知覚現象の快・不快、これはどこまでいっても主観的な事柄なのかもしれない。
共感覚もご多分にもれず、快感なものと不快なものの両方の知覚を持ち合わせている。
しかし、どの共感覚者にとってどの知覚対象が心地よいものとなるかは決められない。
当然の事ながら、当事者は「個人」の意味を決定的な仕方で見つめ続けることになる。
自分にとっての「快」が相手にとっての「不快」となることもあり、その逆もあるから。
共感覚の知覚には快楽的な快感が伴うとも言われているが、本当のところはどうなのか?
たしかに、自分の好きな音楽は心地よい形や色の共感覚が見えるものが多いし、
文字の色があることで外国語を覚えることも私にとっては色彩的で楽しいと感じられる。
しかし、不快なものは不快だ。それが自分の得意なことであっても、共感覚は別の話。
もちろん共感覚の良し悪しによって一般的な意味での「好き嫌い」が作られることもあろう。
一番の皮肉とも言えるのは、共感覚で感じる色や形が限りなく美しいのに
五感での知覚が苦痛に満ちている場合なのかもしれない。痛み、と呼ばれるものがそうだ。
身体的苦痛としては不快なのに、共感覚を審美性の観点から考えざるを得ない矛盾。
現実問題、そんなところで心と体の意志が互いにいがみ合っていることもある。
耐え難いものほど遣る瀬無いくらいにきれいな光を発している。何と言うことか。
マゾヒスティックと言ってしまえばそれまでなのだが、現実はそんなに簡単なものでもない。
あまりに共感覚が強い時は、五感知覚とそれとの差が見分けられずにいることもある。
混乱とも言える知覚の洪水の中で何を感じ、何に心を向けているのだろうか?実に複雑なこと。
他人に口で説明したとしても、はてどこまで伝わり切るのだろうか?宇宙の広さに嫉妬するくらいだ。
結局のところ、すべての嵐が過ぎ去った後にいつも思い返すのは「感覚に罪はない」ということ。
何であれ等しく愛し受け入れる、そんな「言うは易し行なうは難し」の世界に自分を放り込むしかない。
そこに限界があろうとも、他者を拒絶してばかりでは生きては行かれないのだから。
五感知覚の対象は厳然たる他者からの知覚であっても、共感覚が主観的知覚であるのは普遍。
もどかしい思いばかりつのるとはいえ、私は共感覚者としてそんなことを感じる。
無論、痛みも喜びも結局は相対的な事象であるがゆえにそれに評価基準などないのだが。
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- 2008/04/18(金) 23:47:39|
- 共感覚/synaesthesia
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