seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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舞い降りたもの等は語る ― 階層的回想録Ⅰ

闇の中を流れる川を眺めつつ、水面に映る音の変化に思わず自分のいる場所を忘れてしまう。
彼らはどこへ向かうつもりなのかと、今一度尋ねてみたいものだ。何を求めてそこまで悠々と、
そして無心に自らの姿を私に見せ付けてくれるのかい?なるほどたしかに、無欲な者は勝利する。
上から舞い降りて来た光たちと事も無げに話を重ねては、心地良さの意味を思い出させてくれる。
遥か昔に運河の国でも君等の仲間に出会ったことがあるが、本当に水は一つの物質なのかね?

なぜこの空間が日本足り得るのか、と見紛うほどに現実の社会は多くの物質を受け取り続ける。
と同時に、海の彼方へと何かが流れて行く。我々人間の知らぬ閾で地球は地球と成り果せた。
自然界の大きさに比べてみれば、私など取るに足りない存在だ。それにしても、彼らは美しい。
その美しさを純粋に保つことの厳しさに纏わる哲学も何もかも、生まれながらに知り尽くしている。
言葉を知らずとも、美しさと醜さの間に流れる地脈はそこに現し示されよう。生きているからな!

共感覚者の世界を生きる、その営為の中で常々感じるのはそういった事柄なのかもしれない。
今から一年半前に私が誤診を認知した時、体中に奔る痛みの最中で心に強く感じたことがある。
人間界での生命の重さの不確定性という罪深い事実についてだ。それは幾らでも軽くできるらしく
地位や名誉のためならば、真実はどこまでも改ざんできる。そして、時として抹消もできるのだと。
盲目にも、それが人間自らの弱さに基づくものであるとは気付かずに人は不純なものと化す。

小さい頃、自分の住む地面のずっと先で湾岸危機が起こった時に感じた、無感覚な人の精神。
今から7年前、同時多発テロの瞬間に同じ大陸の地を目指していた父の安否を気遣っていた時、
自分の心の中に渦巻いていた濁った色の液体を見ながら決まりの悪い思いがしたものだった。
一人間として秤にかけてはいけないはずの何かを己の主観で勝手に分類しようとしているぞ!
あまりに悩み過ぎて、その後半年間は受験勉強と称して政治と経済ばかりに目が行っていた。

オランダを離れ、平和ボケ大国の日本に降り立った9歳の時に感じた得体の知れない恐怖や、
異国の地でも感じることのなかった排他主義。ムラ社会に、どれほど私は頭を悩ませたのだろう。
人間の命を扱うほどの立場にある者等が、公然と過ちを隠す様な出来事を経験したこともあろう、
誤診に遭ったことは、私の中にあった欲望の一つを木っ端微塵に破壊させてくれたのだと思う。
背後にあったのが共感覚や頭痛といった事柄であろうとなかろうと、さすがにこれは関係ない。

本当の意味で心を開き、等身大の自分の姿を見せるとは、はて、どんなことだったのだろうか?
離脱症状で打ちのめされた自らの神経の脆さを振り返りつつ、当初は良く考え込んだと記憶する。
自分の弱さを受け入れたり、新たな地平を切り拓くことの難しさは、口にできるほど簡単ではない。
恙無く事を進めているかに見えて、自身が嘘偽りの欠片もなく、きれいに物事を進められた人など
いないに等しい。時として犠牲にされつつも、他者を犠牲にしている。人の心は水ではないから。

完璧主義を捨て去らずして、いつの日も真実は見えて来やしなかったのだと今は感じるところ。
自身の過去ゆえか、自分の理想のために他者を斬ること、時として欺瞞に思えて仕方ないさ。
まず始めに自分を斬り落とせないことには、理想とは逆の方向へと化学式が進んでいるはずだ。
がしかし、真の自己を見たことのない者が己の身や心を解体して考えることなどできた例がなく、
かくして"放物線の公式"から逃げ去れなくなった私も出来上がったのであろう。愚かな話だ。

薬漬けになっていた私が一日にしてそれらを断ち、地の底から這い上がろうとしていたその時に、
音の共感覚がはらはらと舞い散る雪のように天から降って来た様に感じた。虹のような音の渦。
穏やかな陽光の差すその部屋で、私は私の共感覚に再会した。すべてが一遍に戻った訳もなく、
日を重ねるごとに一つひとつの共感覚がゆっくりとしっかりと感じられるようになったということ。
文字や数字の色、曜日や月の色など、記憶と関係する共感覚は最後の最後に漸く顔を現した。

全身に張り巡らされた感覚器官から入る情報が共感覚としても知覚されることは階層的な事象、
そんな当たり前の図式をあの日々の鮮烈な記憶が物語ってくれた。そう、名付けてレイヤー概念。
ただの感覚情報が何枚も何十枚も共通感覚によってファイル化されるから、共感覚は記憶となる。
私の文字の色が瞬時に戻らず、つい最近になるまでどこか自然な要素を欠いていたことからして、
共感覚の構造を考えさせられるものだ。それは、何の価値も意味もない、ただの知覚情報だと。

何の変哲もない知覚情報を複雑に組み合わせることで、人の認知の構造は成り立っている。
そこには本来は、欲も何もないはずである。何が上で何が下で、といったヒエラルキーさえなく、
要素が分子のように連なっているだけなのではないだろうか?感情以前の神経組織だもの、
これは味付けもされていないフランス料理を食するような観察行為。この散文詩に何の意味が?
しかし、人間ならば夜空の星の並びを知識もなしに延々と眺め続けるだけでは終わらない。

論理としてまとめ上げられたその言語は、どこか身動きの取れない囚われ者と化してゆくそうな。
あの発見以後、時々、自らの共感覚のレイヤー構造に目を向ける必要を感じる。水の分子然り、
共感覚者としての知覚はそれほどまで単純な話なのだと振り返るために。でなくして、私は誰さ?
水は己の姿かたちや言葉を知ることはないが、変化を繰り返す。時に氷や水蒸気となり舞い踊る。
私が自然に畏怖を念を抱くのは、その壮大さに潜む純粋さの重なりゆえ?そう、人とは好対照の。

De Structuur in zijn Eigendom
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  1. 2008/09/25(木) 01:02:58|
  2. 階 層 的 回 想 録
  3. | コメント:0

その崩壊が生み出すものⅢ

時間の存在、これなしに建築が造られ、語られることなど、人類史上どれほどあっただろうか?
まずもってないだろう。物質を伴う空間構築の範疇での営為ならば、計画のない建築はない。
言葉だけで成り立つ建築も在るには在るものの、共感覚として建築に接近することが出来るのは
実際に計画されて建ち、そこにオブジェクトとして知覚可能になった構築空間に限られようとも。
無論、実存空間と知覚空間の関係性に触れずして扉は開かず、主題と変奏は別ち難い仲にある。

都市にせよ、農村にせよ、現実の社会では曲がりなりにも計画という名のレールが敷かれるが、
この"計画"なるものが"主題"として機能し、その下に"変奏"としての物質と空間が築かれて行く。
現実、音楽と建築の決定的な違いはそこにあるのだろうが、建築はマスタープランナー一人が
独断的に総てをデザインすることなど在り得ない世界。社会情勢から来る政治・経済、立地条件、
天災に及ぶ要素が複雑に絡み合って初めて成立するテーマ、何人も予想し尽くすことはない。

合理的に全事象を計画しようと試みた人物が歴史上にいなくもないが、演奏された形跡はなく、
その序曲は夢想と化して出版物に生息するに過ぎず。一人間の感覚がなぜに絶対足り得るか?
我が身に感じる共感覚の多様さを振り返るに、主題のみ演奏されたら建築は甚だ不快だったろう。
建築史も実際の都市空間さえをも、朗々と流れる変奏曲に感じたのは己が共感覚ゆえなれど、
ありとあらゆる変化を迫られて洗練された建築の方が、打たれ強いからか、活き活きと感じられる。

がしかし、音楽とひとえに表現するにしても、共感覚は常識からは程遠くに追い遣られるはずだ。
というのも、私が共感覚として感動を覚えるのは一般的に"良い"と評価される作品ではないから。
作品の周縁に生きる空間、云わばスキマで奏でられる見切り品、絶品ではないスッピンの逸品。
時代の圧力に挟まれた空間が多いゆえか、その緊張感が遣る瀬無いほどの存在に思えて来る。
一見して破たんした小空間の中に、時間の縮図が折り重なるようにしていくつも隠されている。

対位的変奏に囲まれた性格変奏の如きその様も、何だかユーモラスで哀愁を帯びているから、
見過ごされてしまう彼等に出会えるのは、この私にとっては儚い幸せの一つなのだとも感じる。
さりとて、時々刻々と変化する空間の中で同じ演奏に遭遇することは望まない方が良いのだろう、
図面の中で聴こえる音が現実の建築空間にはない。何か足されたその存在を前に毎度考え込む。
ま、何せ共感覚だもの、経験則としての主題さえ私が覚えておけばそれですべて事足りるでしょ?

空間という環境が何を受け入れて、何を捨て去るか。これがミクロな現場に依拠しているのか、
それともマクロでの操作なのか、これだけは答えが出せない。エンドレスな変奏に耳を傾けつつ、
一つの塊として捉えられた地球の変化にも目を向けてみようか。眼前にあるこの小さな音楽も、
その活動の中ですべてが造られ、単調なモードの崩壊と生成の繰り返しの中でも変化は起こる。
モノを解体し構造を知る、この行為の中で垣間見える矛盾の豊かさを共感覚は教えてくれるのか。

leave them as they have been...
  1. 2008/09/23(火) 22:02:22|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

その崩壊が生み出すものⅡ

視覚に聴く空間のリズム、私はこれを音の共感覚として知覚しながら日々過ごしているが、
そこには"定性なるもの"が何一つ存在しないかのように見える。無論、それはミクロの世界。
段々と視野を拡げてゆくと、生成と崩壊を繰り返している空間も言語を持つのではないかしらん。
多面的に空間を考えるうちに姿を現す粗もあれば、瞬間的に差し込む光の筋もあるということ。
あらゆるベクトルで交差する音の連鎖。秩序や完全性から少し距離を置いてみるのも美味だ。

ずっと昔に、純粋な意味での工学的建築を背にして音楽史の世界を旅してみたことがある。
実際に譜面と楽器に埋没していたあの頃だから、図面の宇宙はそこまで絶対的ではなかった。
今でこそ、"よくもそんな蛮行を悠長に!"と自分に矢を向けたくなる感情も生まれ出づるが、
当時15、16だった小娘は恐れも知らずに建築と音楽を共感覚で料理しては楽しんでいたのか?
こんな過去がある割には、その後の生き方に回り道が多いとも感じられる。実に愚かな奴だ!

と、マイナーな懐古主義に浸っているだけでもよいが、それがこれを書く目的ではないのさ。
一般に言う、聴覚情報主体の音楽と視覚・触覚情報主体の建築の間を双方向的に運くことで、
私の中で知覚される共感覚も多様な表現手法と出会ったのではないか、と今になって思う。
普遍的図式の中で物事を捉え始めて、少しイイ気分になってその後も一点に留まっていると、
悲しいかな、創意も単なるジョウイとなって膠着したモノと化すことを過去の失敗から実感する。

動的な均衡状態とは何たるや。有無を言わせぬ変化を迫られた時によく自問自答することだ。
時として不条理な様で変化を遂げてきた音や空間の史実が私を助けるのは言うまでもないが、
いずれも実世界では遍在しているのだから、一先ず空間の側から歩き出してみることにするか。
あたかもル・シャトリエの原理の上に成り立つかのようなこの発想、あまりに不純ではあるが、
地球の縦横に跨る共感覚現象は尽きる所、そういった"異端"の塊なのだと言い切ってしまえ!

巨視的なまとまりを持つ空間世界に何がしかの外的変化を加えることで平衡状態が崩壊する。
建築史の中の不易流行の推移を見ながら、実空間に耳を傾けているとそう感じなくもない。
何せ、私の脳ミソの中では空間が客体の物質による視覚・触覚現象を介してのみ感じられる
訳では決してなく、共感覚としてはリズムと形の変移によって楽劇が演じられているのだから。
そんな空間音楽の中で、時たま二律背反に出くわすことがある。物事の分岐点と言えようか。

単一なリズムを意図的に崩すことで創出されるデザインが、次なるモードとして取って代わる。
一つの建築や都市空間の中でも当てはまるが、時間的枠組みからこの話を捉え直し始めると
より奥深い森に突入していくことにもなろうか。建築史の流れを音の共感覚で考えるのは、
どだい無茶な話。がしかし、音楽はそこに留まらないのだから、4次元空間では黙り込むだろう。
演奏なしの空を音楽と呼べるのはφの生きる論理世界。実空間では"間"の次に来る者がいる。
(続く)

drrrrrrrrrrrrrrr................
  1. 2008/09/21(日) 10:43:39|
  2. おとをみる いろをきく
  3. | コメント:0

その崩壊が生み出すものⅠ

常日頃、空間とは何か、と自らに問い尋ねる。私の場合、これが史実に関する思惟なのか、
知覚や心理に関わることなのか、はたまた創作のプロセスの一端なのか、時として曖昧になる。
共感覚と空間認知の話として物事を捉え始めると、どういう訳か見せ掛けの秩序が壊れてゆく。
何のことはない、この"主観的悩み"の根幹にあるのは"主観的知覚"なのだから仕方あるまい!
と早合点して思考諸共ゴミ箱へ投げ捨てようとする己の姿に気付いて立ち止まることもしばしば。

西洋の空間vs極東の空間、いつからかこの図式の呪文に囚われて身動きが取れなくなった、
そんな時期もそういえばあったのでしたっけ?しかしながら、これが如何に幼い発想だったかと
後の日に反省することとなる。丸い地球は断片の如き様に非ず、物事は入れ子状に絡み合う。
現代の日本の空間がなぜにして、純粋なものと成り得よう。世界は流動化しているというのに。
西洋に見た東洋、東洋に見た西洋、いずれも私の記憶の中では一際異彩を放っていたのだ。

種々の二律背反を同時に表現している空間や建築に出会うと浮遊感のような幸せを感じるのが、
はて、これは何の効果なのかい?あらゆる意味で"混ざりもの"として生きて来たゆえの自負か?
答えは依然として不透明なままでよいと感ずるが読み取り難い空間には言い尽せぬ愛を覚える。
と同時に、精神の根底から何かを奪い取られるような強い感動がそこにある。空間は生き物だ!
なんて、当たり前のことを私が呟こうともあまり意味はない。空間を生かすのは産業だから。

あまりの無力さに気付いてここで話を止めて良いとも感じなくはないが、さりとて共感覚は別物。
性陣で埋め尽くされたかのような緑一色の業界にあって、これを論じ始める私はかくも弱い。
"建築工学"との名の下に存在する書物を読み始めると、共感覚そのものが滅びたかのように
錯覚してしまいがちである。ま、何のことはない、当事者が共感覚者でなかったとそれだけの話。
共感覚者の男女比率がこれに関係するのかはさておき、建築自体がそのような枠組を持つ、と。

一般解を定めないことには雨風を凌ぐ為のシステムも考案できないから、特殊解は放置される。
言うなればこれは自然の条理なのかもしれないが、実際問題、空間は特殊性により息吹を上げ、
我々人間の生活に在るのだとも言えようか。そして、ここで先験事象としての一般解に目が行く。
誰が其れに重きを置き始めたのか?と。かくして、延々と続く堂々巡りのレースが始まりを告げ、
虚構としてそこに建っていた構築物は瞬く間に無秩序の奴隷と化してゆく。形はそのままにして。

空間が男性であり、物質としての大地が女性であるとする考えもあるが、はて、現実や如何に。
あまりにも単純な話であり、共感覚的に捉えるならば馬鹿馬鹿しいとすら感じられる争論なれど、
金科玉条の如くこれが通ずるのはなぜか?少なくとも、人に造られた土地にのみ焦点を当てると
物事の答えは一つだけでよいように感じられてしまうものだ。創られし空間の流れは否を唱える。
現実として網膜や皮膚ではない脳内が感知する共感覚的空間、これに一度身を委ねてみようか。
(続く)

mix, fix and transfix

  1. 2008/09/18(木) 21:48:12|
  2. 数 と くうかん
  3. | コメント:0

音の行間に潜り込む

どういう訳か、音楽を専攻していた訳でもないのに私は音楽CDをたんまりと持っている。
中学の頃から、音楽史と美術史、建築史、政治思想史を丹念に追い掛けていたこともあるが、
いつの間にやら音と形の関係性を感じずして、考えずして音楽を聴くこともなくなったと実感する。
と同時に、建築の中に共感覚としての音や色を知覚せずに過ごすことも、考えられぬほど。
自らの設計行為では音楽を聴きながらの作業はできないものの、音楽は人生に欠かせない。

街並みを見ながら音楽を聴く、部外者から見れば奇妙奇天烈な話だろうが、はて現実は如何に。
音楽と言えど、風景に知覚する共感覚は"何拍子の何々調の曲"なんて分かり易いものではない。
どこか解体された、現代音楽に近い様相を帯びた自然体の旋律の集合体。そんなものだろうよ。
一般に"下町情緒漂う・・・"、"城下町の面影を残した・・・"と表される風景の形容詞のようなもの、
私はそれらを物理的視覚情報から理路整然と読み取っていることに他ならぬのだと言えようか。

建築基準法や都市計画法と言った、政策上の立法が音となる。考えるだけでもおかしなことだ。
それら法制の矛盾や不調和が一定/不定のリズムやメロディーで感じられる。政治家は知らずとも
私の中では自ずとその思惑が音源である建築によって分かるのだから、皮肉にさえ思えてくる。
世界一不純なアートが至極単純な音の羅列となるその様は、どこか潔くて愉快な現象なのだが、
かくたる人間社会の営為を言語や経済行為とは一線を画した観点から切ると、本質が抽出される。

こう言った"決まり事"となれば話はそれだけで済むだろうが、実際には建築家なる存在もいる。
あの作家はこれこれの作風で何々の材にこだわりを持ってデザインをする、とまぁ、建築雑誌では
批評が為されていく訳であるが、私の中ではこれとは別軸での共感覚的建築批評が存在する。
学校時代には決して口外しなかったものの、所謂、巨匠の作品の醸し出すテイストが気に入らぬ、
そんなことが始終ある。無論、業務上では眉間に皺が寄ろうとも、だんまりを決め込んではいるが。

20世紀の二大巨匠と称されるLe CorbusierとMies van der Roheの作品、いずれも好かぬ。
彼らの作品で"心地良い旋律"まで到達した作品は片手の指で事足りるな。嗚呼、嘆かわしい!
空間の生まれ持った流れや質感―Genius Lociとでも呼ぼう―を片っ端から無視したかのような
切り裂きジャック的な彼等の蛮行が許せず、Miesの著作に至っては読みながら激怒したことも。
空間のコンテクスト自体を人工的に造りもした西洋社会だからこそ、彼等の音楽は成立し得た。

Antonio GaudiのSagrada Familia、Casa Batlló、Parc Güell、いずれも有機的な造形だが、
私の共感覚音楽ではいかにも頽廃的で、なぜこれが名作なのかと立ち止まって考えたものだ。
無論、これらは共感覚の認知以前の話であるから、こういった悩みもあって然るべきものと思う。
に対して、Frank Lloyd Wrightの作品は最初からしっくりと脳内世界に収まってしまった部類で、
帝国ホテルのシャンシャン鳴り響くデザインはいざ知らず、彼の奏でた音楽は心地良いと感じる。

どう考えても主観的過ぎる知覚現象ではあるものの、こういった建築の楽しみ方がなかったなら、
敢えて建築設計に首を突っ込むこともなかったはず。何しろ、幼い頃の私は空間に敏感過ぎた。
余所の家の佇まい一つで怯えて足が竦んでいたほどの人間がどうして建築を志そうと思うのか?
高所恐怖に閉所恐怖、単なるアゴラフォビアの結晶体と化していた共感覚者の変化は急だった。
知りたい!聴きたい!触りたい!そんな"ゆかし"の小船に乗せられてここにたどり着いたらしい。

現実として、私が目指すのは視覚的デザインそのものが宿る現場ではないのだと推測している。
ものづくりの根幹に潜む知覚現象と人間の意識の関係性には興味が尽きない。実践の現実、
その背後にある文化的精神、それを司るのが尽きる所、共感覚のような現象認知に結び付く。
空間のコンテクストの解読や流動する世界情勢を読み解く行為は、音楽の解析に類似している。
これらの位相差を事細かに読み取り、何らかの関係性に出会えた瞬間の喜びは絶大なもの。

はてどういう訳か、この空間的音楽の解読行為、論理の初めと終わりが瞬時に掴めることがある。
殊に、既存の建築媒体に関する話であれば尚のこと。史実と現実の構築物がすべてを鳴らす。
音楽としてのクライマックスがどこに来て、誰が演者となるのか、それを読み解くのは清々しいわ。
これから起こることであろうとも、既に里程標を過ぎた建築であろうとも、このプロセスは同じだ。
視覚的な表現だからこそ、共感覚としてそれが判別できるのか。その答えは一先ず保留にしよう。

fiddle riddle dum-ti-dum
  1. 2008/09/16(火) 00:03:06|
  2. 数 と くうかん
  3. | コメント:0
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