seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

空はいつまで青かったのかⅡ

変わらぬものと変わりゆくものについて、いったいどれほど長く考えたことだろうか。
自らの話す言語が変わったことで多いに揺さぶられた幼少時代、ここまで心に響くとはね、
まるで想定外の他人の将来計画の中に身体だけ滑り込まされたかのような違和感がある。
しかしながら、共感覚に見る仮名文字の色が色相ごと須く変化することはなかった訳であり、
ただ単に色褪せた、言い換えれば薄いグレーのレイヤーを被せた色合いに成り果せただけ。

我ながら、どのようにして自身の精神の変化を見守ってきたかを事細かく話したくはない。
が、建築の趣向をみればそれがひどく客観的な思想として見え隠れするのは間違いない。
形態を巡る政治史、とも解釈できる建築に思考の片身を間借りしてきたのだからね。
自己のアイデンティティーを探し求め始めた時期にもどっぷりとこの世界に浸かっていた。
自らの表現に求める要素はどこから来たのか、それは真剣に探究したと断言できよう。

和と洋の両文化を二項対立の関係のみで片付けることは自己矛盾を生む、といつしか気付く。
どの要素がどこで入り込み、新たな概念を生み出すのか。そして、それはいかにして
心の平安をもたらし得る構築物に変化(へんげ)してゆくだろうかと考えあぐねたものである。
日本史の明治維新にみる他者理解の仕方を手緩いと感じたほど。何せ、意味が違うぞ!
他者であり、自己であり、尚且つ客観視ができるものか。苦渋を迫られたのは言うまでもなく。

苦悩し始めた当初は共感覚を知覚していながらもその現象の意味はまるで知らなかった。
用語一つ知ることで世界が大きく啓けて来る経験、一生涯でそうそう出会えるものでもない。
本人にとってはあまりに当たり前過ぎて、疑う余地のない感覚であったものだから、
何となしに他者には到達し得ない領域だと認識しつつも、言葉にする機会を逸していた。
無論、言語の不自由さがあるとこのように複雑な現象まで論証するのはまず無理なのだが。

他者に身を委ねてみる、そんなことをも受け入れざるを得ない時期を経たこともあって、
自らの変化の受け留め方にも少々多様性が現れ始めてきたと言える。ま、良くも悪くもね。
しかし、いい加減に流されてみるのと身を委ねるのとでは大よそ意味が違ってくる。
後者の場合、持論は持論として終始保ち続ける努力を怠ることはできないのであるから、
頑固一徹自分の信念を貫き通すのと同程度の意味を持つと私は感じているのですよ。

オランダに住んでいた間も日本語を忘れようとあえて努力したような覚えはまるでない。
それは当然なのだが、その後に日本に帰国した後は少々事情も違っていたように思う。
忘れようとはしなかったものの、自分の知りうる言語を公平に使いこなすことはできず、
どこかで斬り捨てる部分が出てきた。そう、オランダ語は無残にも刎ねられたのさ。
一日の時間は地球上の誰にとっても24時間しかなく、思考に割く時間も同様にしてある。

社会生活の中で使用できる言語を二ヶ国語均等に、なんて声を大にして叫べたらな、
と子供時分によく考えたものだが、対話・発言・思考の機会は許された中で買い取るもの。
自らの意に反していても、その掟を破ってまで自己の欲求を満たしてはならんのだよ。
何度も失敗を繰り返す中でこのことを心に刻み込み、他者とは違う砦を築くようになる。
それがどうやら建築で、"社会的音楽"との敬称をお持ちのお方だったのでありますぞ。

新築のみが建築なのではなく、その側に座る既存の構築物も列記とした建築なのさ。
味がある、と評価される古典あらば、そうでない中古品もそこに陳列されている。
街並みを一つの建築と捉える時にはどこかで歪みが生じてくるのが物事の筋でしょう。
景観に現れる狂いを調整する役割も社会には要るのかもしれない、そう今は思う。
新しいものを造るだけが建築人の仕事ではなく、そこにつなぎ目も造らねばいかん。

時として魅力がなくなったかのような過去の事象に目を向けることも必要だろう。
いかにして現在のこの姿が造られたのか、具に調べること、そしてデザインに移すこと。
折衷様式とも懐古主義とも一線を画した表現の仕方があるのだと今になって実感する。
守るべきものは何で、変えるべきものは何か、そして新たに付け加えるべきものは?
それは自分の中だけでなく、意見の異なる他者との対話がそこにあるからこそ意味がある。

子どもの頃からオランダも日本も異国であり、同時に自分の帰る場所でもあった。
今、私の時間軸の中ではどちらの国の要素も欠かせない存在。どちらを省いても骨抜きよ。
一方が他方を造り、そして支える。何と言うか壮大な構築物のようなものに思える。
何度か激震を経験したのにそれを修復することで救われたのかと思うと不思議なもの。
再建策を練る時にいつもそこに登場するのが共感覚なのは間違いありませんですな。

はるか遠い日々に聴いていた日本語の響き、色も形もそれははっきりとしていた。
"経年変化"により味わいを増した今の共感覚が現実でも、私には忘れ得ぬ記憶がある。
オランダで初めて見た晴天の真っ青な空は私の共感覚の"そら"と同じ色をしていた。
いつから漢字の""が思考に入り乱れてきたのか知らないが、今でも空は空。そうそう、
"e"の色は物悲しい夕暮れに今でもよくお目に掛かる。でも、どれも私の中だけの出来事ね。

do what you wanna do
スポンサーサイト
  1. 2008/06/08(日) 23:27:30|
  2. 海をわたる
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

空はいつまで青かったのかⅠ

ずっと昔にまだオランダに住んでいた頃、私の日本語の共感覚もそれはカラフルだった。
我が家の壁に貼られた50音表にも濃くて鮮やかな色がたくさん見えていたっけか。
しかし、向こうの幼稚園から小学校に上がってからというもの(日本よりも半年就学が早い)、
アルファベットや数字を使いこなすことに一生懸命で仮名文字は主役を奪われてしまった。
当時通っていた学校に日本人は私ただ一人。日本の教育制度とは違って落第があるから、
外国人だろうと幼稚園生だろうとお構いなしの環境で運命の選択を迫られたのね。

もちろん、今見える"あいうえお"も好きは好きですよ。絣の着物みたいでセンスがいい!
私ってばオランダ語でばかり考えてたものだから日本語を忘れてしまっていたのさ。
"放置プレイ"を浴びせられた50音は平仮名も片仮名も挙ってこれに反旗を翻した、
なんてのはどうも冗談が過ぎる表現だが、脳細胞をバランスよく使うことの意味を私に
教えてくれる。共感覚にも一応、老化は存在するのかもしれない。司るのは神経だから。

帰国子女であり共感覚者であるという現実は、私に本当にいろいろなことを学ばせたと思う。
それは言語を超えた領域にも存在する喜びや悲しみを心の中に深く刻み込んだから。
はたまた、私がいたのがオランダだったということも多いに意味があったのだろうな。
寛容と排他の裏表、個と集団の概念。言葉に置き換えることさえどこか貧しさを感じてるほどの
奥深い人間性をいかに表現するか。海越えて感性豊かな島国に生きる今、それを思い知る。

先にも書いたように私は一度は日本語を、それに日本語の共感覚も喪失し掛けた。
その後共感覚それ自体も失われ掛ける体験をしたのだから、結構いろいろあったと感じる。
周りの人間にどこかで強く支えられ、時には見捨てられながらも生き抜いたのだから
何だか感謝の念を覚えずにはいられない。みなの努力があってこそ、ここに私があるのだと。
二度も"外国人"となり、一度は人間そのものから離脱しそうにさえなったというのに、
なぜ私などがここにまだ生きていてよいものだろうか、と思うことがあるくらいなのさ。

子どもなりに随分と悩み、苦しみ、自己存在の意義について考えていたとは思う。
生まれ持った身体の弱さ、心の繊細さ、言語の至らなさ、それゆえの言動の不自由。
一方では色や形といった視覚情報を通じた論理・思考の表現が特異なものであり、
それが洋の東西を問わず成立し得るものだという自負もどこかしらで感じてはいた。
だからこそ、8歳の時に何となしにたどり着いた建築の世界に今も留まっている。
他者の思想や感覚を読み取り、空間表現に生かすことを魅力と感じるから。

共感覚のようにひどく主観的な世界を持ちつつも、建築を考えていてよいものか?
これは生まれて然るべき疑問であり、長きに渡り私の中で渦巻いていた問いでもある。
ものは考えよう、使いよう。そこは苦い体験を通していつの間にか解かれていく。
外国人であることは自他の差異を目に見える形で心に焼き付けてくれたと感じるし、
日本人でありながら海外の文化を生きた精神として認知することも上に同じく。
絶対的他者を認める意味、共感覚者、尚且つ"異国民"でもある孤独感がそれを教える。

個の集まりが必ずしも集団とは成り得ないオランダで私が目にしたのは、
良くも悪くも、単なる"差異"に収まるような事柄だけではなかったように感じる。
移民の多い国家であるがゆえに、貧富の差が空間そのものを造り上げることもある。
自分さえ良ければ他人がどう過ごしていてもそれで良い、とは決して思えない世界、
それが間近にあると知っても、ただ悠長な駐在員の子どもとして居られただろうか?

文明の差異は致し方ない。あまりに壮大なものだから、自分には手のつけようがない。
しかし、大きなスケールで達成されなくとも人の住む環境は変えられると直観した。
一軒一軒の積み重ねが街を造り、都市に結びつくのであればその一軒にたどり着こう。
何分、子どもの目に映った建築の世界はあまりに狭く小さなものではあったのだが、
金銭欲も出世欲もゼロの夢。今考えても何ら間違っている点があるとは思えない。

現実を目の当たりにしたらすべてが潰されるのかと思いきや、そうでもないな。
始点が始点ならば、その先に見ていたものもそれほど明るく楽しいものではない。
レンガ組積造の建築で埋め尽くされたオランダで私が実感した現実の姿がある。
いかに積み上げようと構築物が崩されるのは必然であり不可避である、と。
それが言語であろうと、文化であろうと、人間のせめぎ合う社会は実に脆く、
過去に学び、修復し、新しいものと融合しながら生きていく美しさもあるのだろう。

後の日に、私はリノヴェーション、コンヴァージョンと呼ばれる建築の手法を知る。
建築の修繕方法、また用途変換方法と言えば良いのだろうか。多様な意味があろう。
人間が社会の中で少しずつ変化していく外ないのと同様、建築も周辺環境の中に建ち、
人災、天災、あるいは経済行為に起因して変化を幾千と積み重ねて生きてゆく。
時間と空間という、いわく言い難い魔物に纏わりつかれつつもそれは続く。

一人の人間が計画のすべてを決めることがないのは建築限らず社会の基本だが、
だからこそ擦れ違いも起こるし、それが時として偶然の産物をもたらすこともある。
共感覚を感じる私にとって、これは本当に興味深い行為に思えてならない。
人間の感覚がみな同一だったら、アイディアなんて一つでよかったのかもしれない。
画期的な建築がいくつ生まれて来てもよい、これほど魅力的なことがあろうか。
己が孤独に打ちのめされそうな時ほど思考力が高まるのは言うまでもない。

言葉も作法も知らずにこの国に降り立ったあの少女は今になって自由を知る。
それは自分と同じ共感覚を持つ他者に出会えたことも大きいが、理由は他にもある。
自らの鋭利な孤独の向かうべき先をようやく見出せた、とどこかで確信しているから。
何も歩いて楽しいものだけが道ではない。自分だけが満足できる道は短いしつまらない。
どんなに焦らされてもいいから、30年後くらいにその希望を託してみるのも悪くはないね。
変わらぬ空はずっとそこにあるだろうから、私はまた一つ一つレンガを積んでいこう。
(続く)

de driehoek kwam uit het wiel
  1. 2008/06/08(日) 00:16:13|
  2. 海をわたる
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

プロフィール

178773

Author:178773
ある共感覚者のひとりごと。

カレンダー

05 | 2008/06 | 08
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -

最近の記事

月別アーカイブ

カテゴリー

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログ内検索

RSSフィード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。