seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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つかめない形

音楽を聴いて色を感じる共感覚、このことを「色聴」と呼ぶ。
これは一般に日本語で言う音色とは少し意味が違うのだそうな。
音色は比喩で、色聴は知覚現象と分類があるのだと人は言う。
まるで他人事のように私が書きたくなるのは、はてなぜだろう?

「楽器の音色」といえば、楽器の奏でた音に感じる色のこと、
「メロディーライン」となれば音楽が描く輪郭線のことだ、と
物心ついたときから私が信じて疑わなかったからかもしれない。
世の中に当たり前のようにしてある比喩の意味を今は知るが、
それが非共感覚者にとって本当は知覚ではなかっただなんて!

驚きととまどいを、今も禁じ得ない自分がここいる。そんなはずは。。
というのも、当たり前のようにして画家たちは音を色や形にしているから。
ワシリー・カンディンスキーの"Composition"と名付けられた一連の作品を
私以外の世界はどのように感じ、解釈してきたのだろうか?とふと考えてしまう。
誰でもごく自然に音を形で表したくなるものではないの?歌いながら踊ったり。
無論、かの人が共感覚を知っていた芸術家だとわかったのはずっと後のことだが。

音楽をいつ絵画表現にし始めたのか、自分の中ではあまり定かに覚えていない。
好きな曲はさまざまな色や形の織りなす、風景画のように記憶しているものだから
他人に見える画として具現化しなくとも、私にとってはいつも変らぬ共感覚。
がしかし、まわりの人間には共感覚がないのだとわかるとどうしても描きたくなる。
本当のところ、この形の音楽を見たらみんなはどう思うの?美しさを感じるのか?

もちろん、視覚表現として共感覚を2次元平面に落とし込むためには
ある程度のデフォルメが伴うのであり、これが何とも言えぬほどにもどかしい。
つかめないものをなぞっても本当の形にはならないというのに、それを描く。
脳内で私しか知覚していないというのに、本当に描いてよいものかしら?

言うなれば、描くことで「個」や「弧」を自分の肌で感じている命がけの勝負ね。
青空の下、一人草原を駆け抜けていたらいつの間にか涙を流していたかのような、
そんな懐かしいような、悲しいような気分を描き終えてから味わうのも毎度のこと。
つまりは、絵が完成すれば音楽もフィナーレを迎えてしまうとも考えられる。
だから音楽スケッチは一生やめられない。すべての終わりを誰が見たいと?

さて、美しい形に出逢うために、また音の海をひと泳ぎしてきますか。

steppin'upwithu
  1. 2008/04/13(日) 00:11:28|
  2. おとをみる いろをきく
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共感覚の多様性

共感覚の知覚パターンの一つに「文字に特有の色を感じる」ものがある。
この現象は口で説明すると必ず誤解されるが、絵にするのもかなり難しい。
視覚化しても、当事者の私は「上手く表現できた」とは決して言えない。
複数の事象が重ね合せられたものをどうして一つにしてよいものか?
表現したい強い思いと、その表現マナー(方法)を疑っては揺れ動く。

そんなもんで、忠実にこの現象を表現することをいつも躊躇するのだ。
そもそも文字の色を非共感覚者が感じていないと知らなかったらのなら、
文字の色をアートとして具現化すること自体違和感を覚えることなのだから。
誰でも同じ色でアルファベットや仮名・漢字を読んでいるものと思っていた。
英語のリスニングは色で発音を聞き取るものだと信じて疑わなかった。
「共感覚アート」と言って大々的に作ることは申し訳ないとさえどこかで思う。

まあしかし、表現できる者が表現しなければ永遠に謎のままの共感覚。
どこからともなく湧いてきた使命感や義務感によって生きるために描いては
共感覚は自分になどは勿体ないものだ、とつくづく反省させられる。
文字の色の共感覚、これがどれほどに壮大なものか証明できるのだろうか?
現象そのものが3次元だから、薄っぺらいデジタルな解像度は答えてはくれない。

さてさて、文字の色を知覚することについてもう少し具体的なことを
書き進めてみようと思う。でなければ、ただの戯言使いになってしまうのさ。
手始めにこんな絵を掲げてみることにしよう。
[続きを読む]
  1. 2008/04/09(水) 00:51:30|
  2. もじいろ おといろ
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色を纏って生きること

小さい頃の色の記憶はふわふわしていてつかみにくい。
真綿のような色のかたまりがふんわりと自分をかこんでいた。
太陽の光に包まれたような、そんな感じだったのはおぼえている。
私の家族曰く、「自給自足で楽しむ子ども」だったそうな。

共感覚者はいつ共感覚者になるのか?これは未だ謎のまま。
そもそも、どんな人間が共感覚者なのかさえはっきりしないと思う。
あまりにも曖昧だが「共感覚者本人からの報告が最も価値がある」
と共感覚の研究者は口をそろえておっしゃるのですからおもしろい。
実験で一定基準を満たす場合は共感覚者、とみなす研究者もいるにはいるが、
現実問題、数字をクリアしただけでは何の実感も湧かないものね。

そこで思うのは、やはり記憶についている色や形の記憶。
幼い頃に覚えた歌には色が付いている。もちろん、今聴く曲も色が見える。
歌詞の言葉の響きに色が付いているものもあれば音程の色を見るものもある。
挿絵のない本も「こんな色風景の話だったよね」と心の中で思い出す。
それが日本語だろうと、外国の言葉だろうと色があるのは変らない。

色つきの蒸気を一面に鈍く振りまいたような感じ。
連想した色ではないから悲しい時に明るい色になることもある。
暖色と寒色なんてお構いなしに、共感覚の記憶は出来てゆく。ごく自然に。
言葉の色、味の色、香りの色、自分が覚えておきたいものを
自由気ままに落書きしていくだなんて、こりゃ不思議。

それにしても、自分の名前がショッキングピンクだなんて皮肉だ。
かな文字もアルファベットも一様にピンク。漢字の「女」もこれまたピンク。
だのに、嫌いな色もピンク。とり憑かれたかのようにピンク尽くしのワタクシです。
自分の名前を呼ばれるとピンクの衣を纏ったかのように感じる。
逆に、共感覚者だからピンクが嫌いになったのならそりゃ笑えますし、許せます。

他の共感覚者にとっては私の名前は何色なのだろう?青か?緑か?
好きな色は青なのだが、だからといって青い名前は別にいらないと思う。
というのも、自分が今ここにいると言うことと名前がピンクだということ、
やっぱり共感覚者であるからには否定しません。それに、ただの人間ですし。

普段はこんなことは絶対に口に出来ない。相手が共感覚者でもなければ、
意味もちんぷんかんぷん、頭がおかしいだの病気だの言われるのがせいぜいだから。
今、こうしてサイバースペースが発達した時代に生きられることに感謝する。
共感覚は極々主観的な脳内の現象だが、当然、共感覚者も共感したいと思うから。
知覚すること喜びや悲しみをいかにして伝えようか、日々悩み考えるのです。
それが自分の脳の中でしか見えないと色だとわかってはいても、美しいものは美しいから。
  1. 2008/04/08(火) 00:25:18|
  2. 共感覚/synaesthesia
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共感覚事始

「共感覚」。近年、ほんの少しずつ世間に認知され始めてきた知覚現象。
まだまだ聞き慣れないし、すぐには意味のつかめない用語だ。
脳内で起こる現象と聞けば、病気や障害かと勘違いされるのだが
まったくそんなことはない。ただのプレーンな現象なのだから。

が、どこかで認知度の低さ、誤解の多さ、致し方ないようにも感じる。
事実、この感覚とともに20年以上生きてきた当事者の私でさえ、
一年と少し前までは何一つ意味の分からない言葉だった。というのも、
共感+覚なのか、共+感覚なのか、この熟語のままでは謎だから。

実際には後者の「共+感覚」の意味の取り方が正解といえる。
海の外に目を向けてみると、そのからくりが多少解けてくるのだが、
英語では"synesthaesia"(米国式にはsynesthesia)と書いて
カタカナで表記するならシネスシージアと読む。

肝心の語源は古代ギリシャ語から来ており、
"syn-(共に)"と"aisthesis(感覚)"が合わさっている。
原理的にもこれは納得のいく言葉なのだが、日本語にするならば
「共に働く感覚」といった意味になる。

共感覚という日本語訳は明らかに造語なのだが、
当然の事ながら、共感覚それ自体は万国共通の現象である。
字義通りに捉えれば複数の感覚器官が同時に知覚することを指す。
音を聴いて(聴覚)色や形を見る(視覚)、言葉を見て(視覚)味を感じる(味覚)、
というようにごく一般に五感として分類されているもののうちの
複数の感覚によって組み合わせができることを言う。

共感覚者であるかどうかに関らず、人間は味覚と同時に嗅覚も働かせる。
鼻をつまんでごはんを食べたら美味しさも半減するのは誰とてわかることだが、
これも共感覚の一種。ついでに言えば、「新生児共感覚」といって
感覚が未分化な赤ん坊が知覚する共感覚のタイプもある。だから、
共感覚は本来人類みなが体験した・しているはずの現象と結論が出せそうだ。

がしかし、そう単純な話でもない。現実には、
何千年もの間体験してきていながら共感覚の謎はほとんど解けていない。
脳科学や認知科学の研究の歴史も20数年ぐらい、と非常に浅い。
共感覚者の私からすれば、これは逆に興味深いことだと感じる。
人類は自分自身についてこれっぽっちもわかっちゃいなかったのね、と。

ただ単に言語化しづらい現象だというだけだろう。
音楽を見る、形を聴く、味の形を楽しむ、香りを見る、言葉を彩る、等など。
一見して比喩ならば、何となく成立しそうな表現だが、
私の日常ではこれはメタファーでも創作でもない。れっきとした知覚だ。
五感の知覚とともに脳内の複数の部位が反応しているのだそうな。
とお気楽なことを言うだけには留まらず。それで生きるのだから当然苦悩もある。
  1. 2008/04/07(月) 01:53:40|
  2. 共感覚/synaesthesia
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ごあいさつ

この度、ブログを始めることにしました。
共感覚者として生きること、感じていること、
また日常の中で考えていること等について
自分の視点を表現することが目的です。

ブログタイトルの"seek for sounds, step into forms..."は、
これまで、私自身が共感覚という知覚現象と共に生きてきたことに基づいています。
この現象がどのようなものかは追々詳細を表現していくことにしますが、
無理を承知でそれを一言でまとめるならば「五感同士がつながる」こととも言えます。

五感の知覚とはまた別に色・形・音といった情報を脳が知覚すること、
日々の生活は、私にとっては言うなれば無数の共感覚との出会いと別れの連続です。
新たなものを知って、心で十分に感じ取り、深く深く考えて生きる、
そんな当たり前のことを見つめ直す機会を私に与えてくれるのが共感覚であり、
そのような姿勢を大切にしたい、と感じるためこのようなタイトルを付けてみました。

私自身が興味関心を抱いたこと、共感覚現象を視覚化したアートなど、
自由気ままに表現していきたいと考えています。

178773

reorwanttosayhello
  1. 2008/04/03(木) 20:07:11|
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ある共感覚者のひとりごと。

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