seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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logical dumpingⅡ

私にとってオランダはどんな国だったのだろうか?自らを共感覚者として認知し、誤診を知り、
今の地点に来るまでの嵐の如き日々を、焦燥感を背負いつつ駆けている間に何かが転げ落ちた。
これは、原点回帰と一般に称されるものだろうが、自らの生きる・生きた空間について考えると
日常の中で消え失せていた色が、ごく自然な形でぼんやりとその輪郭を露にするものだろう。
異国に住むということ以上にオランダが私に影響を与えていると感ずるその根源は何処にある?

自らの失敗に目を向けるとその理由がちらほら見え隠れするのは、恥かしくも興味深いこと。
共感覚、建築、音楽、人間社会、個人。どこかの辞書からランダムに取って寄越したかのような
これらの用語を点と線で結ぶと私の中の地球儀が緩やかに回転を始め出すのだと言えようか。
子どもながら真剣に建築を求めた理由、何とも衝撃的な体験がそこにあったからに他ならない。
色彩豊かなデザインに囲われたあの国で、私がある時垣間見たのは社会の現実そのもの。

多文化社会なんぞいう聞こえの良い代名詞とは裏腹に、オランダは移民の多い社会だ。
酪農国のゆったりとした時間世界とはまったく別次元に流れる文化の生命が混在している。
"個"の凄まじい格差、外国人として日々生きていると直視せざるを得なくなるものであったのは
隠し様のない事実だと今更ながら感じる。後ろから指を差され、己の出自を他者に叫ばれる。
拒もうと、拒まざると、それが個と呼ばれる事物の背後に潜むものの本質だと認知する訳だ。

オランダ社会の中で唯一共有できた空間という他者が私にとっては天下一品だったのも、
自らの能力の限界と社会の現実の隙間で得られる自由に飢え渇いていたからに他ならぬこと。
人間は何故に言葉を必要とし、物質を追い求めるのか、ただの小学生が考えていたのだから、
今になってみると恐ろしい日常だったのではないか。大学時代に読み漁った哲学書さえも
どこかしら空虚に思えたのは、原体験の凄まじさゆえのことだったのか?ふと思い出す。

皮肉なことに、物質主義について子どもながらに考えざるを得なかった根源は日本人にある。
オランダ人は周囲の欧州諸国からも"stingy(ケチ)"で片付けられてしまう国民性が特徴だ。
ユーロ登場の遥か昔の80年代末のオランダ、アルミホイルで補修した乗用車が道を行く、
そんな経済状態だった上、海外からの労働者で都市はある意味ではカラフルな空間だった。
ピカピカで疵一つないBMWを走らせている日本からの駐在員に対して私は疑問を感じ始める。

私自身、現地校へ通っていたため日本人学校という共同体からも切り離された日常生活。
学校でただ一人の黒髪の少女、どんなに涙を流しても伝わらぬ言語の違いに諦観を抱いたのか、
いつしか妙な事柄に強く深い興味を持ち始めた。"個"の壁は強固だから取り壊せないもの。
少なくとも、他者との共通項を求める学習環境でなかったことが幸いしたのだと言えようが、
自分のペースで周辺社会を理解し、アイディアを表現する機会を与えられたのは救いだった。

どういう訳か、オランダでは個の集積体が集団に直結していないことがほとんどなゆえに、
集団行動を強いられた経験自体ほとんど記憶にないほど。自己責任、どこかで鳴り響いている
この四字熟語がどんな意味を持つのか今になって振り返る時、当時の学校の"掟"を思い出す。
かの不文法を日本に帰国してからいつの間にか心の隅に追い遣ってしまった自分に恥を知る。
現在形のNOの先に永遠のYESを証明するには孤独が付き纏うこと、私は心得ているのだろうか?

共感覚者として名乗りをあげること、この意味を知る者は今の日本に如何程存在するのだろう、
と問い返しても現実問題、芳しい答えを期待することはできないに等しい。定義すらないのだから。
この現象の「ある」「ない」からして、誰が的確に説明できようか?本人の知覚しか現実を語らぬ。
何とももどかしくじれったい話だが、真実を表現することが幾百の誤解と疑問を産んでしまう。
しかしながら、事実としてこの現象とその意味を当事者が語らねば社会は変わらない。

知覚体験とは身に纏う民族衣装でも、瞳や髪の色でもない。人間の生命活動の根幹にあり、
地球上のすべての思考や営為を支えている構造体であることには何の意見の相違もないだろう。
型破りと称されようが、私が挑戦をし続け、自己を解体して何かの創出行為に向かおうとするのは
揺るがぬ使命感がどこかにあるからかもしれない。"個"とは何か、と考えることは止められない。
オランダという社会、建築というフィールドに立ち戻らざるを得ないのも、この性(さが)ゆえだ。

オランダにいた頃から、格好の良い建築にどういう訳かあまり興味がない。なぜなのか?
現実はいずれ崩されるためにある虚構なのかもしれない、との恐れを常に抱いていた私だもの、
素直に見栄えの良いものを受け取ることが出来ない。かと言って捻くれ者だとは思わない。
最底辺にある事柄を見ずして快楽に勤しんでいられるほどに楽天的な人生でもなかったから。
自らの命あることに感謝を捧げつつ、どこかへと走り続ける日々がそこで私を待っている。

wie is wie
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  1. 2008/08/31(日) 01:25:06|
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ある共感覚者のひとりごと。

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