seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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黒子の歩みをたどる ― 階層的回想録Ⅲ

共感覚者の空間認知能力、これには諸説存在する。方向音痴と聞いたかと思えば、逆も知る。
詰まる所、これも個性との結論だけでは話も前には進まないばかりか真実も遠ざかって行こう。
どの共感覚に重きを置いて当事者が生きているか、に焦点を当てることは何がしかの助けになり、
眼前に立ちはだかる幾つかの疑問を解く鍵となり得る。複数の感覚情報を制御して生活するには
多少なりとも工夫が要るのは当然であり、不随意な知覚現象と言えど"不条理"なだけではない。

まず、私自身の過去から遡ってみようか。今では建築や都市といった空間構築に関わるものの、
小学生の頃はひどく方向音痴で、一人で自由に移動できる範囲が異常に狭かったと記憶する。
まだオランダに居た頃は、Amsterdam School(一デザイン・スタイル)の有機的なレンガ建築が
音の共感覚の微細な違い以外はすべて一様に見えていたために、東西南北など到底知り得ず、
私自身にとっての"徒歩圏"は同年齢のオランダ人の子どもよりも"未開"だったのではないか。

空間把握能力という一点に関して言えば、これが発達したのは大学に入って以降のことだろう。
幼少期から欠如していた能力の存在を、知識として建築を体系的に学ぶ中で十分に意識して、
文献には決して書かれることのない音楽法則としての空間の法則性を学習していったということ。
無論、学習したのは私の主体的な意志(随意)によるものもあるが、"脳内学習"も同時に行われて
相乗的に共感覚的な空間認知手法が功を奏するようになった。しかし、話は音楽のみに留まらず。

場所の名前、空間の質や方向性、これらを言語化することを建築の教育システムは要求する。
一般に、物事を記憶する時に複数の感覚情報を総合的にリンクさせることは非常に効果的である。
知覚器官からの外的刺激の知覚情報に加えて、いくつかの共感覚情報を重ね合わせることで
結果的に、私が抱えていた方向音痴もかなり短期間にして解消されていった。地図を持たずして、
東京都内を縦横無尽に闊歩できるようになったのは、建築教育と共感覚による効果と言えよう。

複数の共感覚情報を組み合わせて脳が環境を把握していくのも、原感覚情報同様に意味がある、
との答えがここで導き出せそうだ。これは知覚量の多さで混乱していた幼少期との相違だろうが、
建築空間に見えるゲシュタルト法則と、音楽の譜面上の視覚情報を相互に参照したということ。
その上、さらに言語情報をいくつか加えた総体を知識として捉えるならばどうなるのであろうか?
情報の複雑系のスコアi.e.音楽情報が、都市計画図や建築設計図からも読み取れるようになる。

さて、ここで再びレイヤー概念の構造に目を向けて行こう。複雑化させたら逆の事象も存在する。
空間の条件、音の共感覚、言語etc.は、厳密に分けて行けば別々の感覚情報ファイルに在る。
しかしながら、ファイルに相互リンクを貼ることは幾らでもできる。不随意にも随意にも可能だろう。
日本の小学生が何千字という漢字を読み書きできるのは、仮名・漢字を一度見掛けるだけでなく
発音し―聴覚情報化、何回も書いて練習するからである―視覚情報化。単純で、複雑な作業。

言うなれば、単純なデータ処理行為をどこまで行なえるのか、そのことに尽きるのであるが、
漢字の学習などは(あるいはピアノの練習も)、脳の不随意な学習が行なっていることであろう。
本人が快感を覚えて意欲的に学習する以外の要素も、十二分に関わっているのではないか?
当然の事ながら、速く覚えられれば本人の感情領域にも多いに作用するものではあるのだが、
リンケージ生成に逐一気付いている子どもなどそうはいない。無論、例外は存在するにせよ。

"AでなければBを選べば良い"という世界観もあるが、"Aでなければを選べば良い"もある。
言語間・感覚間のリンケージの多さ、海外に暮らした・渡った人間ならば、この"情報置換法"を
ある種の冒険心や恐怖感と共に大なり小なり活用することもあろうか。生活や生命のために。
言葉でなければ身振りや視線で示すか、絵や図を描いて相手に意志伝達することも出来るし、
自分自身の語学学習上でこの手法が生きることもある。手段を選べない学習環境もあるのだと。

すべての物や条件が与えられた環境の中だけでは人間の感覚知覚は学ぶことも忘れるもの、
これは共感覚の有無に関わらず当てはまる事象と考えられる。感覚情報ファイルに収まる情報、
その中には快・不快に関係なく存在するものも当然あり、個性により好き嫌いも作られるだろう。
しかし、種々の情報を知覚する環境条件が毎回整っている確率などゼロに等しいものである。
"時間"という魔物はかくも奇妙であり、それでいて創造性の源とも成り得ることの証拠だ。

リンケージ、またの名を共通感覚と称される感覚は、その活動範囲が意外にも広いようであり、
文字一個に対応するレイヤー構造を一つに束ねていることもあれば、ファイル間にも介在し得る。
だが、共感覚現象そのものの知覚に回帰するならば前者に在るリンケージに注目してみたい。
後者は比喩として言語の中で多様に生きるものであるが、前者の出現は唐突なケースが多く、
このゆえに当事者以外からの誤解も生じるということ。共感覚はディテールの真骨頂である。

Such far away, but she's been there on your side
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  1. 2008/10/04(土) 09:31:28|
  2. 階 層 的 回 想 録
  3. | コメント:0

何がその姿を決めるのか ― 階層的回想録Ⅱ

文字に色を感じる共感覚、これはこの知覚現象のタイプとしては色聴と同時に良く知られている。
無論、認知されていると言っても現状はそう喜べるほどのものではないが、知識としての認知、
これが皆無という訳ではないだろう。しかしながら、文字の色、と単純に表すにしても実に多様だ。
文字の形に色を感じるgrapheme型、文字の読みor発音に色を感じるphoneme型もあるのだ。
Graphemeとphonemeの邦訳用語は、私の知る限りではその色を聴いたことも見たこともない。

だがしかし、あったからといって何の役に立つ訳でもあるまい。それはただの分類だけだから。
一つだけ私自身が海外書誌からの知識として推測できることがあろう。私の共感覚の特徴、
と安易に断言はできないが(何せ多様性の宝庫だから)、私が日本語の色・形を知覚する際に、
文字一つひとつの色に注目するのは確かだ。音読み、訓読み、それに送り仮名、私の場合には
これらの個々の色が分からないことにはまずもって今も昔も日本語を読み、書き、話せなかった。

序に言えば、私が英語・オランダ語を認識する構造も同じ。アルファベットの中で"死ぬ"色はない。
各々の文字の発音に具わる色・形・性格・性別、それらの全共感覚情報の組み合わせを記憶して
これまで言語を学んできたということ。"あいうえお"は行ごとに"クリア"していったようなのだが、
オランダの小学校では"ABCの歌"なんぞ歌ったことはないので、A~G、H~P etc.の並びでは
知覚する必要もなかった。自由に宙に浮かんで、旋回しながら昇って行く文字の色を覚えただけ。

地球上の言語・文化の構造はあまりにも複雑であり、共感覚も同様にして複雑だと感じる。
ある国の人々は、文字列に"dominant colour"があるというのに対し、他の国ではそれがない。
音楽関係者が発音の色の違いに細かく注目したり、物理学者がカラフルな公式を記憶したり。
要するに、すべては個体差に結び付けられてゆく。この複雑さを困難さと取るか、豊かさと取るか、
これは人それぞれだろうけれども、共感覚者本人の証言ほど深い意味を持つものもないだろう。

数限りなく存在する共感覚情報と原感覚情報―すなわち"一般的"知覚情報―とを束ねていく、
共感覚者の脳内ではそんな記憶の作業が延々とシークエンスを描いているのだろうと私は思う。
言うまでもなく、このような記憶の体系化は共感覚の有無に関わらず、脳の学習行為の中では
人類史の中で普遍的に行なわれて来た事象であろう。多感覚統合情報、そういった情報により、
空間知覚や全般的な環境認知が可能となる。すべては共通感覚の成し得る業なのだろうか?

この情報処理行為を複数のレイヤーの重ね合わせの図式で考えていくことにでもしてみよう。
文字の形状、音読み・訓読み等の発音、意味といった要素は共感覚抜きでも一応は成立する。
これらの情報の重なりの中にいくつかの共感覚知覚による情報が不随意に挿入されてゆき、
時間変位を加味した学習行為によって、まとまりを持った情報として咀嚼されていくということ。
では、なぜ、"無味乾燥な"文字数字の共感覚に人格や性別などのイメージが具わるのか?

この先の話題に踏み込むには、共感覚者の成長過程での知覚体験を須く掘り起こさねば、
真実は顔を出しては来ないことだろう。"時間"という類稀な存在によって解き明かされること、
これは無数に存在する。いつ、どこで、どのような環境でその共感覚は"学習"されたのか?
意外に勘違いされているのだが、成人の共感覚と赤ん坊に具わる新生児共感覚は厳密には
異なる知覚現象であり、共感覚者の脳が未分化とする考えは科学的にも精確とは言えない。

人間が産声を上げた瞬間から視力や聴力を5歳児のように巧く使いこなしているはずはなく、
徐々に自分の生きる環境に適応していく、そんな段階的なプロセスの中で何もかも学んでゆく。
いくつかの条件が重なることで、共感覚者は共感覚を強固な感覚として認知するようになるが、
音・色・光・形・香り・味・・・として在るレイヤーの背後に"条件"としてのサブレイヤーがありそうだ。
総じて私が思うのは、このサブレイヤーこそが共感覚の個性を裏付ける証拠の居場所なのだと。

相対的な環境条件で微妙なブレをも見せる共感覚であるが、レイヤー/サブレイヤーにある、
階層性の構造如何で共感覚者の中での、現象認知への印象も変わってくると私は考えている。
共感覚者Aが文字の形に強く色を感じるのに対し、共感覚者Bは文字の発音に強く色を感じる。
不随意に知覚される現象であるゆえ、本人の意識的な操作により"加工・編集"はできない。
生まれ持った脳の個性、これと環境条件の順列・組み合わせで各要素間に関係性が生まれる。

文化や言語環境といった"他者全般"がこの階層構造の組み方の決め手と成り得るのだろうか?
脳の学習活動の多様性・可能性からすれば、私一人には断定はできない。何でもアリだろう、と。
英語を話し続ければ英語脳になり、日本語のみの環境で育てば日本語脳となるか、という事柄は
争論を巻き起こしかねない事象となろう。というのも、両方を持ち合わせた私もここにいるからだ。
種々の共感覚の共存が成立することもある。要素間の優劣が相殺される、これは無きにしも非ず。

Even stoppen, en ga ik naar buiten
  1. 2008/10/03(金) 00:48:02|
  2. 階 層 的 回 想 録
  3. | コメント:0

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178773

Author:178773
ある共感覚者のひとりごと。

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