seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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それが希求した

宇宙の果てまで突き抜けるような苦悩を体験すること、誰しも一生に幾度かあるはずだろう。
自分はこれ以上はもう苦しまないと思ったのに、そんなことを繰り返すのもこれまた真実也、と。
そういった事柄の後に吹っ切るため、立ち直るために私はいったい何をしてきたのだろうか?
傍から見ればどうでもよいことで悩む人間である。私の再スタートのプロセスも同様にしてあり、
"どうでもよい"はずの色について考えあぐねては立ち止まり、そこから歩き始めてきたらしい。

堂々巡りが造り出す色合いに辟易とした頃に、長い眠りから覚めて絵筆を取り出すということ。
いい加減に、適当に、我が身をピグメントの中に放り込んでやりたい気持ちも十分にあるが、
いざ色彩のこととなると、とても自由には振る舞えない自分に気付かされるのが精々の始末。
姿をくらました記憶を追い求めている訳でもないのに、なぜに過去に縛られているのだろうか?
何度崩れても決してトーンを変えないイロハ50音を一つひとつ目で追いながら笑う自分がいる。

何度消えても共感覚は必ず戻る、と確信できる訳ではないのにどこかで信じねばならぬのだ。
この現象なくして自己は存在し得ず、そんなふうに感じるのは感覚へ依存しているからなのか?
至って自然に生活しているつもりでも、"普通ではない"自己を直視せざるを得ない時がある。
個性の許された社会に生きる者ならば、共感覚が"想像がつかない"はずはないのだろうが、
幾重に重なったこの知覚様式が、時として理解の範疇を超えた現象に成り果てるらしい。

マジョリティーに属していた記憶さえない私にとって、バリアフリーという言葉は妙に思える。
この概念を据えなければいけないという考え自体が、時として浅はかにさえ感じられるのだ。
ともすればカオスだと間違えられる共感覚の世界には、バリアも何もあったものではない。
垣根もなく、遠くまで広がっている小麦色の平原を眺めていることで何が問題と成り得ようか?
他者にはこの"もう一つの風景"がない、とただそれだけの結論に至るのが常であろうから。

あまりあるほどの意味を持つ事象をたった一つの単語に置き換えること、この行為には
いささか違和感を覚えるものである。共感覚にしても、バリアフリーにしても同様であるが、
事物の多面性を殺ぎ落とすような認識が生まれるのではないか、との思いを捨てられない。
人間そこまで単純じゃない、ということ。だかしかし、一筋縄に行かないから世界は楽しい。
すべて思い通りになるように闘うのではなく、調和を生むバランスを探し続けていたい、と。

どうやら私は自分の身から絵の具を振り払うことも許されていない。これが共感覚か?
人間の思考が感覚と共に在る以上、共感覚者はこの感覚のない環境では生きられない。
仮に生きられると意気揚々と宣言できる者あるならば、逆に私は尋ねてみたいほどだ。
"アナタは共感覚者か?もしそうであるならば、この感覚を失ってみたことはあるか?"と。
感覚の不在は自己の不全感につながる。Indeed, the missing piece plays the role!

You know, it goes further...
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  1. 2008/11/24(月) 17:36:40|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

思考の生命をつなぐ

痛みからの解放、これを待ち望むことの意味を知らぬ人はそう多くはないことと思うのだが、
この事象も共感覚同様にして主観的なものなのだと、近頃は尚のことよく感じるのである。
物理的な痛みも、心理的なそれも自己と他者の知覚方法の違いでブレを持つものなのだ、と。
苦痛の多過ぎる生活でも感覚は麻痺するし、何の問題もない状態でも人は何かを忘れ行く。
これが他者理解のみならず、自己理解にも大きな影響を及ぼす事柄なのは間違いないか?

常日頃、痛みから解放されることなく生きている今の私にとって自分の不完全さに学ぶことは
殊の外多いものである。物理的な弱さによりもたらされる心理的な崩れはいかにして生じるか。
このバランスをあたかも他人事のように眺めている自分にどこか恐ろしさを感じることもあるが、
ふとした瞬間に、これが共感覚に彩られた固有の思考風景によるものだと気付かされるのだ。
整然とした色の重なりと、弱さを露わにした色の混ざり具合。その差異が歴然と見えてくる。

同じ過ちを決して犯さないような理想的な人間では決してないが、過去を色に還元しながら
私は今ここにいるのではないだろうか?色は頭の中だけにあるので、全くの空し手ではある。
しかしながら、あれらの無数の色にどこか重みを感じることがあり、"無"ではないということ。
共感覚の世界にはこの重みのある何かがあると自覚するのだ。人は何をもってして人となり、
過去の記憶を呼び覚ますことが出来るのであろうか?時として疑問に思えて仕方ない。

仄暗いオレンジ色の洞窟に自らの手を差し入れて、思い出を取り出す時の言葉の変化。
突き抜けるような言語の違いが、海を隔てることなく自分の頭の中に居座ったままなのも、
記憶にすべて色が付いているからである。これは嬉しいことでも、苦しいことでもない。
ただずっとそうだったから、これを疑うことが許されないだけで、私個人にとっては普遍だ。
そうではあっても、現に知覚する物理的な痛みは色があっても何とか回避したいと思う。

恐らくは、脳内の同じ機関で知覚されている色彩ではあるのだが、その種は多様である。
文字や数字に感じる色彩も、音楽の流れが奏でる景色も、痛みが発する色もそこに混在し、
それに加えて外界の物質に知覚する彩りもある。機械的にすべてを処理する脳の中では
果たしてこれらに厳密な違いはあるのだろうか?今の私からしてみれば、違いはなさそうだ。
片頭痛発作中は、好きな音楽でさえ耳元で狼の雄叫びを聴かされているようなものだから。

頭が痛みを覚えているということは、明らかに脳が異常を訴えている状況ではあるのだが、
上手く働いている脳と非常時の脳の違いとはいったいどこにある?思うに、これの背景には
フィルタリング機能が働いているかいないか、その程度の違いしかないはずである。
とはいうものの、共感覚そのものにはこういった"欠陥"があるとも感じられないのであり、
この現象には、各々の文字に固有の色分けが為されているような"几帳面さ"が生きている。

と、痛みで朦朧とした我が脳ミソはしばらく考えていた。明日にはあれら痛みの色たちに
死んでもらおうではないか!とにわかに苛立ちを覚えながらも、立ち止まって構えている。
いつ止むとも知ることのない長いトンネルの中で無数の星が降って来る様を眺めつつ、
またも私は痛みの海に再会することとなろう。他者の曲解によってもたらされたこの痛みが
過去の色となるにせよ、現在形で在り続けるにせよ、共感覚の色はこの命とともに在る。

Antwoord alst u blieft!!!
  1. 2008/11/16(日) 14:04:25|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

logical dumping Ⅲ

ふとした瞬間に思い返すことがある。なぜ、人は目の前の人間と同じ言語を話すのか?と。
社会的な生物だからさ、だけではあまり納得の行かない結論となろうか。しかし、それが現実。
これまで頭の中で三種類の色合いを生息させてきた私の頭は奇妙な疑問に多くぶち当たる。
我が物顔で自分たちが話す言葉が、一瞬のうちにどこか遠くに浚われたら人々はどうなるの?
自らまた新しい言語を作ろうとするだろうか?ある程度無意識になると、想像できない話だ。

私個人の経験からすれば、共感覚は人間の言語生成にはあまり関係がないように思うのだ。
言葉は本来、相手と対話するために作られたのではなくて?無論、これに絶対的結論はない。
対話するためではなく、自分個人の楽しみのために言葉を活用するのは誰しもあるのだから。
他者と関わることそれ自体に難しさを抱えていれば別軸の論理も在って然るべきことなのだが、
総ての考えは複合的条件の中で生まれ、形を変え、受け継がれて行くことなのかもしれない。

同じ音や形の共感覚を感じている共感覚者に出会えたことなどないのだから、況してや、
社会集団の中でお互いの共感覚を混合しながら新言語を作っていくことなどできただろうか?
我先に、と自分の領分を示すナルシストが言語を作った、となればそれは圧制に他ならず。
仮にそのような言語新作をしたところで、流行が廃れるか、自然淘汰に遭うものだろうし。
どんなに歴史を振り返ったとしても、人間の造った記憶史が殊の外脆いのは言語史も同様。

思うに、言語生成に関わるのは共感能力の方だろう。自分のAが他者にとってBであった時に、
我々はどんな反応を示すだろうか?Aに間違いないと言い張るか、またはBを受け入れるか。
子どもが言語を学ぶのは一対一の機械的対応化のメカニズムもあろうが、成人以上の集団で
新たな言語を対話や表現のツールとして用いるのとなれば、意識的受容の問題となるはず。
社会的言語とはそういった関係性の中で培われて来たものであり、独断的には興らない。

不思議なものであるが、外国に住む外国人同士の対話の仕方を見ているといろいろ学べる。
自分の話すのと同じ言語圏の人間に出会うと少数派の外国人は自国語を使って対話する、
小さい頃住んでいたオランダではどこの国から来た外国人も同じ習性があったと覚えている。
国籍数で比較したら、日本など足元にも及ばないほどの多文化国家で当てはまったことは
日本でも同様なのであろうか?ムラ社会の発達した日本ではどうにもそれだけではなさそうだ。

私自身の習性を見返してみれば、小さい頃は上手く使い分けていたのか?子どもだから、
これは相当意味を持つことであるが、機械的にその場の言語の種類を見極めていたと思う。
成人してからの方が外国での身のこなし方に逆に困ったのだから、年齢とはおもしろい。
色相で言語を当てる、こういうことは共感覚をより強く意識すればできるものではあるのだが、
共感覚を持たない兄弟が私よりも器用だったことからするに、単なる年齢的な事象にも感じる。

相手の表情を見ていれば、こちらの話している言語が分かる・分からないは自ずと判断でき、
場合によっては不快な表情をしていることもある。その良し悪しも考えずに突き進むというのは
どこの国に生きていてもあまり心地良いものではない。国際理解とはかくたる問題に他ならず。
目での会話を重視するよりも、お辞儀と美辞麗句で話が済んでしまう文化は時として恐ろしく、
本当の意味での他者理解がこの国の中で中々進まない理由もそこにある、と思ってしまう。

相手の感情を読み取る作業と言語を理解する作業、これは別世界にありながら交点を持つ。
そう、かなり多くの交点が存在するからこそ他者理解は難しいし、味わい深いものだと感じる。
建築のプロセスでは立ち止まるべき箇所で対話を多く重ねる。文字通り、折り合いを付け、
辻褄が合うかどうかを確認していくということ。論理の道筋をはっきりさせることは必須である。
相手が求めている言葉の色ではなく、お互いのヴィジョンにある光を探し求めている訳だ。

See you there, then
  1. 2008/11/06(木) 22:44:47|
  2. もじいろ おといろ
  3. | コメント:0

規格のない場所にて ― 階層的回想録Ⅳ

たった一つの文字に対して人間の脳がどのように動いているかを考えるのは、実に骨が折れる。
あまりにも当たり前過ぎて、日々を忙しく過ごしているならば、微々たる知覚現象の意味などは
疑いの対象から遥か遠くに向かってしまう。人間社会は実に複雑で、入り組んでいるのだから。
はて、共感覚者として生きてきた自分はどうなのだろうか?しばし、ミクロの世界へと旅立とう。
幾度か解体作業を繰り返してみれば、何がしかの真実が顔を出すことだろう。如何に小さくとも。

仮に、平仮名の母音である""を例にでも取ってみることにしようか。ひどく単純ではあるが、
母音と子音を比較するだけで、私の場合、海を越えねばならないのでこの文字が手っ取り早い。
しかし、と言えど文字の形限定の共感覚でなければ話は成立しないので、それなりに複雑だ。
発音としてはこれがオレンジに近い形なこともあれば、に聴こえることもあり、口の形一つで
言葉の色が変化してくれるのは当人としてはミスも多ければ発見も多い。そういうものだろう。

青と赤では共感覚としての一貫性が保たれていないのかと思いきや、私としては問題はなく、
で始まる家族の名前がなのは小さい頃からずっと変わらないのだから逆におもしろい。
文字の色の名前が何であろうと、存在の違いは学ぼうと思えばいくらでも学べるものであるし、
それは洋の東西問わず、どこの共感覚者にとっても分かることではないのか?そうでなくしては
感覚が感覚と呼ばれ得る所以それ自体宙に浮いてしまうことだろう。感覚は考えないものだ。

結局、文字の形と発音・読み方・書き方・意味・・・とたどっていけば要素はばらばらにされて
得体の知れないはずの共感覚情報もそれ以外の感覚情報と肩を並べることになりそうである。
そこで問題となるのは、個々の知覚要素がどのような形で束ね合わされているかということ。
文字xn個あるならば、それらの要素すべてが同じ形や大きさを持っているのだろうか?
自らの脳の中を客観的に解剖・観察しながら生きられた人間はいないので、総ては謎のまま。

とは言うものの、日常の出来事を振り返ると誰しもある意味で気に掛かる点に出会うだろう。
どんなことが得意か、はたまたどういうことでミスをし易いか、記憶の方法の特徴は何か等々、
個としての傾向を純粋に見据える中で、人間そのもののつくりが垣間見えることもあろうか。
完全ではないからこそ人は変化して学び続ける、その意味を私は感じずにはいられない。
一度で総てを学習すると思い込める脳ほど怖いものはないのかもしれず、人間は脆いものだ。

もし共感覚が一度で総て学ばれたのであれば、逐一文字の色を気にすることもなくなるし、
音から色を感じ取ることもない。毎度、知覚情報を再保存して行っているのではないだろうか?
そんなプロセスの中で好き嫌いが造られるのはともあれ必然であり、そこに決まりなどない。
同じ大きさの紙が几帳面にファイリングされている感覚ならば、共感覚が創作に結び付くのは
皆無に等しいであろう。無造作に詰め込まれて今にもはち切れそうなファイルが歌い出した。

blo blo blo
  1. 2008/11/01(土) 23:05:36|
  2. 階 層 的 回 想 録
  3. | コメント:0

プロフィール

178773

Author:178773
ある共感覚者のひとりごと。

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