seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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生命倫理のその果てに

共感覚が一報道番組で取り上げられた。心のどこかで喜びを感じ、と同時に考え込む。
この感覚の名前を初めて知った当事者がいると思うと嬉しいし、なんだか救われもする。
私のように心身ともに死に掛けた状態でやっとのことで真実をつかむ者はそう多くはなく、
大概の人は非共感覚者に不審がられはしても、健康なままにカムアウトできるだろう。
特別視することもなく、ただ単なる感覚として共感覚を受容する社会、アッパレである。

翻って自分のケースを振り返ると何とも後味の悪い状態だ。誤診が明かされるまでに
いったいどれほど長い年月が掛かったことか!嘆かんばかり、いや何とも悲惨なものだ。
想像もつかぬほどの侮辱の言葉を投げ付けられた過去は、実際消せない現実でもある。
共感覚は病気じゃない、障害じゃない、生まれ付いたタダの感覚です、と言いながらも
どこかで自信のない自分がここにいるのだ。人間不信か、それとも本当に傷ついたのか。

自分で言うのもおかしな話だが、共感覚についてはかなり勉強している方ではないか。
共感覚を学ぶ、と言っても当事者なので知るべきことは体験として既に知り得ているが、
一人間として苦しまねばならなかった理由を突き詰めたい、と私はいつしか思うに至った。
感覚知覚の裏付を取る、そんなものでもある。なぜここに生き、こうして考えているのか、
生命倫理を根本的に問い直す、どこか重苦しい響きの現実が私に追随してくるのだろう。

共感覚の種類が比較的多い私にとって、この感覚が一気に減ることは恐怖そのものだ。
生まれた時から是認されてそこに在る感覚、それが私の共感覚の本来の姿なのであり、
他者がどうこう言おうと、消し去ることは人としての生に対する謀反の如き話で、論外だ。
「感じ過ぎ」「神経質」・・・この手の言葉で侮辱されると何とも言えない怒りが沸き起こり、
人間のあるがままを現実として扱えぬ非共感覚者の弱さに呆れかえってしまうほど。

我が身に起こる共感覚、これに具わるフィードバック・システムに驚嘆することもある。
時折、片頭痛発作の最中にいつもとは違う部類の共感覚が顔を出すこともあるのだが、
あれらに関しては"不快だぞ!そちはお呼びでないぞ!"と心の底から拒絶してしまう。
元からない共感覚には馴染みがない、言い換えるなら自己と不可分の共感覚がある。
自己意識と結び付いた感覚は作り物でも異変でもない。生命そのものが変えられようか。

Kako ni hanabi wo utiageyo
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  1. 2009/01/21(水) 22:36:30|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

技術によって生きる

時として喜びや驚きをもたらす私の共感覚だが、概して言うなら平時のその姿は別物だ。
殊に共感覚の色彩を分析するプロセスは喜怒哀楽の囲いの外側に在る行為なのであり、
私の内的世界を守るものともなれば、人として生き方そのものに関わる事象だと感じる。
兎角、この現象はプラスにだけ働くものとみなされるか、或いはその逆に捉えられるが、
当事者の現実を言うならばそのどちらでもなく、価値判断はそう簡単には許されてもない。

では、なぜ芸術表現に結び付けられるのか?との問いには、生を実感するため、と答える。
私のように知覚刺激の大半に共感覚のある者には、これを感じることからは逃れられず、
かと言って大多数の他者には理解されないだろう現実も、そこに厳然としてある訳である。
共感覚をまるで信じない、言わば"排他"の塊のような人々であっても見えるものには弱く、
視覚媒体に映し出された共感覚には如何ともし難い実感を共感し得るのは、何の悪戯か。

この私からしてみれば"ここに私の共感覚は生きているではないか!"という思いであり、
色彩に張りめぐらされた己の感覚や思考に対する遣る瀬無い怒りや悲しみがあるのだ。
絵の中に色を重ね合わせつつ、"何ならもう一度生きてやれ!"と自分の思考を解き放つ。
こう書けば、感情論に終始しているかのような共感覚アートであるが、そうでもないだろう。
アウトプットされるまでの苦痛の期間の方がよほど長く、それこそは"生きること"だから。

世界の"常識的知覚"との距離を丹念に測りつつ生活するのは、ある意味非効率的で、
個は等閑にして集団に合わせる日本社会の習慣の生産性・創造性の低さに呆れることも。
共感覚は忍耐することの意味を私に学ばせた、と思うのは間違いないのだろうけれども、
ただ単なる知覚現象とは呼べない出来事を経験したことで私はこう考えるのかもしれない。
ある時期を何の苦労もなく過ごしていたのなら、洞察力を働かせずに息絶えていただろう。

小さい頃の海外生活が生み出した粘り強さ、これが今の私を形作ってくれたと確信するが、
その後の誤診体験も現在抱える後遺症との闘いもあれらの体験が支えていると思うのだ。
人と違うものを持って生まれる、見方を変えればこれは他者との決定的な別れを意味する。
言語や人種といった、子供時分にはどうしようもなかった事柄が私の中に生んだ諦念は、
決して無の世界のみには向かわず、主張し続ける強さを奮い起こしてくれたのではないか。

純粋に共感覚のみに関して言えば、これが人類共通の知覚現象と感じていた時期もあり、
逆に真実を知ったことで再び孤独感の波に襲われたのも明かすべき過去なのだろうか。
今となってはこう思う。モノが創造されるのは許されざる突然変異が起こるからである、と。
突飛な脳の存在を許容できぬ他者、重荷に潰され掛けた自己。現実を受け容れられず、
このまま両者は意味のない問答を続けてしまうのだろうか?人間の小ささが垣間見える。

要素還元されたヒトの脳機能を机の上に並べれば明白だが、数学の可能性は未知だ。
与えられた道具の使い道は何か?困惑した私は考えながらも自分の弱さを噛み締める。
何度か修羅場を潜って生きて来た私からすれば、共感覚はナンでもあってナンでもない。
感覚として"評価"されるべきはデータであり、私はデータの整理をして生きるのみである。
我こそは!と思う芸術家には共感覚は苦痛だろう。求められるのはエンジニアの精神か。

nagai mono ni makarete tamaruka!?

  1. 2009/01/12(月) 13:00:27|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

現象としての記憶

時折、記憶は現象である、と感じることがある。何故にこんな境地に至るのだろうか?
色彩や形態、質感、音色・・・etc.の断片が繋ぎ合わされて出来上がる構造物の神秘性、
これが共感覚によってより強調されるからか、ヒトの記憶の不完全さが逆に輝って見える。
複数の感覚情報をあの手この手で結合させながら過去に蓄えた財産を言葉に置き換え、
時の中を旅するヒトの脳内の活動は、現実世界の凄まじさを余所にどこか健気でさえある。

一度記憶を失ったことのある私にとって、人間の記憶それ自体"ケセラ・セラ"な代物であり、
あるに越したことはないが無くて七癖、その程度にしか思えないのも実際本音なのだろう。
記憶喪失を経験しないことが一番だが、本来あるはずのモノがないと世界の現実も変わる。
自らの精神の根幹に築いただろう骨組みが見えない、これは喩え様のない不安を醸し出す。
人間として生きて来た年数を錯覚するほどのあの違和感は、後にも先にも経験していない。

共感覚者ゆえか、記憶の風景の変化があまりにも顕著で当時の私は驚きを隠せなかった。
それまで過去の出来事や知識を思い出すとなれば、決まって色彩を漁ればよかったのに、
あたかもデータが消去されたが如く、白か黒のまっさらな記憶は何も語ってはくれなくなる。
初めのうちは何もかも霧の中、闇の中。幸か不幸か、エピソード記憶の一部は残っており、
誤診による悪夢の総ては事細かく覚えていた。この皮肉は後々に生きたのではあるが。

仮に、私が非共感覚者であったならば事態はどうなっていたのだろうか?総ては謎である。
共感覚が思考全体の特徴として"生きている"と感じる者なればこの意味も判るだろうが、
人間の記憶の細部を読み解いていけば、自ずと本人の性向も見え隠れするのではないか。
あたかもフラクタルな幾何学模様のように記憶が折り畳まれている、とそんなイメージだ。
思考言語、理論図式から体験する世界に至るまで行き渡る共感覚風景がそれを描き出す。

記憶がない、ないし消えた記憶が蘇る、ということは信憑性のない事象なのかもしれない。
それもそうだろう、でっち上げの嘘として"記憶にございません"という人も世の中にはいる。
がしかし、その方の人々は自分に都合の悪い記憶を思い出したところで口には出さない。
私にしてみれば、たとえそれが失敗の記憶であったとしても愛おしく思えた訳であって、
間違って覚えたことだろうと、苦々しい出来事だろうと、存在としてそこに居てほしかった。

なぜそのような思いが生まれたのか?これは言うまでもないが、共感覚の為せし業である。
他者のそれは知らない。が、私の中での記憶とは質感を伴った色彩世界として認識され、
そこに重みや奥行きがあってこそ、一秒前はたまた数年前を生きていたことが自覚される。
傍から見れば何の意味も持たない色の重なりの中に法則性があり、それらを繋ぎ合わせて
論理や状態が毎度導き出されていく。言葉としては再構築されるものの、存在は不変だ。

文字とそれに対応する色を結ぶという一見して何の変哲もない作業を続けただけのことで
真っ暗なもやが徐々に消え、やがて言語や理論として積み重なった記憶が顔を出し始める。
張本人も端から信じてはいなかったこのプロセス、奇跡と言わずに何と呼ぶことができるか?
無論、総ての記憶が蘇生した訳ではなく、保存されることもなく消えた共感覚も無数にある。
あまりに主観的な知覚とはいえ、記憶の断片が物語る現実は喜怒哀楽を呼び覚ますようだ。

Zo, wil je hier blijven?
  1. 2009/01/06(火) 20:42:28|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

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178773

Author:178773
ある共感覚者のひとりごと。

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