seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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共感覚は愛着の対象か、創意の源か

物事をこだわるのは感覚か感情か。"特殊な"感覚や経験を持つ自分にしばしば問うことだ。
その答えは明白で、感覚それ自体は何もこだわってはいない。何しろ不随意に起こる共感覚、
知覚する事象を一々こだわっていては、身体知覚も精神も何もあったものではないのだから。
感覚ありきの人間の感情、幾重にも重なった知覚体験の末に色や形に愛着も生まれるのだろう。
連綿と続く共感覚体験、人間の感情をどれだけ左右するものやら、時として考え込むもの。

自分のように、単なる片頭痛の誤診ゆえに身体の知覚環境須く壊れた過去のある者にとって
「共感覚への愛着」俗に言われる「こだわり」について、今現在はどんな姿かたちをしているのだろう?
酷く複雑な感情、つまり残酷な経験を引き算して考えてみれば物事の筋は光に照らされてゆく。
時間知覚の一貫性を失うと、人間らしい感情も感覚も自ずと崩れる訳で、これは明白な事実。
もう一度再構築した、なんて格好つけた表現を借りれば聞こえはよいものの、現実は凄まじい。

幸か不幸か、オランダ文化に出会っていたことでこの点救われたこともあろう。Ja, echt bedankt!
日本で一般的に"違い"と称されるものを違いと考えていないあの国の文化が、真実を語るらしい。
物事の本質をまず見極める行為、肉体が死に掛かった時にはあまりにイメージが鮮やかだった。
社会との相違、他者との差異などもはやどうでもいい境地にあって現れ来るのは爽やかさだもの!
遠い昔、言葉を知る以前から知る共感覚がじわじわと戻ることの喜びだけ見つめていたっけか。

たとえ自分の健康を脅かした張本人等に共感覚がわからなくとも、今はどうだってよい気がする。
生きる意味を噛み締めることに分類も診断も本来あったものではなく、その気持ちは真っ直ぐだから。
そして、しばしの休符を見続けた後に私は再び社会の騒々しさと広さを見渡すことになったのだが、
そこで自分の殻の中に籠もって殺され掛けた感覚のみを癒し、慰めることもできたのであろう。
が、結果として、その道は選ばなかった。自らの体験を無駄になどできるか、と心に誓った訳だ。

真実を明かせば、社会への扉を叩き始めた当初は記憶と言った記憶も無かったのだから、
道なき道を、ただ単なる一期一会の共感覚体験とともにとぼとぼ歩き続けていたに過ぎない。
以前愛していたはずの感覚がなぜかそこにいない、その"不在"という現実が私を奮い立たせた。
もっと感じたい!もっと考えたい!と涙も流せないほどに乾き果てた心はもがいては立ち止まる。
人間の脳内で育てられた一続きの記憶、これがどれほど愛おしく、待ち遠しく感じられたことか。

道すがら、私は一つのことに気づく。このまま何も意識せずにいれば記憶もこだわりも戻ろう。
しかしだ。折角こんな苦痛を経るのであれば、ただ物事を元に戻すだけでなくコマを進めてみよう!
自分の損得のためにすべての物事が進んでいくのは私は虫唾が走るほど嫌いなのだから、
共感覚は感覚として生かし、感情論や愛着とは別の宇宙で自由にさせてあげてみてはどうかな。
あまりに安易な思い付き。言うまでも無く、個性は個性として生き残ると勝手に目算していた。

たまたま、行き着いた先は元からいた建築界。能力の無さを怒鳴られ、けなされる中で
自分の感覚を感覚として使うこと、序に言えば創作行為に向けることの意味を悟ることとなる。
口ばかりの頭でっかちな野郎になるのでは生き残った意味がない、と心を鬼にして前を見続けた。
立ち止まろうが時間は進み続ける、その残酷さを肌に感じつつも、己が共感覚に今は感謝する。
これが知覚現象ではなく、心理的現象だけであったのなら抑止力も生まれなかったのだから。

共感覚者のいない職場で一人黙って作業する中で感じた孤独、何と言うか外国人の心そのもの。
どんな辞書や文献があろうとも伝わることのない文化の差異、その根底にあるのは感覚だけ
ではないものの、どこかしら共感覚者の孤独に近いものを感じるゆえになぜか安堵感を覚えた。
最近になって、自分の"専売特許"とする作業が周囲に"感覚"として認知されていることを知る。
つかみどころのない曖昧な現象として共感覚があるのではない、と社会の中で感じた瞬間だった。

確かに、今現在は色や形に関する深い愛着を感じている。しかし、以前との変化は禁じ得ない。
それは決して悪い意味などではなく、より強固な自己の一端として共感覚を知覚するという点でだ。
主観的知覚である以上、現実、他者の目に触れる時は今ではそれなりに気を遣うものである。
アートとして客観的知覚に到達し得ない表象を共感覚として口外することは極力避けている。
誤解が生んだ誤診、その意味を認識した上で同じ過ちを再び繰り返すのは愚かなだけだから。

社会的認知は未だに低い現象である以上、扱い方も非常に難しい。ただの個人の知覚ゆえ、
ともすると、単なる異常知覚と受け取られかねないのは不完全な人間界にあれば周知のこと。
共感覚と創作行為、この間には人間味のある奥深い愛情が末永く横たわっていることだろうよ。
自らの利益だけでなく、他者への社会的行為の一環として共感覚表現が自己実現に結び付く時、
人間が本来持ち合わせていた共感覚知覚は実を結ぶ。どんなに小さく見えない一歩であろうと。

Livin' on a line
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  1. 2008/08/01(金) 20:31:50|
  2. 共感覚/synaesthesia
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178773

Author:178773
ある共感覚者のひとりごと。

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