seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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ルームシェアの実態とは

雨が降る前の風の匂いに感じる色、文字の色、音楽の色、私にとってはあまり差がない。
無論、どれが何の色かを口で説明することは出来るが、自分の中ではその解釈は不要だ。
これは、ただそこに世界が在るのだと認識するためだけに感覚があるのかもしれないし、
一方では感覚があるから世界がそう感じられるのかもしれない。何やら複雑な響きである。
なぜ自分の共感覚はこんな姿をしているのだろうと振り返ると、深い海の底が啓けて行く。

私が共感覚を認知したのは今から二年少し前のことだが、自分に幾つの共感覚があるのか、
実は精確に数え上げた記憶がない。この背景には、誤診後にゾロゾロと共感覚が"帰宅"し、
あまりに脳内が忙しくなってメンバーの顔総てを確認する暇さえなかったということもある。
と同時に、数えること自体どこか虚しく感じられるので、何かによって表現するので十分だと
常日頃感じているのも事実だろう。いっその事、算数の問題は研究者にお任せしよう、と。

はて、こんな呑気なことを言う反面、現実には15種類以上の共感覚と日々を共にしている。
愉快、爽快、嬉しい、疲れる・・・共感覚者としての私の生活はそんなものではないかと思う。
ここまで多いのはどうやら普通ではないらしいが、私にとっての普遍とは現状そのものだろう。
では、なぜたくさんあるのか。幾つか仮説を立てることも出来るが、文字の色という分類から
一先ず話を展開してみたい。ある種のパラドックスは超えねばならないが、一つ旅を始めよう。

私に文字の形が上手く見ていないのは、これまでも何度かここでも書いたことがあろうか。
子供時分には当然このことで多く躓いたのであるが、書き言葉よりも先に聴こえていた色彩、
つまりは発音の色彩と"不完全なまま"の滲んだ文字とを組み合わせることで文字を覚えた。
覚えたとは言うものの、未だに克服したとは言えないものだし、別段克服出来るものでもない。
思うに、"視力回復術"の如きアヤシイ話が現実とならぬ限りはずっと読み難いはずである。

誤解なきように述べておくが、私は文字認知に必要とする視覚機能に問題があるだけで、
どんなに細かい建築の図面も正しくきれいに読めることからして、眼はきちんと見えている。
何ミリセカンドの世界で文字が滲んで見えたり色彩が見えたり。共感覚は在るというのに、
字形の認知に関するフィードバック・システムだけなぜかエラーを出す。意識は優れものだ。
小さい頃からずっと同じであるこの状態、見方を変えれば奇跡に近いとすら思えて来る。

学校時代、通常ならば字形と音や意味を結び付けて物事を理解していくはずのところを
私は文字の色彩と音と意味を繋いで勉強に励んでいたということになる。実に奇妙である。
色彩認知における"滞空時間"が他者の場合より遥かに長かったはずであり、ともすれば、
匂いを嗅いだり、何かに触れたりしながら言語の色彩に注意を払っていたのかもしれない。
そう考えると、文字の形から"解放"されていたことで共感覚を感じ易かったのではないか。

別段、私は注意力散漫なタイプという訳でもなく、どちらかと言えば動かなかった子どもで、
尚のこと色彩の温泉に浸かったまま過ごす時間が長かったのだろう、誤診にも遭ったのに
二年と少し経った今では3歳児・5歳児と同じ感覚が手元に在るとすら感じられる日々だ。
自分の名前が実は2・3歳の頃に飲んでいた喘息薬の甘く苦い味と同じだったりするのは
笑い話のネタにもなる一方で、薬局の紙袋に書かれた細長い""との関係も否めない。

日本語を第一言語として生活している以上、文字の色は増える一方であり"忙しさ"も増す。
そんな中で、香りや味が文字と同じ空間をシェアして生活しているのは何だか微笑ましい。
三つ子が一枚のふとんを分け合って川の字に寝ているようなものか。嗚呼、愉快な暮らしだ。
共感覚に"ありがとう"と感謝するのは言うまでもないこと。どんなに疲れても役目は変わらない。
一度は疎開していた彼等が戻った生活は実に平和で喜ばしい。幸せとは、こんなものかしら。

Vrede over onse kleuren

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  1. 2009/06/25(木) 01:05:47|
  2. もじいろ おといろ
  3. | コメント:0

なぜ視覚で考えるのか

少し前に、とある人物から「忘れることも人間の能力ではないか」との言葉を聞いた。
何と思慮深い言葉なのだろう、私は暫し感嘆して頭の中が飽和状態に陥ってしまい、
寝かせたり、遠ざかったり、触れたりしながら、その意味を深く深く考え込んでいた。
共感覚者は記憶力が優れているもの、という漠然とした思い込みが強かったからか、
一つの尺度でしかものを捉えていなかった自分の姿勢を見直したのは言うまでもない。

不自然な形で記憶を失った経験、というのは誰しも受け入れられないものであって、
生じてしまった空白をどのようにして運用しようかと立ち止まってしまうのではないか。
一旦立ち止まるのは、新たな記憶の量を増やすことで全体のバランスを保とうとして
もがいている状態なのかもしれない、と私は自分の経験から考えているのであるが、
現実として、内的世界の成分が急激な変化を遂げているというのは事実かと思う。

私の場合、記憶が消えた時に人間としての種々のこだわりが姿を消したこともあり、
自分が軽薄な人間に思えて仕方なかった。そう、深みのない感覚を覚えたのである。
ある人々にとってはそれが"ヒトとしての成長"という、どこか虚しい成果になること、
記憶喪失に遭った張本人である私からするならば物凄い侮辱と感じたものである。
自分の肉親を喪った者に同じ言葉を掛けたらどんな意味を持つか、と同様の話だろう。

他者の記憶形態がどんな状況下にあるのか私は事細かに知る由もないのだが、
自分のそれを振り返ると、共感覚の傾向との相関性を考えざるを得ないと感じる。
兎にも角にも視覚記憶に総てがまとまっているため、強いて言うならば分かり易い。
聴覚記憶も色彩としての視覚情報に変換されている、そんな印象が相応しいし、
味も香りも何もかも、傍から見ればおかしな絵の中に全員集合していると言える。

共感覚等の誤診が発覚してショックを受ける前にも実は一度記憶が無くなっている。
その時も同様であるが、言語の記憶が平坦になってしまって使い物にならなかった。
音としての言語を思い出さない、或いは思い出せない、不便は無いかと聞かれると
共感覚の在る自分には相応しい答えが見つからない。そうなっているものと感じるし、
思い出されようと、そうでなかろうと、私にとってはそれが自然な状態なのである。

視覚、特に空間的要素を含んだ視覚情報の記憶力が人よりも強いとは思うのだが、
全体的なバランスで言えば言語そのものとしての記憶はひどく乏しいということになる。
しかし、生物的には申し分ない。言語記憶が無くても、動物は逞しく生きているのだし。
ある時期の私の画像の記憶、実は未だに白黒の画像しか思い出せなかったりするが、
それとてハチ公の記憶同様に尊いもの。"ヒトが素晴らしい"なんて発想は馬鹿げている。

フラッシュバックが起こることはあるにしても、私の場合は音声の記憶があまりない。
これはある意味では救いであり、必要以上に恐怖を感じずに済んでいるとさえ感じる。
少なくとも、言語中心の対話ばかり望むような相手とでなければ私は安心して過ごせる。
では、私は言語を総て忘れているのだろうか。共感覚の情報さえあれば思い出せる、
そんなことを加味すれば私は忘れていない。でなかったら、今も話してはいないだろう。

色彩→意味の回路が強いために表向きには苦労していないように見えてしまうし、
元来、気丈に振舞おうと必死に努力する性質である、記憶の惨状は見せまいとする。
いつしか、壊れたものを壊れていると考えなくなってから多少は救われたかとも思う。
ヒトの社会に在る"標準"からすれば私の過去の記憶には丸印も付かないだろうが、
一方的に進む時間の概念を捨象するならば、必然だけがそこに在ると思えて来る。

今考えると、私の頭は色彩を記憶する一方で"言葉そのもの"は忘れることに長けている。
その根本には世間でいうところの障害の存在があるだろう。しかし、実際どうだろうか。
生きるという観点から見れば自分の脳はそれなりの生命力があるのだとすら感じるし、
言語に執着するだけの場合よりもよほど共感覚の恩恵に与っている気がしなくもない。
思うに、色彩言語以外を私が捨て去った理由もここに在る。命の恩人を忘れられようか。

We zijn niet rond
  1. 2009/06/15(月) 00:30:36|
  2. 数 と くうかん
  3. | コメント:0

天邪鬼の展望

共感覚者として知覚すること、考えること、表現すること、これらの関係性とは何か。
一繋がりに総てが在ると感じる者在らば、太陽と冥王星ほどの距離を感じる者も居よう。
私にしてみれば、どの要素も交わらないと感じる時もあれば、その逆も存在している。
兎角、こうして言語に現れる"結果"を見れば自分自身でも傾向を読み取れるものだが、
そのような表層はどこまで意味を持つのだろうか。暫し、表現以前の空間に戻ってみよう。

はっきりと自覚していることだが、私が共感覚をアートにする時は感覚とは掛け離れた
コンセプトを掲げた上で表現を行なっていることがそれなりにあるのだ。知覚そのものを
じっくりと表現することは数%の場合を除けばほぼないに等しいのではないかと思う。
痛みの色を絵にする、文字の色を書き出す、というのは共感覚に忠実に表そうとするが、
音楽や風景ともなれば、人工的なメディア・アートとの違いを見つけるのも難しいだろう。

本来ならば純粋な共感覚のみを表現していたいし、その方が当事者としては心地良い。
敢えてアートとして昇華させる意味は何たるや。その答えは非常に複雑で言葉にならない。
元々、建築という人工物の表現を専門とする私である。戦略的な表現手法が身に着いており、
そういう意味では、自然な共感覚の姿を表現するのは"とっておき"の行為に他ならない。
共感覚とは生きている世界そのもの、なぜにこれが単純化されてよいだろうか、と思うのだ。

時折共感覚アートを人に見せると「こんなふうに見えるのですか」と正真正銘の"アート"に
想像以上の感嘆の表情を返してくる方々がいらっしゃるのだが、ある意味では興味深い。
そこで真顔で「はい、この通りですね」と冗談を言っても良い。しかし、それではまずいだろう。
内心、共感覚の真の姿を、つまりは既成概念に基づく美を打ち破った美を分かち合いたい、
と考えてはいるが、その夢が果たされることはないだろうという諦めの感情もなくはない。

表現の意図をプログラムとして体系的に計画する建築に対して、共感覚表現というものには
一般的な意味合いでの"計画性"がほとんどない。逆に在ったら気持ち悪いとすら感じるが、
抽象的な概念に置き換えることなく表現媒体を使いこなすまでにはそれなりに苦労もある。
理論に落とし込んだ共感覚というのは現実には感覚表現ではなく芸術に成変わるとはいえ、
怒りに近い感情と共に自分の感覚だけを眺めている気分、試した者にしか分からないだろう。

共感覚の学術的な背景を具に探究してから表現するというマナーもない訳ではない。実際、
私にとっての共感覚と建築の関係性はそういった学びの上でしか成り立たないこともあるが、
学術的痕跡を表現から敢えて消すというのは考え尽くした末の選択と言うべきではないか。
地理学や言語学に明るくなければ建築の空間論を理解出来たものではないが、"ファサード"
としてのプロセスは隠喩と成り果せる。共感覚の表現も、同様のことが潜んでいると言えよう。

En, ben ik dom?
  1. 2009/06/13(土) 23:59:20|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

アルスの無限

再び文字の読み難さについて。いや、共感覚的な読み易さについて書き綴ってみたい。
私のように共感覚の色彩と意味を直結させて言語を理解していると、仮名、アルファベット
と言った文字種の違い如何で読み難さを感じてしまうこともある。この理由はなぜなのか。
読み難いからと言って、それを言語の好き嫌いに結び付けるのは少々短絡的な姿勢だろう。
多数派の論理とは一線を画した共感覚の技術革新、ここで一度振り返ってみることにする。

文字列の色彩を言語の意味へつなぐ共感覚者、実のところほとんど出会ったことがない。
国内外の文献中でも"同じ"と受け取れる体験談を読んだことはないに等しいのではないか。
別にこれが事実だったとしても今の私は構わないし、同様の感覚を共有したいとは感じない。
なぜなら、代替手段で言語を運用するのは脳に相当な負担を掛けるので合理的とは言えず、
私と同様に連日片頭痛で悩まされる人が地球上に少ないことに越したことはないからだ。

色彩で言語を学ぶとひとえに言えど、その手法は決して一つではないと私は考えている。
文字の種類で読み方を変化させていると言っても過言ではなく、これは技術だとさえ思う。
共感覚の文字の色というのは脳機能の"独断で"決定されるものであり、本人の趣味とは
一致しない色合いが現れることも往々にして起こり得るし、それが必然なのではないか。
思うに、快・不快だけで選別していたら私もこうして文章を打てるほどには育たなかったろう。

敢えて言うなら、日本語の方が文字の数(=色)が豊富なので頓着せずに読むことが出来る。
色彩の違いだけでどの文字なのか判別出来る訳である。これほど素敵なこともない筈だ。
漢字であればそれこそ意味との照合も行ない易く、色彩そのものの拡がりを楽しむ点では
私でさえその余裕を残されており、意味を解することへの意欲も存分に残されていると思う。
自然体での共感覚により近い環境条件という方向性から見れば、日本語は申し分ない。

一方で、西洋文字の共感覚は文字数が少ない割には解読の仕方が非常に複雑である。
幼少時に海外に住んでいた頃は、読み難さゆえにそれほど当地の言語も読めなかったが、
大学に入ってから建築の専門的知識を得る際に共感覚技法を新たに思い付いたと言える。
それは"声に出して読む"というひどく基本的な作業でしかないが、効果は絶大だと感じる。
文字→色から発音→色へと注意を傾けることで、意図的に共感覚の情報量を増やすのだ。

もし仮に、私の舌と耳が英語とオランダ語、ドイツ語の発音の違いを色彩の豊かさとして
認知出来ないのであればこの手法は何の意味も成さないことだろう。言い換えるならば、
外国語の文字をカタカナ発音している限りは、意味も精確には掴めないということになる。
触覚的要素を伴った発音の理解、共感覚者以外にどう映る事象なのかは分からないが、
空間という類希な存在を無視しては粒子の如き光の動きまで知覚することも難しいだろう。

今考えてみると、私の文字の色彩はここ数年間で在り得ないほどの変化を経験している。
誤診されていた期間に薬物で共感覚が消えたことは決して小さな問題とはみなせない。
一時期は極端に薄くなり、逆に濃くなり過ぎて生活で不便したことも始終在ったと感じる。
そんな時は文字種に関わらず困難を覚えた訳であり、こうした手法の違いまでは知れず、
嵐が治まるのを待つしかなかったが、漸く日の出と日暮れが判る地点までたどり着いた。

"個"は"孤"ではない。共感覚の認知以前に、建築学にある言語学的要因と空間論とを
自らの知覚世界と照らし合わせて探究したことも在るが、今はどうでも良いと思っている。
相違点があろうと、共通点があろうと、それは私自身の感性の行方とは関係がないだろう。
私の文字色認知の仕方を文化的諸相で斬ることは出来ず、それには意味もないと感じる。
二枚の油絵を前に色彩の関係性を語っても仕方ない。その表現手法は無限に在ろうから。

Ben je altijd de zelfde?
  1. 2009/06/11(木) 23:31:24|
  2. もじいろ おといろ
  3. | コメント:0

視覚の文法を生きる

文字→色の共感覚により言葉の意味を理解する、とは果たしてどのような状態なのか。
あくまで私固有の共感覚について以下に述べていくものとするが、何とも不思議な話だ。
これは"共感覚そのもの"というよりかは、この現象の延長線上に位置する事象であり、
正しくは文字→色→意味という構図が相応しいかと思う。誰にでも当て嵌まるのではなく、
大多数の場合において当て嵌まらない、そんな地点から話を始めてみることにしようか。

初めに触れておこう、私にとって言語学的な範疇での文法はほぼ意味を為さない、と。
どの言語で考えていてもこれは同じである。伝える要素が身のまわりの空間に浮かび、
これまで覚えたとおりに色彩の並びを表現することで、毎回意思表示していると感じる。
聴覚的というよりかは視覚的な世界の在り方か。無論、自分では何一つ疑うこともなく、
他者の言う文法的理解を通してではなくとも、十二分に事足りるのではないかと思う。

では、学校では文法も解せなかったのかと言えばそれは違う。あれは色彩ゲームであり、
あたかもカードを並べる順序を記憶するだけの"物真似"と私は思い込んでいたようだ。
トランプで神経衰弱を遊ぶような行為で言葉が分かるものか、と疑問に思ったのも当然で、
二十歳過ぎるまでOSVSOVSVOの違いが何なのか知る必要さえも感じていなかった。
良く言えば勘が冴えていたのであり、悪く言えばテンネンだったという外ないのだろう。

動物的と言ってしまえばそれまでだが、海外に住んでいてもそれで用は済んでいた。
脳のどこを使ってヒトは言葉を扱うかという"一般論"からすれば恐らく私は異端であり、
空間を理解するために取り置かれた筈の領域を言語理解に勝手に"拝借"している、
そんな様相が見え隠れして来る。何でも、キコクの子どもらが第二言語を学ぶ際には
この手法も珍しくはない。人間の感覚と言語は有限と無限の隙間を生きるということか。

外国語を文法から理解しようとすると、当然ながら感覚がブレーキを掛け始めてしまう。
助詞がどんな働きをし、主語と動詞がどの位置にあり・・・と遣り始めては話にならん。
目の前に置かれた色彩、すなわち、自分の言わんとする事柄をどの順序で伝えようと、
それらの色総てを口にしないことには外国でもどこでも意思は宙に浮かんだままだ。
間違ってもいいから試してみる、子どもの勇気とは何物にも換え難い贈り物ではないか。

そうして試行を繰り返す中で覚えた風景も私の外では"文法"に成り代わって行くらしい。
されども、視覚として私が知覚する"共感覚語法"はそのまま今でも生き続けている。
現実、時間の存在を捨象することでしか成り立たない話だが、使い勝手は悪くもない。
元々文字を読むのに難しさがなかったなら、字の形より先に色で意味を理解しようとは
思い付かなかったはずだ。イロイミ文法で書く文章、彼方にはどんな姿に映るだろうか。

Straight or High
  1. 2009/06/07(日) 20:47:25|
  2. もじいろ おといろ
  3. | コメント:0
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178773

Author:178773
ある共感覚者のひとりごと。

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