seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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所有しているものなのか

ひとえに共感覚と言えど、この言葉の幅は思いの外広いと感じることが時折ある。
十数種類ある自分の共感覚の中ですら、一括りに同じ感覚の為せし業とは思えず、
総ての感覚にそれ相応の個性があると思わずにいられない、いや、実際そうなのだ。
音の色の共感覚と数字の色の共感覚とが"同じ"現象だとは到底信じられないので、
仮にそうした定義があったとしても、この私には一つの囲いの中では扱い切れない。

共感覚の種類が多い人と少ない人では世界の感じ方は異なるのか、という問いは
ある意味では非常に愚かなものであり、問い直すこと自体然したる意味も持たない。
弱いか強いかの問いも同様にしてあるが、ここで論理の方向性を少し傾けてみたい。
自らの共感覚に対して"所有している"という、ある種の主体的概念があるか否か、
この点は当事者の精神世界の構築に多少なりとも関与している事象かと思うのだ。

例として、音楽に色彩を感じる共感覚がある。私自身、今現在は演奏者ではないが、
遡ること10年前は音楽を奏でる側だったゆえか、とにかく生活の中に音楽を求めた。
聴くにしてもただ単に耳を傾けているとは言い難く、全身がその色彩に浸かっていた。
建築に専念するようになってからは音楽固有の色彩を身に着けようとも思わなくなり、
時々"あの色が見てみたい"という程度。音の色はかつて所有していたモノとなった。

当然の論理だろうが、視覚・触覚につながる共感覚は所有している観念が強くなる。
私の場合、最もそれが顕著なのが文字・数字の色彩、続いて時間の色彩・形が来る。
日常の中で見る・活用する頻度が高ければ高いほど所有の概念は強くなっていき、
これは知覚する度合い(色や光の強さetc.)とはまた別の事象であり、ひどく複雑だ。
無論、生活の中でそれほどまでに共感覚が浸透していなければ不便はないだろう。

非共感覚者に自らの共感覚をぞんざいに扱われて傷ついた経験を持つ者もいるが、
時としてこれが立ち直れないほどのトラウマとなるのはこのゆえではないのかと思う。
共感覚を持つ・持たないを決めるのは実際問題本人の意思とは関係ないものであり、
不本意に所有する共感覚の存在と"向き合っている"と感じる者もいない訳ではない。
脳の可塑性所以の変化はあれども、感覚は自ら放棄できず、そうは望まないものだ。

もしもこれが疾病であれば話は多少分かり易いが、共感覚は疾病とは別物である。
種々の共感覚を上手くカンリする上では監理と管理の二つの役割を担うことになる、
と半ば冗談で考えることもあるが、現実的に私の共感覚とはそういった代物だろう。
自らの感覚に対する好き嫌いも存在するし、個々の知覚に何の境目もありはせず、
と宣言することはまずもってないだろう。だからこそ、一括りにはできないのである。

嫌なら消せばいいさ、と安易に口にする非共感覚者に出会ったことも私はあるが、
こんな時にこそ、共感覚の事細かな分類には目を向けられないのかと感じたものだ。
より深く、広い知覚として共感覚を体験する者ほど苦悩が尽きないのは何の皮肉か。
どんな状態で感じるどの共感覚が心地良く、はたまたどの感覚が不快で苦しいのか、
なぜ苦しいと感じるのか。日も暮れそうな話、ではない。明日も共感覚に陽は昇る。

Het gaat sneller dan jou
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  1. 2009/02/24(火) 22:26:28|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

食べず嫌いは損をする

やや現実的な問題ではあるが、共感覚について日本語で書かれた文献は少ない。
研究者が少ないこと、社会的認知が非常に遅れていることがその理由なのであろう。
がしかし、言語が変わったからといってただ何もせずに手を拱いているだけというのも
ひどく弱腰であり愚かな構えだと感じる。知識欲に勝る武器はない。違うのだろうか?
辞書を引き想像力を駆使すれば自己理解が進むのだから、苦労する意味もあろうかな。

帰国子女だから外国語に飛び込める、キコクは英語がわかる、との短絡的な声もあり、
盲目なその態度に私は毎度首を傾げてしまう。日本海の向こうはアメリカではないし、
無数の言語が大洋越えた地で今日も彩られているのを人々は知らぬのかとさえ思う。
あくまでも私が住んでいたのはオランダである上に、英語は私には第三言語である。
たとえ同じ文字を使うからといって総ての色彩を混ぜてはならぬ。失礼ではないかね?

英国人の共感覚研究と米国人のそれとがその目的・方法において多いに異なるように、
研究も、その成果としての文献も多種多様なものであり、一つとして"同じ"ものはない。
そういった微かな線分の傾きを読み取ることが楽しいからだろうか、共感覚を通して見る
地球上の欠片を拾い集めては喜びを覚えている。研究者でもないのに、物好きな奴だ。
いや、研究で成果を残す必要がないからこそ、余計な感情を一切振り払えるのだろう。

共感覚は主観的な知覚であり、当事者が客観性を持って物事を洞察するのは難しく、
ともすれば判断力を欠いた見識を持ってしまいかねないが、これは誤解をも生むだろう。
そんな時に外国語によって物事を具に類推することは多いに益のあるプロセスとなるし、
凝り固まることのない柔軟な思考力を培う助けともあろうか。そう、"気分転換"も必要だ。
と同時に、共感覚世界一周はこの知覚現象の普遍性について考えさせてくれると思う。

言うまでもなく共感覚は個性そのものであり、本来普遍性とは対極を成す知覚である。
しかしながら、共感覚者の男女比が1:1.1とする近年の研究結果が示すところは大きい。
遺伝子座としての共感覚の在り処には家族の系譜も見られるものの、個々人の感覚は
ランダムな事象という外ないし、自らの共感覚をカミングアウトするか否かを別とすれば、
どこの誰に共感覚があろうともおかしくはないだろう。感覚知覚は単純な要素なのだから。

冒頭で"苦情"を述べておきながらこうも悠長な見方ができるのは幸せな話ではないか。
共感覚を深く学ぶ上で自分の理解力に垣根を造ってしまうのは非常に残念なことで、
食べず嫌いせずに常に認識を新たにすることも意義あることだと私は感じるのである。
分別を働かせることなく自分のこだわりによって共感覚の総てが分かったものか、と。
科学者でなくとも、要素は解きほぐしたい。共感覚を持つ意味はここにあると確信する。

Third or fifth
  1. 2009/02/10(火) 20:20:18|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

空間により救われたのか

共感覚となると文字や数字の色の話が一番分かり易いな、と時折早合点してしまう。
グレースケールで印刷しても文字に色が見える、というのは実際は分かり易くはない、
いや、それどころかこのタイプを説明するだけでも誤解を避けて通れないものである。
だがしかし、ちょっと待った。文字に色と一言で表現できるほどには単純ではないので、
文字に質感があるか、一文字ごとに見ているのは色か模様か、と前途多難なのである。

私にとって色彩ってものはどこかおぼろげな記憶の中から掘り起こす思い出でもない。
厳然とそこに感じる何か、或いは現在から過去へと連綿とつながる光とも表現できよう。
海越えても色彩は色彩であったし、それが共感覚だろうと外界からの視覚情報だろうと
同様の器官で感じ取っているのだ、と何の根拠もなしに信じ切っているところさえがある。
何さ、この人の脳内は整理もついていない色のカオスじゃないの、との声もあろうかな。

そんな問い掛けに然るべき返答のできぬまま立ち尽くしたこともあるにはあるのだが、
文字に感じるのが純然たる色の羅列ではないので、単なるカオスではないと言い残そう。
その曲線ゆえか、平仮名の色彩は淡くなだらかな光の筋の交わり方が際立っている。
片仮名のそれは細い糸を束ね合わせるようにして認識するし、平仮名よりも軽めである。
逆に画数の多さに伴って漢字は重々しく、暗闇に分け入るようにその色の中身を知る。

色彩だけだと日本語は読み書きが困難な文字体系だと感じるのは単なる偶然なのか?
私の場合、質感の共感覚は色彩等に比べれば容易く消え失せてしまう代物のようだが、
これらは不可分の関係にあり、どちらかがなくても話の"辻褄が合わなくなる"のである。
質感を感じなければ漢字の輝きなど解読できたものではなく、意味も同様の結末に至る。
思うに、私は文字の色彩の違いを立体的な相違によって認知しているのではないのか。

どうにも主観的な話だ。が、何とも興味深いのはこれが空想や連想ではないことだろう。
結果としての知覚は色や形としてごく平面的に言語化・視覚化されるが、実際は空間的。
どことなく階層的な文字の色彩の中を旅しながら日常的な物事を理解しているということ、
当事者でありながら神秘的だと感じる。一個人の中の知覚現象かと思うと、尚更そうだ。
そして、その色彩をこうして言語で表す自分がいるのは歯痒い一方で楽しいことでもある。

keurig en nieuw

  1. 2009/02/05(木) 23:21:08|
  2. もじいろ おといろ
  3. | コメント:0

知って解き放つ、その意味は

共感覚という名称はどこか物足りない、と感じてしまうことがこれまで幾度となくあった。
そう、文字・数字に音楽、手ざわり、味や匂い、はたまた時間単位に色や形を感じるのに
これら総ての感覚に呼び名が一つしかないというのはいささか不具合が多いように思う。
尤も、名称だけではなさそうだ。見える、聴こえる、感じる、といった形容の仕方が少なく、
言語の幅の狭さに追い詰められるようなことも少なくない。その点、感覚は正直だろう。

一般の五感覚にはこの不自由さがこれと言って感じられないというのも何だか妙であり、
心の片隅では"That's unfair! We're playin' the same role!"という声も上がる。
共感覚の種類が多いことに起因して生じる葛藤は個々人で異なるものと思われるが、
「見える」という動詞一つの上に被さる知覚の現実とて、決して生易しいものではない。
共感覚を表現することの目的はいったい何なのか?との問い掛けが常に己に付き纏う。

無論、個々の共感覚のカテゴリー総てに名称がないのには歴然とした理由がある。
それはすなわち、共感覚は人類共通の知覚現象ではないという現実によるのであり、
今更このことを掘り下げたところで望む答えにたどり着かないし、それでいて自然だ。
1/23~1/200の人口比率で社会に生きる共感覚者の中にさえ二人と同じ感覚はなく、
当てはまる知覚パターンも、感じる色も形も異なる。まさしく個性そのものなのだから。

言語表現、これが人間同士で意味を成すには共通性の有無が鍵となるものであり、
何等普遍性のない表現を造り出したところで廃れるのは人類史の示すとおりである。
共感覚一つひとつに相応しい言語表現が見つからないのはある意味では合理的で、
どこか短絡的な"感覚的口論"を防ぐための、ある種、賢明な手法とも言い換えられる。
と、我が身に覚える苛立ちを宥めることも時として必要に感じられるのではあるが・・・。

共感覚を持つ者とて、この現象のもたらすことの意味を総て把握することはないものだ。
しかし、共感覚現象そのものの内容の深さを知らずして"知った"と言うのは恥だろう。
今日においても研究者が日夜頭を悩ましている知覚現象、謎解きはそう楽ではない。
知覚する種類が多いとなれば、当事者とて学ばずして平安のうちに生活できようか?
純粋な意味での人間理解として共感覚を知る、これが私に教えることは測り知れない。

私自身の話を付け加えるなら、共感覚について学ぶ意味はこれだけではなさそうだ。
誤診という出来事によって生じた数々の苦痛を受け入れるためのカタルシスでもある。
呼び名の少なさはどうとして、共感覚は私が私足り得る所以なのだ、と感じられるのは
この上ない喜びだろう。そして、こうして喜べるからこそ表現に向かうのではないか?
いずれの共感覚にも序列はない。事実、ヒトの生の根本は要素であり、難解な現象だ。

Nearly there

  1. 2009/02/04(水) 00:05:41|
  2. 共感覚/synaesthesia
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Author:178773
ある共感覚者のひとりごと。

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