seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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視覚の文法を生きる

文字→色の共感覚により言葉の意味を理解する、とは果たしてどのような状態なのか。
あくまで私固有の共感覚について以下に述べていくものとするが、何とも不思議な話だ。
これは"共感覚そのもの"というよりかは、この現象の延長線上に位置する事象であり、
正しくは文字→色→意味という構図が相応しいかと思う。誰にでも当て嵌まるのではなく、
大多数の場合において当て嵌まらない、そんな地点から話を始めてみることにしようか。

初めに触れておこう、私にとって言語学的な範疇での文法はほぼ意味を為さない、と。
どの言語で考えていてもこれは同じである。伝える要素が身のまわりの空間に浮かび、
これまで覚えたとおりに色彩の並びを表現することで、毎回意思表示していると感じる。
聴覚的というよりかは視覚的な世界の在り方か。無論、自分では何一つ疑うこともなく、
他者の言う文法的理解を通してではなくとも、十二分に事足りるのではないかと思う。

では、学校では文法も解せなかったのかと言えばそれは違う。あれは色彩ゲームであり、
あたかもカードを並べる順序を記憶するだけの"物真似"と私は思い込んでいたようだ。
トランプで神経衰弱を遊ぶような行為で言葉が分かるものか、と疑問に思ったのも当然で、
二十歳過ぎるまでOSVSOVSVOの違いが何なのか知る必要さえも感じていなかった。
良く言えば勘が冴えていたのであり、悪く言えばテンネンだったという外ないのだろう。

動物的と言ってしまえばそれまでだが、海外に住んでいてもそれで用は済んでいた。
脳のどこを使ってヒトは言葉を扱うかという"一般論"からすれば恐らく私は異端であり、
空間を理解するために取り置かれた筈の領域を言語理解に勝手に"拝借"している、
そんな様相が見え隠れして来る。何でも、キコクの子どもらが第二言語を学ぶ際には
この手法も珍しくはない。人間の感覚と言語は有限と無限の隙間を生きるということか。

外国語を文法から理解しようとすると、当然ながら感覚がブレーキを掛け始めてしまう。
助詞がどんな働きをし、主語と動詞がどの位置にあり・・・と遣り始めては話にならん。
目の前に置かれた色彩、すなわち、自分の言わんとする事柄をどの順序で伝えようと、
それらの色総てを口にしないことには外国でもどこでも意思は宙に浮かんだままだ。
間違ってもいいから試してみる、子どもの勇気とは何物にも換え難い贈り物ではないか。

そうして試行を繰り返す中で覚えた風景も私の外では"文法"に成り代わって行くらしい。
されども、視覚として私が知覚する"共感覚語法"はそのまま今でも生き続けている。
現実、時間の存在を捨象することでしか成り立たない話だが、使い勝手は悪くもない。
元々文字を読むのに難しさがなかったなら、字の形より先に色で意味を理解しようとは
思い付かなかったはずだ。イロイミ文法で書く文章、彼方にはどんな姿に映るだろうか。

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  1. 2009/06/07(日) 20:47:25|
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Author:178773
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