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何の悪戯なのか、私の場合文字のフォント如何で共感覚の光の表情が変わって来る。
明朝体の光は"痛い"のに対して、ゴシック体は"怠けている"などと言葉にしたところで、
現象世界の光がどう動いているのか、他者に事細かに伝わることはほぼありますまい。
されども、これは活字体としての"標準"に収まる光の変化に過ぎないと私は感じている。
手書き文字に感じる共感覚にはそれ相応の重みが在ると思わずにはいられないだろう。
2年少し前に共感覚を認知して以来、長きに亘って疑問に思って来たことが一つ在った。
共感覚のテスト上で目にする文字色は(海外のテストゆえ総てアルファベットの話である)、
どういう訳か私が海外で生活していた頃に見ていた色彩とは大幅に見え方が違っている。
大文字と小文字の色彩に差異があるのも然ることながら、それ以上に光が別物であり、
夕陽を眺めているはずがよく見たら蛍光灯だった、というほどでガックリした記憶さえも。
こんな悪さをした主の正体はフォント、いや書き手の"筆跡"の違いにあるのではないか。
実を言えば、私は小さい頃通っていたオランダの小学校でブロック体を習ったことがない。
使うことが許されていなかったという方が正しいが、筆記体しか教わった覚えがないのだ。
今から考えてみると、かなり古風な学校である。筆記体を、それも万年筆で書いていた。
教科書や色鉛筆同様に学校から貸与される自分専用の万年筆、思えば不思議な話か。
当時の算数のノートには、青い万年筆の"血痕"が幾つも居座っていて不気味な様子。
何もかも筆記体で書き通す経験、日本に居たら決して味わうことのなかったことかと思う。
日本で言えば、小学生が行書体で全科目を学ぶような環境、先ず現代ではないだろう。
一斉授業の形式を採らない教育制度の下では私の共感覚勉強法も存分に活きていて、
異邦人ではあるものの、共感覚の光と影を味わうだけの余裕も残されていたのである。
帰国して通った中学校で"筆記体は難しい"という理由でほとんど書かされなかったが、
懐かしの光に出会えるのなら、との思いから私はテスト以外では筆記体で通していた。
ローマ字を小学校で習わせるにしてもそうだが、それほどに筆記体は難しいのだろうか。
その習慣がなければ気付かないものの、力の加減、筆の運び方は仮名文字と似ており、
曲線的な動きの中で感じられる共感覚はゴシック体では一度として感じたことがない。
色彩的な光としての特徴を述べるならば、筆記体のそれは柔らかく親しみを覚える。
尤も、ゴシック体のように線的に筆記体を書いていてはこうも感じられないものである。
無数に散らばる点と点の間を駆け巡って躍り、果ては崩れていくような感覚というのは
何もアルファベットを書いている時にのみ感じているものでもないと思うのは私だけか。
やはり、共感覚は日常に生きる生物なのだ、と一人呟いては夜明けを待つことにしよう。
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- 2009/06/02(火) 00:37:09|
- 海をわたる
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