seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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規格のない場所にて ― 階層的回想録Ⅳ

たった一つの文字に対して人間の脳がどのように動いているかを考えるのは、実に骨が折れる。
あまりにも当たり前過ぎて、日々を忙しく過ごしているならば、微々たる知覚現象の意味などは
疑いの対象から遥か遠くに向かってしまう。人間社会は実に複雑で、入り組んでいるのだから。
はて、共感覚者として生きてきた自分はどうなのだろうか?しばし、ミクロの世界へと旅立とう。
幾度か解体作業を繰り返してみれば、何がしかの真実が顔を出すことだろう。如何に小さくとも。

仮に、平仮名の母音である""を例にでも取ってみることにしようか。ひどく単純ではあるが、
母音と子音を比較するだけで、私の場合、海を越えねばならないのでこの文字が手っ取り早い。
しかし、と言えど文字の形限定の共感覚でなければ話は成立しないので、それなりに複雑だ。
発音としてはこれがオレンジに近い形なこともあれば、に聴こえることもあり、口の形一つで
言葉の色が変化してくれるのは当人としてはミスも多ければ発見も多い。そういうものだろう。

青と赤では共感覚としての一貫性が保たれていないのかと思いきや、私としては問題はなく、
で始まる家族の名前がなのは小さい頃からずっと変わらないのだから逆におもしろい。
文字の色の名前が何であろうと、存在の違いは学ぼうと思えばいくらでも学べるものであるし、
それは洋の東西問わず、どこの共感覚者にとっても分かることではないのか?そうでなくしては
感覚が感覚と呼ばれ得る所以それ自体宙に浮いてしまうことだろう。感覚は考えないものだ。

結局、文字の形と発音・読み方・書き方・意味・・・とたどっていけば要素はばらばらにされて
得体の知れないはずの共感覚情報もそれ以外の感覚情報と肩を並べることになりそうである。
そこで問題となるのは、個々の知覚要素がどのような形で束ね合わされているかということ。
文字xn個あるならば、それらの要素すべてが同じ形や大きさを持っているのだろうか?
自らの脳の中を客観的に解剖・観察しながら生きられた人間はいないので、総ては謎のまま。

とは言うものの、日常の出来事を振り返ると誰しもある意味で気に掛かる点に出会うだろう。
どんなことが得意か、はたまたどういうことでミスをし易いか、記憶の方法の特徴は何か等々、
個としての傾向を純粋に見据える中で、人間そのもののつくりが垣間見えることもあろうか。
完全ではないからこそ人は変化して学び続ける、その意味を私は感じずにはいられない。
一度で総てを学習すると思い込める脳ほど怖いものはないのかもしれず、人間は脆いものだ。

もし共感覚が一度で総て学ばれたのであれば、逐一文字の色を気にすることもなくなるし、
音から色を感じ取ることもない。毎度、知覚情報を再保存して行っているのではないだろうか?
そんなプロセスの中で好き嫌いが造られるのはともあれ必然であり、そこに決まりなどない。
同じ大きさの紙が几帳面にファイリングされている感覚ならば、共感覚が創作に結び付くのは
皆無に等しいであろう。無造作に詰め込まれて今にもはち切れそうなファイルが歌い出した。

blo blo blo
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  1. 2008/11/01(土) 23:05:36|
  2. 階 層 的 回 想 録
  3. | コメント:0

黒子の歩みをたどる ― 階層的回想録Ⅲ

共感覚者の空間認知能力、これには諸説存在する。方向音痴と聞いたかと思えば、逆も知る。
詰まる所、これも個性との結論だけでは話も前には進まないばかりか真実も遠ざかって行こう。
どの共感覚に重きを置いて当事者が生きているか、に焦点を当てることは何がしかの助けになり、
眼前に立ちはだかる幾つかの疑問を解く鍵となり得る。複数の感覚情報を制御して生活するには
多少なりとも工夫が要るのは当然であり、不随意な知覚現象と言えど"不条理"なだけではない。

まず、私自身の過去から遡ってみようか。今では建築や都市といった空間構築に関わるものの、
小学生の頃はひどく方向音痴で、一人で自由に移動できる範囲が異常に狭かったと記憶する。
まだオランダに居た頃は、Amsterdam School(一デザイン・スタイル)の有機的なレンガ建築が
音の共感覚の微細な違い以外はすべて一様に見えていたために、東西南北など到底知り得ず、
私自身にとっての"徒歩圏"は同年齢のオランダ人の子どもよりも"未開"だったのではないか。

空間把握能力という一点に関して言えば、これが発達したのは大学に入って以降のことだろう。
幼少期から欠如していた能力の存在を、知識として建築を体系的に学ぶ中で十分に意識して、
文献には決して書かれることのない音楽法則としての空間の法則性を学習していったということ。
無論、学習したのは私の主体的な意志(随意)によるものもあるが、"脳内学習"も同時に行われて
相乗的に共感覚的な空間認知手法が功を奏するようになった。しかし、話は音楽のみに留まらず。

場所の名前、空間の質や方向性、これらを言語化することを建築の教育システムは要求する。
一般に、物事を記憶する時に複数の感覚情報を総合的にリンクさせることは非常に効果的である。
知覚器官からの外的刺激の知覚情報に加えて、いくつかの共感覚情報を重ね合わせることで
結果的に、私が抱えていた方向音痴もかなり短期間にして解消されていった。地図を持たずして、
東京都内を縦横無尽に闊歩できるようになったのは、建築教育と共感覚による効果と言えよう。

複数の共感覚情報を組み合わせて脳が環境を把握していくのも、原感覚情報同様に意味がある、
との答えがここで導き出せそうだ。これは知覚量の多さで混乱していた幼少期との相違だろうが、
建築空間に見えるゲシュタルト法則と、音楽の譜面上の視覚情報を相互に参照したということ。
その上、さらに言語情報をいくつか加えた総体を知識として捉えるならばどうなるのであろうか?
情報の複雑系のスコアi.e.音楽情報が、都市計画図や建築設計図からも読み取れるようになる。

さて、ここで再びレイヤー概念の構造に目を向けて行こう。複雑化させたら逆の事象も存在する。
空間の条件、音の共感覚、言語etc.は、厳密に分けて行けば別々の感覚情報ファイルに在る。
しかしながら、ファイルに相互リンクを貼ることは幾らでもできる。不随意にも随意にも可能だろう。
日本の小学生が何千字という漢字を読み書きできるのは、仮名・漢字を一度見掛けるだけでなく
発音し―聴覚情報化、何回も書いて練習するからである―視覚情報化。単純で、複雑な作業。

言うなれば、単純なデータ処理行為をどこまで行なえるのか、そのことに尽きるのであるが、
漢字の学習などは(あるいはピアノの練習も)、脳の不随意な学習が行なっていることであろう。
本人が快感を覚えて意欲的に学習する以外の要素も、十二分に関わっているのではないか?
当然の事ながら、速く覚えられれば本人の感情領域にも多いに作用するものではあるのだが、
リンケージ生成に逐一気付いている子どもなどそうはいない。無論、例外は存在するにせよ。

"AでなければBを選べば良い"という世界観もあるが、"Aでなければを選べば良い"もある。
言語間・感覚間のリンケージの多さ、海外に暮らした・渡った人間ならば、この"情報置換法"を
ある種の冒険心や恐怖感と共に大なり小なり活用することもあろうか。生活や生命のために。
言葉でなければ身振りや視線で示すか、絵や図を描いて相手に意志伝達することも出来るし、
自分自身の語学学習上でこの手法が生きることもある。手段を選べない学習環境もあるのだと。

すべての物や条件が与えられた環境の中だけでは人間の感覚知覚は学ぶことも忘れるもの、
これは共感覚の有無に関わらず当てはまる事象と考えられる。感覚情報ファイルに収まる情報、
その中には快・不快に関係なく存在するものも当然あり、個性により好き嫌いも作られるだろう。
しかし、種々の情報を知覚する環境条件が毎回整っている確率などゼロに等しいものである。
"時間"という魔物はかくも奇妙であり、それでいて創造性の源とも成り得ることの証拠だ。

リンケージ、またの名を共通感覚と称される感覚は、その活動範囲が意外にも広いようであり、
文字一個に対応するレイヤー構造を一つに束ねていることもあれば、ファイル間にも介在し得る。
だが、共感覚現象そのものの知覚に回帰するならば前者に在るリンケージに注目してみたい。
後者は比喩として言語の中で多様に生きるものであるが、前者の出現は唐突なケースが多く、
このゆえに当事者以外からの誤解も生じるということ。共感覚はディテールの真骨頂である。

Such far away, but she's been there on your side
  1. 2008/10/04(土) 09:31:28|
  2. 階 層 的 回 想 録
  3. | コメント:0

何がその姿を決めるのか ― 階層的回想録Ⅱ

文字に色を感じる共感覚、これはこの知覚現象のタイプとしては色聴と同時に良く知られている。
無論、認知されていると言っても現状はそう喜べるほどのものではないが、知識としての認知、
これが皆無という訳ではないだろう。しかしながら、文字の色、と単純に表すにしても実に多様だ。
文字の形に色を感じるgrapheme型、文字の読みor発音に色を感じるphoneme型もあるのだ。
Graphemeとphonemeの邦訳用語は、私の知る限りではその色を聴いたことも見たこともない。

だがしかし、あったからといって何の役に立つ訳でもあるまい。それはただの分類だけだから。
一つだけ私自身が海外書誌からの知識として推測できることがあろう。私の共感覚の特徴、
と安易に断言はできないが(何せ多様性の宝庫だから)、私が日本語の色・形を知覚する際に、
文字一つひとつの色に注目するのは確かだ。音読み、訓読み、それに送り仮名、私の場合には
これらの個々の色が分からないことにはまずもって今も昔も日本語を読み、書き、話せなかった。

序に言えば、私が英語・オランダ語を認識する構造も同じ。アルファベットの中で"死ぬ"色はない。
各々の文字の発音に具わる色・形・性格・性別、それらの全共感覚情報の組み合わせを記憶して
これまで言語を学んできたということ。"あいうえお"は行ごとに"クリア"していったようなのだが、
オランダの小学校では"ABCの歌"なんぞ歌ったことはないので、A~G、H~P etc.の並びでは
知覚する必要もなかった。自由に宙に浮かんで、旋回しながら昇って行く文字の色を覚えただけ。

地球上の言語・文化の構造はあまりにも複雑であり、共感覚も同様にして複雑だと感じる。
ある国の人々は、文字列に"dominant colour"があるというのに対し、他の国ではそれがない。
音楽関係者が発音の色の違いに細かく注目したり、物理学者がカラフルな公式を記憶したり。
要するに、すべては個体差に結び付けられてゆく。この複雑さを困難さと取るか、豊かさと取るか、
これは人それぞれだろうけれども、共感覚者本人の証言ほど深い意味を持つものもないだろう。

数限りなく存在する共感覚情報と原感覚情報―すなわち"一般的"知覚情報―とを束ねていく、
共感覚者の脳内ではそんな記憶の作業が延々とシークエンスを描いているのだろうと私は思う。
言うまでもなく、このような記憶の体系化は共感覚の有無に関わらず、脳の学習行為の中では
人類史の中で普遍的に行なわれて来た事象であろう。多感覚統合情報、そういった情報により、
空間知覚や全般的な環境認知が可能となる。すべては共通感覚の成し得る業なのだろうか?

この情報処理行為を複数のレイヤーの重ね合わせの図式で考えていくことにでもしてみよう。
文字の形状、音読み・訓読み等の発音、意味といった要素は共感覚抜きでも一応は成立する。
これらの情報の重なりの中にいくつかの共感覚知覚による情報が不随意に挿入されてゆき、
時間変位を加味した学習行為によって、まとまりを持った情報として咀嚼されていくということ。
では、なぜ、"無味乾燥な"文字数字の共感覚に人格や性別などのイメージが具わるのか?

この先の話題に踏み込むには、共感覚者の成長過程での知覚体験を須く掘り起こさねば、
真実は顔を出しては来ないことだろう。"時間"という類稀な存在によって解き明かされること、
これは無数に存在する。いつ、どこで、どのような環境でその共感覚は"学習"されたのか?
意外に勘違いされているのだが、成人の共感覚と赤ん坊に具わる新生児共感覚は厳密には
異なる知覚現象であり、共感覚者の脳が未分化とする考えは科学的にも精確とは言えない。

人間が産声を上げた瞬間から視力や聴力を5歳児のように巧く使いこなしているはずはなく、
徐々に自分の生きる環境に適応していく、そんな段階的なプロセスの中で何もかも学んでゆく。
いくつかの条件が重なることで、共感覚者は共感覚を強固な感覚として認知するようになるが、
音・色・光・形・香り・味・・・として在るレイヤーの背後に"条件"としてのサブレイヤーがありそうだ。
総じて私が思うのは、このサブレイヤーこそが共感覚の個性を裏付ける証拠の居場所なのだと。

相対的な環境条件で微妙なブレをも見せる共感覚であるが、レイヤー/サブレイヤーにある、
階層性の構造如何で共感覚者の中での、現象認知への印象も変わってくると私は考えている。
共感覚者Aが文字の形に強く色を感じるのに対し、共感覚者Bは文字の発音に強く色を感じる。
不随意に知覚される現象であるゆえ、本人の意識的な操作により"加工・編集"はできない。
生まれ持った脳の個性、これと環境条件の順列・組み合わせで各要素間に関係性が生まれる。

文化や言語環境といった"他者全般"がこの階層構造の組み方の決め手と成り得るのだろうか?
脳の学習活動の多様性・可能性からすれば、私一人には断定はできない。何でもアリだろう、と。
英語を話し続ければ英語脳になり、日本語のみの環境で育てば日本語脳となるか、という事柄は
争論を巻き起こしかねない事象となろう。というのも、両方を持ち合わせた私もここにいるからだ。
種々の共感覚の共存が成立することもある。要素間の優劣が相殺される、これは無きにしも非ず。

Even stoppen, en ga ik naar buiten
  1. 2008/10/03(金) 00:48:02|
  2. 階 層 的 回 想 録
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舞い降りたもの等は語る ― 階層的回想録Ⅰ

闇の中を流れる川を眺めつつ、水面に映る音の変化に思わず自分のいる場所を忘れてしまう。
彼らはどこへ向かうつもりなのかと、今一度尋ねてみたいものだ。何を求めてそこまで悠々と、
そして無心に自らの姿を私に見せ付けてくれるのかい?なるほどたしかに、無欲な者は勝利する。
上から舞い降りて来た光たちと事も無げに話を重ねては、心地良さの意味を思い出させてくれる。
遥か昔に運河の国でも君等の仲間に出会ったことがあるが、本当に水は一つの物質なのかね?

なぜこの空間が日本足り得るのか、と見紛うほどに現実の社会は多くの物質を受け取り続ける。
と同時に、海の彼方へと何かが流れて行く。我々人間の知らぬ閾で地球は地球と成り果せた。
自然界の大きさに比べてみれば、私など取るに足りない存在だ。それにしても、彼らは美しい。
その美しさを純粋に保つことの厳しさに纏わる哲学も何もかも、生まれながらに知り尽くしている。
言葉を知らずとも、美しさと醜さの間に流れる地脈はそこに現し示されよう。生きているからな!

共感覚者の世界を生きる、その営為の中で常々感じるのはそういった事柄なのかもしれない。
今から一年半前に私が誤診を認知した時、体中に奔る痛みの最中で心に強く感じたことがある。
人間界での生命の重さの不確定性という罪深い事実についてだ。それは幾らでも軽くできるらしく
地位や名誉のためならば、真実はどこまでも改ざんできる。そして、時として抹消もできるのだと。
盲目にも、それが人間自らの弱さに基づくものであるとは気付かずに人は不純なものと化す。

小さい頃、自分の住む地面のずっと先で湾岸危機が起こった時に感じた、無感覚な人の精神。
今から7年前、同時多発テロの瞬間に同じ大陸の地を目指していた父の安否を気遣っていた時、
自分の心の中に渦巻いていた濁った色の液体を見ながら決まりの悪い思いがしたものだった。
一人間として秤にかけてはいけないはずの何かを己の主観で勝手に分類しようとしているぞ!
あまりに悩み過ぎて、その後半年間は受験勉強と称して政治と経済ばかりに目が行っていた。

オランダを離れ、平和ボケ大国の日本に降り立った9歳の時に感じた得体の知れない恐怖や、
異国の地でも感じることのなかった排他主義。ムラ社会に、どれほど私は頭を悩ませたのだろう。
人間の命を扱うほどの立場にある者等が、公然と過ちを隠す様な出来事を経験したこともあろう、
誤診に遭ったことは、私の中にあった欲望の一つを木っ端微塵に破壊させてくれたのだと思う。
背後にあったのが共感覚や頭痛といった事柄であろうとなかろうと、さすがにこれは関係ない。

本当の意味で心を開き、等身大の自分の姿を見せるとは、はて、どんなことだったのだろうか?
離脱症状で打ちのめされた自らの神経の脆さを振り返りつつ、当初は良く考え込んだと記憶する。
自分の弱さを受け入れたり、新たな地平を切り拓くことの難しさは、口にできるほど簡単ではない。
恙無く事を進めているかに見えて、自身が嘘偽りの欠片もなく、きれいに物事を進められた人など
いないに等しい。時として犠牲にされつつも、他者を犠牲にしている。人の心は水ではないから。

完璧主義を捨て去らずして、いつの日も真実は見えて来やしなかったのだと今は感じるところ。
自身の過去ゆえか、自分の理想のために他者を斬ること、時として欺瞞に思えて仕方ないさ。
まず始めに自分を斬り落とせないことには、理想とは逆の方向へと化学式が進んでいるはずだ。
がしかし、真の自己を見たことのない者が己の身や心を解体して考えることなどできた例がなく、
かくして"放物線の公式"から逃げ去れなくなった私も出来上がったのであろう。愚かな話だ。

薬漬けになっていた私が一日にしてそれらを断ち、地の底から這い上がろうとしていたその時に、
音の共感覚がはらはらと舞い散る雪のように天から降って来た様に感じた。虹のような音の渦。
穏やかな陽光の差すその部屋で、私は私の共感覚に再会した。すべてが一遍に戻った訳もなく、
日を重ねるごとに一つひとつの共感覚がゆっくりとしっかりと感じられるようになったということ。
文字や数字の色、曜日や月の色など、記憶と関係する共感覚は最後の最後に漸く顔を現した。

全身に張り巡らされた感覚器官から入る情報が共感覚としても知覚されることは階層的な事象、
そんな当たり前の図式をあの日々の鮮烈な記憶が物語ってくれた。そう、名付けてレイヤー概念。
ただの感覚情報が何枚も何十枚も共通感覚によってファイル化されるから、共感覚は記憶となる。
私の文字の色が瞬時に戻らず、つい最近になるまでどこか自然な要素を欠いていたことからして、
共感覚の構造を考えさせられるものだ。それは、何の価値も意味もない、ただの知覚情報だと。

何の変哲もない知覚情報を複雑に組み合わせることで、人の認知の構造は成り立っている。
そこには本来は、欲も何もないはずである。何が上で何が下で、といったヒエラルキーさえなく、
要素が分子のように連なっているだけなのではないだろうか?感情以前の神経組織だもの、
これは味付けもされていないフランス料理を食するような観察行為。この散文詩に何の意味が?
しかし、人間ならば夜空の星の並びを知識もなしに延々と眺め続けるだけでは終わらない。

論理としてまとめ上げられたその言語は、どこか身動きの取れない囚われ者と化してゆくそうな。
あの発見以後、時々、自らの共感覚のレイヤー構造に目を向ける必要を感じる。水の分子然り、
共感覚者としての知覚はそれほどまで単純な話なのだと振り返るために。でなくして、私は誰さ?
水は己の姿かたちや言葉を知ることはないが、変化を繰り返す。時に氷や水蒸気となり舞い踊る。
私が自然に畏怖を念を抱くのは、その壮大さに潜む純粋さの重なりゆえ?そう、人とは好対照の。

De Structuur in zijn Eigendom
  1. 2008/09/25(木) 01:02:58|
  2. 階 層 的 回 想 録
  3. | コメント:0

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