seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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フタをすべきではない理由

共感覚の強弱を決めるのは一体何か?これは時々私の中に沸き起こる疑問の一つ。
結論から言えば、あくまで主観的な知覚現象である以上その強弱も同様の性質を持つ、
としか述べ様がなさそうだ。他者にわかったところでどうしようもないので、それでよい。
物理的・心理的な痛みが他者にとっては相対的な意味合いしか持ち得ないのと同様に
共感覚の有無、強弱、多い・少ないも絶対的な基準ができたとしても何も変わらない。

当事者側がこの感覚がある、と主張しても十中八九真剣な話題として受け取られず、
"暇人の戯言"のように通過されるのが世の常とみなすだけで良いのか?答えが出ない。
無論、理解されることでこちらの孤独感は和らぐし、社会的な偏見が無くなくなることで
心の負担も軽くなるものである。日本のように、個々人の相違点を素直に受け留められず、
個性に対する主体的認識の薄い社会では、尚のことそれが当てはまるようにも思う。

そんな理解の浅い環境下で共感覚の"質や量"についてどうこう述べたところでどうなる?
期待しても意味がないのは百も承知で、ディテールに目を向けてみることにしてみようか。
共感覚も所詮はタダの感覚であり、要素としてはそれ以上の職能はないと考えているが、
これが感覚であるならば、共感覚の健康・不健康もあるのだろうと近頃よく感じているのだ。
聴こえ辛ければ難聴、見え辛ければ遠視・近視・・・というように共感覚にも"健康"がある。

"共感覚は一生変わらない"とする説もあるものの、不変なのは感覚の量や質ではない。
特定の感覚刺激に対応する共感覚は変わらないという意味であり、言うなれば、概形だ。
フォントが変われば文字の手触りが変わる、色の付いた光の差し込む方向が変わる等、
知覚条件で共感覚が変わることは十分に考えられる。変わらない、という人がいるならば、
注意深く観察してみよ!と私は逆に尋ねたいものだ。"ハッキリとした"感覚なのだから。

ここで間違ってはいけないのは共感覚は感覚であり、感性そのものではないということ。
感覚ありきの感性ならば、多少なりとも影響を受けるとはいえ受け取り方は様々だろう。
すべての共感覚者が繊細であるとも限らず、例外こそがこの感覚の醍醐味だと私は思う。
逆に「共感覚とはカクカクしかじか」決め付けたところで生産的な話にはならないだろうし、
それでは非共感覚者が「共感覚なんて存在しない」と主張するのと何等変わらないはずだ。

さて、共感覚には変化や趣向がある、と日常的に感じ取らざるを得ない私からするならば、
この現象の健康状態を具に観察することは、ある意味では日課のようなものかもしれない。
性別的な要因もあるとはいえ、共感覚が強い時と弱い時とでは思考回路の中身も変わる。
知覚過多になれば表現するか何かで出力しなければやっていけないし、逆に少なければ、
取り込む量を意識的に増やさないことには、当然ながら気分的にも安定しないものである。

問題なのは、どちらかに(多いor少ない)シーソーが傾いたまま動かなくなる時だと感じる。
感覚的に言うならば、その過剰・過少状態が脳のメカニズムに刻み込まれてしまうのだが、
経験上、私にとってはこれは苦痛以外の何ものでもない。定常状態が変わるとなると、
まるで世界がSFホラーになってしまったような恐怖感を覚えるものであり、尋常ではない。
言うまでもなく、この状態は人工的な薬物によってのみ生じる変化で自然には起こらない。

共感覚が起こるのは脳の可塑性によるものだと聞くが、何もこの性質が該当するのは
この感覚が出来上がるまでのプロセスだけではなく、いつでもどこでも起こり得るはずだ。
薬物により感覚遮断が起これば共感覚は感じ難くなるが、この状況下で感覚を強化すると
障壁を取り除いた時に共感覚の知覚量は変化することもあるのではないかと私は思う。
心地良かったはずの感覚が恐怖になったこともあるがゆえ、こんな戯言を書き綴ってみた。

Division
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  1. 2008/12/23(火) 19:50:37|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

感覚について語るということ

普段の生活の中に共感覚を当たり前のように感じる私だが、この個人的感覚について
臆面もなく他者に語るのが、実はかなりの羞恥心を覚える行為なのは間違いないだろう。
感覚器官について常日頃オープンに話す人など世の中にそうはいないものであるから、
人前で共感覚の現実を話さねばならぬ時は、意を決して火の中に飛び込むようなものだ。
本人にとっては至って自然なことが当事者以外にとっては不自然極まりないということか?

表現は悪いが、共感覚について具に話すのは自分の身体機能について細かく話すこととも
そう距離感はないのであって、セックスについてオープンに話す感覚と大差ないこともある。
共感覚者が気恥ずかしさゆえにこの感覚についてあまり語らず、あえて隠そうとするのも
私からすれば無理からぬ話だと感じられる訳である。況してや、ここ日本社会ではそうだろう。
話されている事柄と寸分違わぬ内容であっても、KY呼ばわりされるのが精々のオチとなろうか。

はて、文字の色について事細かに解説せねばならぬことが私は近頃割りと多いのだが、
最も当たり障りのないはずのこの共感覚の型でさえ、第三者には想像のつかぬことらしい。
ヒトの知覚のプロセスについてある程度の知識を持つ賢明な人ならば、多少は理解を示し、
慎重に洞察力を働かせることでそれが精神異常などではなく、平静な心で分析されたことだと
気付くのではないかと私は推測している。がしかし、現状は困難この上ないものである。

傍から見れば何の変哲もないヒトの脳だが、その中身をどう動かしているかはわからない。
それにしても、だ。"一般的な"範疇に収まり切る感覚であればそれ相応に理解されるのに、
共感覚となると、あたかも実在しない感覚であるかのように勘違いされることさえ出て来る。
そんなのフェアじゃないぜ!と叫んでみたいのもやまやまなれど、共感覚は良くてサブ扱い、
いや、サブとしても存在を許されていないことが大半であり、市民権がない感覚なのである。

どうにもこうにも私はそれが腑に落ちない。というのも、私は生まれ付き文字の読み取りに
困難を覚えている人間なので、逆に共感覚を奪われたら人間らしさを欠くこととなるだろう。
"一般的に当たり前"であることを鵜呑みにしたところで、ヒトが幸せになる方程式が解けた
という訳にもいかないのが現実だろう。目に見えぬパズルを丹念に解くことも必要である。
本をただせばヒトのすべては感覚神経の集合体。されば、個が個たる所以は感覚にあり、と。

Do you know where you are?
  1. 2008/12/18(木) 22:45:10|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

logical dumping Ⅳ

生まれつきだが、私にとって空間的に物事を捉えることが自然で、それがフツーだと感じる。
このことは共感覚よりは幾分か言語や視覚媒体で表現し易いことなので助かることもあるが、
そうは言っても生き難さを覚える能力の一つであるのは間違いなく、時として考え込むものだ。
なぜ私の脳は摩訶不思議な知覚スタイルを持ち、個性たっぷりの思考法を選んだのだろう?
一生涯この疑問が私の頭の中から消え去ることもなかろうから、悩み続けるのも悪くはない。

いくつかの必然が偶然によって結び合わされて、今のこの私を生み出したのであるならば、
それを奇跡と呼ばずに何と形容すべきなのだろう?苦痛は多い人生ではあってもそう感じる。
複雑過ぎるはずなのに、隠されたsimplicityに喩えようもない感動を覚えてしまう自分がいて、
気付いたら銀河系の真ん中でポカーンと口を開けて流星を眺めている気分にもなるのである。
身包み剥がれてしまったかのような恐怖と孤独も、当然の如くそこに共生しているのだが。

今の歳にもなって自らの強烈な個性に心打たれるとは、努々思いつきもしなかったのだが、
はて、それならばこれまで何に目を向けていたのか?それとも、何も見ていなかったのか?
出る杭打たれるこの島国で私が努力して来たことと言えば、他者との違いの溝を埋めること。
それだけのために神経擦り減らしていた訳でもないが、大半の苦労はそこにあったのだと
幾分溜息混じりに気付く自分がここにいる。今だから言おう、御苦労な事であった!とでも。

NOと言えない弱さも多分にあるが、その性向が私の中に育てた強さも必ずやあるのだろう。
常日頃空間的に物事を考えられたことで、共感覚の印象にも幅が生じて来るのだと思うし、
これが私自身の表現力に何がしかのメリット・デメリットを加味してくれるのかもしれない。
脳の仕組みの遥か遠くに生きて来る想像力に何が出来るのか、今からでも試してみたい。
そう、私は鏡の向こうで多変数方程式を解いて終わるのではなく、今ここに生きている!

Niemand weet de einde
  1. 2008/12/12(金) 22:12:12|
  2. 数 と くうかん
  3. | コメント:0

インクの光を見ているか

何のために文字を見るのかと尋ねられたら、文字の色を読むためだと私は答えると思う。
本来ならば、文字の形を見てその意味を理解するのが妥当な答えなのかもしれないのだが、
果たして、文字に色を見る共感覚者にとってこの"道理"はどこまで通用するのだろうか?
この世界にはいくつもの法則が相容れないながらも共存していてまったく差し支えないはず、
と思うことで私の心の中にもスーッと一本の川が流れ、また平安な日常が戻って来るのだ。

さて、ここで次なる問いを掲げてみようか。これまで何のために文字を覚えたのか、と。
文字の形を覚えなければ書くことはできないという意識が人の心にあるのは至極当然の話。
またしても、私は色を引き合いに出さねばならぬ。文字を学ぶとは色を学ぶことに他ならず、
文字の色をきちんと状況に応じて把握できなければ、その意味も同様にして理解されない。
自分の中で形→意味、よりも色→意味の意識が強くなっていることを改めて気付かされる。

無論、これは漢字の多い日本語に限られた中でだけ適応される法則であり、外国語は
また他のアルゴリズムで理解していることも付け加えておく必要があることも付け加えよう。
平仮名の多い世界を生きていた子どもの頃も同様だが、発音→色→意味を結ばれることで
いくつかの言語に具わるカラーパターンを共感覚として記憶してきたということになろうか。
兎にも角にも、言語は色彩で語られ得るものだという強い確信が私の中に渦巻いている。

中学に上がった頃には周りに生きる大多数の人々が、自分とは違う文法の下にあると
知るに至ったのだが、実際問題、これを当時の私が説明することはなかったのだと思う。
なぜならば、その頃の私の脳内では日本語以外には思考言語が見当たらなかったので、
ある種の他者として自分の話す言語を反芻する機会それ自体がないに等しい状態だった。
幼少時に覚えたオランダ語が一通り頭の中から一掃された環境なれば当然の話だが。

日本語をそれ以外の言語で考えることなど出来ないが、それと同様にして外国語も在る。
英語は英語、オランダ語はオランダ語の世界でのみその色彩や音を操ることができる、と。
和訳だけひどく苦手だったのもこのゆえ?これに疑問を差し挟む余地はなくて当たり前。
ある国の言語を扱うには、当の言語の中で感じうる色彩の中に自分がいなければならず、
その色彩とは混ざらないものは何語だ、という認識が学習の過程でいつしか出来上がる。

私個人としては複数の言語体系の中に同時に身を置くことも今ではできるようになったが、
あれらの言葉が別個のものであるという意識が消えることはない。質感が違うからだろう。
これはちょうどテイストの異なる材料を組み合わせてコラージュ制作をするようなもので、
すべての言語を"外国語"と感じていた私からみれば、恐怖の念が薄いのかもしれない。
本来ならば身体と一体化した言語を他者とみなすには"エポケー"が必要だろうけれども。

共感覚の色は好き嫌いで決められるものではなく、脳が知覚の条件により決定していく。
外界に見るそれとは別の色彩であることは共感覚者本人の意識にも判然と現れるにせよ、
それが想像されたイメージなどではないと言える理由は果たしてどこにあるのだろうか?
脳画像なしに説明できる言葉を私は常日頃探し歩いているようにも感じられるのであるが、
そう簡単に解ける謎々ではない、と諦めかける自分に叱咤激励するのは何ともおかしい。

色の種類を分別する仕方ではいつまで経っても色の違いしか見えて来ないのだとは思う。
少し視界を広くして光の種類として共感覚を見据えると、物理的な事象が見え隠れする。
色付きの照明、そんなニュアンスである。ぎらついた光、透き通った光、落ち着いた光etc...
共感覚の色彩は印刷物のインクのような物質的感覚ではなく、非常に現象的な感覚だ。
色彩が脳内で光の波長の違いとして処理されるならば、文字の色もその延長線上にある。

Het was heel erg kort
  1. 2008/12/06(土) 13:16:17|
  2. もじいろ おといろ
  3. | コメント:0

プロフィール

178773

Author:178773
ある共感覚者のひとりごと。

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