seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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外側と内側の現実

時折、私はどこの文化圏の人間と思われているのか、と考え直してしまうことがある。
海外経験を隠していても、逆に公にしても、十中八九誤解されるがためにこう思うのか。
よくよく振り返ってみれば明らかだが、私の精神世界は共感覚による文化が中心にあり、
どこの文化圏ともつかない感性の中で生きて来たのではないか。海越えて生きること、
これによって共感覚者としての本分は変わらなかった、そんなことを書き綴ってみようか。

兎角、海外での生活を基準に私がものを考え、言葉を話しているのと思い込む人も多い。
現実にはこれは甚だしい誤謬に他ならず、どんな知識をもってしても正しくないと感じる。
私の中での海外経験は年月にして4年半であり、その濃度も次第に薄まって来ている。
当時のことを鮮烈な記憶として想起することは在ったにしても、特別だという訳でもない。
何しろ、私は海外に憧れを抱く部類でもなく、現実としてのそれを知っているだけだから。

私がいたオランダという国は地球儀を小さくしたような空間で、複雑な環境でもあった。
現代日本よりも余程アジア的な場所に巡り会ったものであり、何だかあべこべだろう。
多数の文化が平和のうちに過ごしている空間である、当地の人々にもその心があり、
彼等の文化を強要されたことが一度としてないのは何にしても感謝を覚えることだが、
あの地での私は日本に居る時よりも日本を感じていたし、そういうものだと思っていた。

実を言えば、「自分は海外にいた」ことを意識せねばならなくなったのは帰国してからで、
あたかも浦島太郎の如く、日本が日本ではないことに逆に疑問を感じ始めたと言える。
中でも奇妙な感覚を覚えたのは、日本人が海外を完全な"他者"とみなしていることか。
少なくとも、共感覚者としての本音を言えば私にとって海外は他者でも自己でもないし、
身体的拡がりの一部として私の感性は地球の表面を生きているのだと感じてしまう。

「ここは日本だよ」と言われたことは何度となく在ったが、その度に強い悲しみを感じた。
無論、共感覚の認知はもっとずっと後のことなので仕方はないが、手や足と同じように
私は海外を知覚しているのである。そうして日本を分ける意味が分からぬままだった。
いや、分かる・分からないの前に体の一部が切り裂かれるような苦しみを覚えていた。
目の前の相手が平然と日本を分別するその様子は、何とも悲壮感を感じる事態だ。

今でも、大よそアジア的とは言えない切り裂きジャックに時々対面することがある。
たとえ共感覚者であっても私の身体観を理解する前に「海外ではどんなふうですか」
と臆面もなく尋ねて来たりするのには、驚きと言うよりかは悲しみを隠せずにいる。
感情を露にすることも出来るが、経験上、私は"海外生活経験者"を演じ切ることで
相手の微分された感覚を覆い隠すことにしている。事実、総ては経験と智だろうから。

共感覚者として海外を生きるのは、ある意味では苦痛を伴うことなのかもしれない。
オランダのような多文化社会ならば話はこの限りではないが、排他主義に従えば、
自らの感覚とは逆ヴェクトルでされてしまうことが多くなる(実際にはである)。
これはつまり、感覚によって存在する感性の世界を他者が刈り込んでいくことによって
意志とは相反する形で自己認知を迫られる、とも言い換えられるのではないだろうか。

実際、事あるごとに当ブログでも触れている私の誤診経験もそんな誤謬に起因する。
今でこそ自分の脳内構造に興味を持っているが、元来私にはそういった習慣はなく、
現象的世界をただひたすらに"生きる"ことで日常が恙無く流れていたような人間だ。
共感覚研究の論文を読みはしても、その総てを鵜呑みに出来る筈もないのであって、
咀嚼するにはそれなりに違和感を覚える状態に身を置いていることも付け加えておく。

確かに、海外経験が発端であちらの文化圏に心身共々自分を移してしまう人もいる。
十代の頃は私とて感覚的苦痛ゆえにそういった生き方に魅力を感じたこともあるが、
現実にそうしたにしても、身体論的に何の変化も望んでいないことに気付いただろう。
オランダという類希な環境下でなければ話は別だったかもしれないが、私の共感覚は
あの地を経験したから、悲惨極まりない誤診を生き延びる余地があったのではないか。

Wie is zeker?
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  1. 2009/05/17(日) 22:30:29|
  2. 海をわたる
  3. | コメント:0

痛みは見えているか

痛覚に共感覚を感じることがある。色彩や形、手触りとなって痛みが知覚されること、
これがいかに特殊な状態か、当事者として振り返ると種々の様相が見え隠れして来る。
果たして、痛みとは何なのか。なぜ痛みに不快感を覚えるのか。疑問は尽きないだろう。
この共感覚は、言うなれば、主観性のパズルを解くきっかけにもなるような現象であり、
"苦痛"の一言で痛みを片付けてよいものか、と私に問い掛けてくる体験だと感じている。

まず初めに書いておこう、私の日常は痛みと共にあるのだと。もはや、表裏一体である。
一月のうち持病の片頭痛に悩まされないのは多くても10日間、そんな環境下にあるため、
文字や数字、音楽等の共感覚と同様に身近な存在として意識し始めたのかもしれない。
別段騒いだからと言って発作の回数が減る訳でもないし、共感覚を強く感じている以上、
痛みは避けられないと観念したから、こうも悠長なことを書き続けられるのではあるが・・・。

はて、幸か不幸か、傍から見て私は痛みに鈍感な人間であるかのように映るらしい。
現実にはヒトの感じる痛みは主観的事象であるゆえに当人以外には分かられもしないが、
私が耐え難い頭痛を感じているのに、大よそ痛がっているようには見えないことが多い。
「本当は痛くないんじゃないの」と疑われて、逆に物凄いショックを受けたこともあるほど。
今から考えても怒りを感じる話だが、簡単には痛みを外に出さない体質なのだと言おう。

が、あたかも苦痛を感じていないかのように見える訳を、もう少し紐解いても良いだろうか。
痛みと同時に共感覚を感じていると苦しさから意識を遠ざけることが出来る、と私は思う。
無論、身体が苦痛によって蝕まれているのには変わりないが、心理的には安らぎを感じ、
年がら年中ただ痛みを感じ続けるよりは余程まともな世界を味わっているのではないか。
痛みの不快感とは裏腹に柔らかい光を感じる、これは皮肉でもあり、救いともなっている。

基本的に共感覚には好き嫌いを設けない方が良い、と私が感じるのもこのゆえなのか。
その不快感ゆえに片頭痛の色彩は嫌われて当然だが、敢えて私はそう考えないことで
笑顔を忘れずに生活することが出来ているのかもしれない(しかし、これは大事な姿勢だ)。
と、ここまで書いて思うのは、実際に私の痛覚が鈍っている訳でもないということだろう。
必ずしも意識的行為とは言わないが、あくまでも共感覚は人間的な感覚だと感じている。

片頭痛と共感覚を誤診された、と言っても一度に理解されない理由には幾つかあるが、
閃輝性暗点があることと、痛みを色や形で表現したことが不幸を呼んだのかもしれない。
いずれも視覚情報であって痛覚とは一切関わりのない事象と言い切ってよいのだろうか。
脳の神経回路がそこまで単純なら、人生どれほど退屈だったろうと逆に私は懸念する。
共感覚という大草原をまだ見尽くしたとは言えない私にとって、先はまだまだ長いだろう。

Je komt altijd van links

  1. 2009/05/16(土) 15:45:52|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

道具としての顔

文字に知覚する共感覚の中に、文字→人格という極めて謎の多いものがあったりする。
謎の多い、などと言っておきながらこの私も日々感じている。では、謎解きをば始めよう。
はじめに断っておくが、共感覚は個々人パターンも異なれば感じ方にも大きな幅がある。
あくまでも私の感じている世界の中でしか、これからの記述は当てはまらないことだろう。
兎にも角にも、この共感覚の恩恵を存分に受けている私としては書かずには居られまい。

文字に人格、この事実を素直に受け留められなかった非共感覚者の驚きはおもしろい。
いったい私が何を感じているのか分からぬままに怒鳴りだしたセンモンカもいたほどだ。
いや、かのお方は字義通りに文字に人格が"宿っている"とでもお考えになったのか、
私をビョーキ扱いすることによって自分の驚きと無知を隠し通そうとしていたに違いない。
そうだ、知覚している世界をそのまま口にせぬ方が良いのは何人にとっても同じだろう。

迫害されること必至のこの共感覚でさえ、日本の向こう側では真面目に研究されている。
彼等が関心を持っているのは人格の中でも性別や性格だったりするのだが、私としては
これに関しては保留にすべき点があまりに多いので、ここでも触れるつもりは更々ない。
強いて言うならば、私が文字に感じているのは人格と言うよりかは"相貌"なのだと思う。
カッコイイとかカワイイの範疇ではなく、正しく顔の形そのものに近い感覚を覚えている。

文字に読み難さを訴える人々の中では文字→顔は共感覚者でなくとも割と知られている。
ただし、この場合には「文字が文字に見えず、人の顔のようにしか感じられない」と訴える。
そうして比べてみると、色彩のフォティズムとセットで文字に顔を感じる私とは意味が違う。
彼等が読み難い"原因"として捉えているものを、私は読解の道標としているではないか。
何も私の世界観が総てあべこべなのではなく、共感覚とは実際にそういう現象であろう。

文字と言わず、私は人の顔を記憶することに関しては長けていると思う。見ず知らずの人も
一度道で擦れ違っただけでも覚えてしまえる。ある意味でこれは非常に疲れるのであって、
10年前は私なりに悩んでいたりもした。がしかし、今になってみればカラクリは明らかだ。
日本語のように文字種の多い言語に日々接していれば自ずと"顔"の知覚が習慣になる。
少なくとも、私が文字の読み難い共感覚者として生まれなければ起こり得なかった話だ。

文字に感じる色彩が被服となり、字形に覚える手ざわりが顔となる。よく考えてみると、
何かがおかしいことに気付く。そう、全体像としては"ヒト"の姿をしている訳でもなくて、
敢えて言うならば、パーツだけを知覚するから私の中の文字イメージがそこに在るのだ。
抽象的概念として組み換えていたなら、文字の相貌は何一つ役に立たなかったはず。
感覚そのものを手頃な方法で使いこなすには、逆に考えない方が良いのかもしれない。

世間には共感覚を障害と捉える人々もあろうか。しかしながら、こんな珍事も存在する。
幾つかの障害を足して割ったら表向きには分からない、そういうことも在っていいのだ。
現実、当事者がどんな共感覚を持ち合わせているかによって認知される世界も違うし、
個の中でも行方は知らない。私が誤診されていた間は文字の顔も色も消えていたように。
はて、この"相貌失認"の意味は何か?言うまでもなく、記憶喪失ということになるだろう。

Ik dachte...
  1. 2009/05/13(水) 00:50:16|
  2. もじいろ おといろ
  3. | コメント:0

誰のための論理か

共感覚を研究する時に何を目的とすれば当事者にとっても意義があるか、というのは
国内外の共感覚に関する研究報告を見ながら時折私が考え直す事柄の一つである。
オープンエンドな事象であるがゆえに共感覚研究の方向性も多岐に渡るものであり、
一共感覚者として疑問に思うこともある。心身の健康にも関わる知覚現象である上に
"個"そのものの意味合いが非常に強い。ここで一度振り返ってみても良い議題だろう。

研究者ではないが、私自身共感覚に関する文献は自己理解の一端として読んでおり、
当事者として日常的に知覚する事柄を解きほぐすのは実りの多い作業と感じるところだ。
私は片頭痛と共感覚両方についての誤診経験があるためか、普段から悩むことも多い。
科学的な枠組みに客観的に落とし込むことで昇華される苦痛もそれなりにあるからか、
アートとしての自己表現と全く別の視点から共感覚を斬ることには快感さえ覚えている。

「この研究は本当に社会的な意味があるのか」と問い直すのは何にしても大切だろう。
しかしながら、ここで共感覚特有の問題にも触れておこうか。そもそも共感覚は個性で、
社会集団への一般的応用が利くとは断言出来ない。訓練で身につくものでもないし、
共感覚者間の"傾向"というものに半分以上信憑性がないと言っても言い過ぎではない。
当事者本人を生きてみないことには学説の正しさも証明されない、そんなものである。

私が最も"危うさ"を感じるのは共感覚体験"全体"で結論を出してしまうような研究であり、
知覚しているディテールから考察しないのは、ともすれば倫理的にも問題があると感じる。
実験としての数値やデータがあったとしても、当事者の望まぬ方向へ論理が持って行かれ、
共感覚者として深く傷ついた経験さえも記憶にある。事実を解明するのには問題なくとも、
事実を踏み潰してまで研究を遂行しては学問的な稚拙さが露呈されるだけではないか。

元来、共感覚というのは当事者の自発的発言・参加なしには何の解明もされ得なかった。
あたかも研究者独自の予想を打ち破るために共感覚者が存在する、と言った印象がある。
仮に研究者自身が共感覚者であれば、尚のことその"気づき"は重要さを増すものだろう。
固定観念とまで行かなくとも、主観的に認識する共感覚が現実と距離感を持つこともあり、
二重写しの世界観を理解することは双方にとって深みの在るプロセスを生み出すはずだ。

最初から実験結果の予想がつくような研究は共感覚研究としては"似非"だと私は思う。
私自身、とある理由から苦悩の総てを他者に話すことを止めたのもこのゆえだと言おうか。
期待を裏切られること、ある意味でこれは共感覚者の宿命でもある。先は何も分からない、
そういった不安の入り混じった感覚なくして共感覚の何が解き明かされると言うのだろう。
失った感覚を奪い返した身としては、清水の舞台を飛び降りる研究に魅力を覚えるものだ。

蒼は熱いだろうか
  1. 2009/05/08(金) 22:02:51|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

ハコに生きる全体性とは

共感覚を初めて知った非共感覚者の驚き、その反応は実に様々で興味深いと感じる。
中でも、「実物が目に見えていないのになぜ見ていると感じるのですか」という疑問は
人間の視覚機能が意識の上でいかに上手く統合されているかを示唆してくれるだろう。
実際には目で見ているのではなく脳が見ていると言った方が余程正しいかもしれない。
共感覚を取り囲む視覚現象を振り返れば、尚のこと"だまし絵のカラクリ"に驚嘆する。

以前にも触れただろうか、私は文字が常に読み難い状態にある。読めないのではない、
扱いづらさを抱えているだけであって、何らかの助けがあればきちんと理解できるのだ。
文字が小さい、背景とのコントラストが強い、行数が多い等々、バリアとなるものもある。
黒いインクできれいに印刷された文字であっても、これらの因子が作用することによって
ホラーの世界が展開されてしまうのは、私以外の人間にとってはどうでもよい話だろう。

行と行の間で黒インクの文字が滲み出し、その上虹色の光がチカチカと動き始める。
無防備に読んでいれば、忽ち吐気に襲われるは頭痛がするはで私は退散する他ない。
よくもそんな中で共感覚の文字の色に拘っていられるな、とそんな考え方もあろうか。
現実を申せば、私は文字の形ではなく文字の形に見える色彩に注意力を傾けるので
具合が悪くなっている事実にさえ気付かずにいることも。意識とは実に奇妙な生き物だ。

文字の色が変わりさえしなければ、別段自分に問題があるとは思わずに過ごせる。
"普通"の人々には文字が静かに見えていると知って少々仰天したが、私にしてみれば
共感覚よりも(どういう訳か)理解されてしまうことなので、この方が不気味に感じている。
視力が悪いのかと思って眼鏡を何度も掛け直して確認してみたこともあるにはあるが、
脳というハコに入ってしまった知覚情報はさすがにその中身にお任せするしかない。

この他にも私には片頭痛がある。これはこれで大そう"充実した"症状を持っているが、
何につけても、読み難さが輪をかけて増すことだけはひたすらに悲しいものではないか。
いつもの虹色の光に太陽光のような眩しさが加わり、さすがにこれだけは参ってしまう。
共感覚の色を判別出来なくする圧迫感が顔の前を覆ってしまう。何と言えば良いだろう、
本のページが黄ばんで見えている。発作が終われば消えるが、やはり苦痛は苦痛だ。

閃輝性暗点と呼ばれる前兆も私にとっては十分につらいが、文字の色が変わるのは
それよりも突き抜けて悲惨だろう。私の色を早く返して!と怒鳴らんばかりの思いが
痛みのリズムに合わせていよいよ強くなっていくのは、ある意味で致し方ないだろう。
当事者同士であっても、共感覚者は自分の文字の色を決して譲ろうしないものだが、
自分の中でそれが起こるとなれば、やり場のない憤りが今にも溢れそうになるのだ。

総て一つの脳で起こっているなんて!自分でも信じているようでいて信じられない。
網膜に見えていなくても共感覚は感じられる。他者に見えなくても文字は瞬いている。
ミミズ文字は共感覚と直接には関係ないし、片頭痛発作やその前兆も同様の話だ。
しかし、複数が絡み合うとパニックに陥るのだろうか、定常状態からの離脱を恐れて
見るもの総ての区別が付かなくなる。まただまされる前に本でも読んで検証しようか。

It's always behind the light
  1. 2009/05/01(金) 23:38:23|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

プロフィール

178773

Author:178773
ある共感覚者のひとりごと。

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