間"を知らずに居るからだ。

ともすると、今回の記事は"意味不明"かもしれない。ヒトは三次元よりも二次元的な思考が容易に出来る、
という"驚くべき"事実を私が知ったのは今からたった数年前の出来事だが、どうやらこれは「普遍」のようだ。
"アベコベ"な私が以下に書くことは、読み手によっては鏡の中の世界よりも理解し難いことにもなるだろう。
平面図形よりも空間図形にこの上ない愛情を覚えた者や、地図情報よりも"世界"の方が正しいと感ずる者、
文字よりも空間の構造に魅力を覚えた者には、少しは入り込む余地も有るのだろうか。正直、自信はない。

実を言えば、これまで出会った多くの共感覚者や書物の中で読んだ共感覚体験を具に思い起こしてみても、
"これだ!"と思える空間性の表現にほぼ遭遇したことがない。これは共感やら何やらの感情のお話ではなく、
空間認知の仕方がただ単に異なっているということ。無論、共感覚者でなければ意外に仲間も居たりする。
建築専攻の者等か?否、彼等こそは消化不良を起こすような現代空間を信奉しているのだから、当然違う。
私の言う仲間とは文字から遠く離れた世界に本拠を置く彼等のこと。その呼び名は・・・別に何でも良いだろう。

共感覚者の近傍では在りながら、そして両者は重なるもので在りながらも、なぜか隠されているのが現実。
言うまでもなく、文字にされることのない"文化"は弱い。空間文化は語られはしても、やがて壊されるものだ。
何もこれは建築だけの話ではなく、ヒトの感覚世界についても同様ではないか?朽ちて生えるのもまた文化。
実際、共感覚は空間感覚の脆さに比べれば余程生き延びている知覚現象である。これは異論も在ろうけれど、
三次元思考の人間の生き難さが共感覚者のそれに比して救いようのない点では、そんなものだと考えられる。

純粋に視覚優位な人々の知覚体験とも、私自身を含めた空間優位の人々はどこか異なる印象を与える程で、
前者の知覚が静止画像中心なのに対して、後者は常に"動き"を持ち合せている。より曖昧で、鮮やかなのだ。
仮に静止画だけなら空間的な要素の幾つかは捨象されて行き、"見えないものは見えない"ということになる。
だが、常に動画で世界を認知するのが"普遍"な私には逆に平面が平面と感じられず、静止画は虚構である。
ゲシュタルト的な観点から見直せば、私のような人間が如何に"飽和した"世界を生きるかも想像出来ようか。

これと共感覚とが対になった状態は、別段不可思議な姿をしている訳でもないことはお分かり頂ける筈だ。
共感覚者総てとまではいかないにしても、色彩を放つ音楽が宙を舞い踊る風景を見る者は居ることだろうし、
私含め、種々の身体現象を色彩として体験する者にとっては空間性なしには共感覚そのものも存在し得ない。
がしかし、ここで私が非常に奇妙に思うのは、言葉に置き換えられたと同時に共感覚から空間が姿を消して、
あたかも一枚の絵の中に閉じ込められたかの如き様相を見せることだ。空間はどこで生きているのだろうか。

古の日本に生きた詩人たちが我々に残した芸術を参照すれば明白なことだが、彼等は空間を知っていた。
ここで言う"知る"とは、先日の日記に綴った二つのうちの後者に近い事象で、「ああ、それ私も知っている」
といった、"上辺の認知"を遥かに超えた体験そのものとしての、つまりは実践の中での"知る"を指している。
教科書通りの世界を歩くのではなく、且つ唯一無二の空間体験を忠実に表現することは果たして難問なのか。
情報の溢れかえった現代の中であっても、"間"そのものは我々が遣って来るのを待ち侘びていることだろう。

悲しいかな、私が共感覚という言葉を目にしたのは空間の中ではなく、文字に満たされた"森の中"である。
幾ら空間に寄り添っているつもりであってもそれが総てとは到底決められず、生きることには冒険も必要か。
ネットが現代の共感覚者を繋いだと感じる者は居るのだろうし、これも正論だ。しかし、共感覚の在処を見よ。
既に見知る共感覚では物足りず、野山に飛び込んで行く者が居ても良いではないか。はて、素朴な疑問だが、
私の文字の色彩はどこから生まれたのだろう?少なくとも、それは今でも空間の中で生き抜いているようだ。

Miyasudokoro, sonata ha izuko he
  1. 2009/12/14(月) 23:47:27|
  2. 数 と くうかん
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記憶と認知の透き間

時折、"共感覚保持者"という表現を見掛けるのだが、そこで一つ疑問に思うことがある。
果たして、共感覚は保持する・保持出来るものなのか?と。当事者と共感覚との関係性、
これについては過去にも幾度と無く自問して来たのだが、もう一度考え直してみても良い。
ここで思うのは、共感覚との出会いや別れというのは実際にはひどく個人的な事象であり、
他者から見れば、感覚の有無で人の価値が決まる訳でもない。"共感覚者"とは何なのか。

あくまでもこれは私の経験上の話であるが、成人以後まで共感覚を知覚する環境にあれば、
どんな目に遭っても共感覚者は"引退"出来ないと思うし、何がしかの形で感じ続けるだろう。
年齢と共に共感覚がフェードアウトしていく人は居たにしても、"実感"そのものともなれば、
恐らく一生涯剥れることはないと思う。要するに、強弱の差に変化はあっても在るには在る。
海外で言う、projector/non projectorの分類の何れかに当て嵌まるかということなのか。

私自身、誤診に遭ってほぼ総ての共感覚を失っていた期間を数年経験した。そんなもので、
今現在、共感覚が溢れんばかりに戻った身としては、"保持している"というイメージは薄い。
ただ単に共感覚が"そこに在る"という印象の方が余程強く、自分で守っているつもりもない。
どちらかと言えば、成長過程で構築された感性の方が共感覚を強く希求しているのであり、
ヒトの行なう資産運用に比べれば、遥かに動物的な感覚を持ってそれが"維持されている"。

神経の構造自体は固有のものだろう。がしかし、これは意志だけではどうにもならない。
もし仮に、自分の神経総てを意志(ないしは意思)によって管理出来たら、奇妙ではないか。
恐らく、共感覚によって心弾ませることもなくなるだろうし、文学もアートも生まれないだろう。
共感覚者自身がこの感覚を大切にしようと日々努力するのは紛れもない事実だと感じるが、
かと言って、本人のみがこの感覚を支えているのではない。総ては相互作用で起こっている。

半ば折衷的な"他力本願"でもあるならば、なして当事者のみがその保持者と成り得ようか。
思うに共感覚とは間主観的な事象を数多く含んでおり、決して主観的なだけでは終わらない。
知覚している本人の感性・感情総てを理解出来ないにしても、社会的な関係の中に在っては
共感覚(者)は何がしかの形で守られているのかもしれない、と私は感謝の念と共に振り返る。
無論、そういった経験には極端に差があり、時に人間性に欠けたエピソードも見るとはいえ。

知覚現象の起こるメカニズムも考慮すると、共感覚は遺伝子によって"守られている"としか
言い様がないのではないか。共感覚の強さも物理的身体の特徴同様、受け継がれる筈だ。
仮に家族の中で自分だけ共感覚者だったとしても、保持者として名乗りを挙げてしまっては
些か不遜な態度となろう。理屈や言葉はどうとして、大概の人間は共感覚を"知っている"。
それを裏打ちするのが新生児共感覚の存在だと私は思うし、これは現実の示す通りだろう。

事実、共感覚を極端に理解出来ない人々も結構居るものだ。それを"忘れて"しまったのは
別に彼等の能・不能の問題ではない。分化を愛した神経が学ぶチャンスを逸してしまった、
それだけに彼等は共感覚者とは掛け離れた感性で生きている、と逆手に取ることも出来る。
原始社会が共感覚で満ちていたというのも、現代の世にあっては"妄想"の範疇を超えない。
共感覚者間の差異を直視する中で遭遇した現実が、それを物語る。"個"も普遍である、と。

Fallen asleep

  1. 2009/09/27(日) 12:18:00|
  2. 数 と くうかん
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ハコを出て向かう先は

共感覚と建築について。これを語り始めれば、幾ら時間が在っても足りないはずだ。
私の中で主観的に繋がる事象から学術的・技術的セオリーに至るまで話は尽きない。
これらの深い結び付きを、私は一生涯掛けていったいどこまで証明出来るだろうか?
仮に証明するのであれば、何を以ってして示す?一見して未開の領域とも思えるが、
果たして現実はどうなのか?一歩踏み入れてみれば、水の生温さも伝わって来よう。

言うまでもなく共感覚は主観的な知覚形態であり、"社会的"とは言い難い感覚でもある。
共通項から構築していく建築とは大よそ懸け離れているがゆえに、これらは"縁が無い"
と早々に結論を放ったとしても、一般論としては何等問題ない。がしかし、空間は叫ぶ。
空間知覚に関して、ヒトはどこまで言語を操り切れているだろうか?総ての感覚器官と
言葉が上手く連動している人間はほとんどない。感性は静寂の中で息をし、働いている。

3次元ないし4次元空間で起こる種々の現象を具に観察する、このプロセスなくしては、
建築も都市も構築出来たものではないが、共感覚への洞察も同様の行為に他ならない。
完成品としての空間を批評するのとは幾許か矛先が異なる。元来、現象の連続体が在り、
それらが積み重なっていて初めて我々は世界を認識するのではないか?そうであれば、
連続体としてのハコなり道なりを解体するのも良い。暫し全体性に別れを告げてみよ、と。

何もこれは廃墟や壊れ掛けの空間に目を向けると言う意味ではなく、単に要素還元する、
そういう趣旨だろうか。廃墟は廃墟で既に完成品なのであり、あまりにも複合的な空間。
ある種"おもしろみ"に欠けたディテールを見続けていれば個々の成分に新旧の差はなく、
ただ単純にそこに存在する実態を眺めていることにも気付く。共感覚の知覚も同様である。
文字列の色彩世界、風味のある旋律、"雑多な"感覚を足し合わせてこそ生活が成立する。

建築空間における"部分と全体"は、ポストモダンの時代を待たずとも存在して来た論題。
エンジニアリングの歴史として紐解いていけば、職人たちは批評家よりも先にそれを知り、
技として感じていたと分かる。現代の欲する"ファサード"の浅はかさ、一度反省しても良い。
ただ知覚する、という普遍的行為なくしては右も左も分かったものではなく、言語としての
主語・述語を失ったかのような空間認知の仕方は別段特殊な事態でもあるまい、と思う。

共感覚を建築に落とし込むと見掛けや理論が"ポモっている"と思われるのは必然なのか。
社会的に通用する"共通感覚"とはその程度か、と私はここで溜息をつきたくなるものだ。
そもそも、"未完成の"知覚状態として共感覚の現実を示そうとすれば、共感覚自体は
言語化・空間化された時点で虚構に成り代わる。断片として在る知覚が結局は構築され、
パラダイムシフトを経ない限りは表現もされないし、他者にも伝わらないということだろうか。

どこかで"負け"を認めた自分に気付く部分も在るが、あくまでも意匠的な話に留めたい。
意匠論と距離を置き、知覚状態を造り出すヴェクトルを探し求めるならば光も見えようか。
元はと言えばマイノリティの知覚現象である。所謂、バリアフリー空間の計画においては
個々の知覚パターンを検討するが、ここでマイノリティを"部分"に押し遣るのもえげつない。
純粋に世界を感じる、これは語るより前に身体で体験するのみと心に焼き付けておこう。

Ik houd dat donkerheid
  1. 2009/07/12(日) 00:54:07|
  2. 数 と くうかん
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