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共感覚関連の幾つかの書物には「共感覚者にとって共感覚は一生変わらない」とある。
あはずっと
あのままである、といったことがこれに含まれるのは非常に分かり易い例だ。
だが実際、色彩の波長のように"明快"な要素だけを感じる訳ではない場合も存在する。
あくまでも個人差の問題だが、複数の共感覚を持っていればより複雑で豊かな環境が
生まれることも在り得る。では、ネットワークの様相までも果たして"不変"なのだろうか。
文字→色彩というカテゴリーの共感覚だけを知覚していると思ったのに、具に見ていくと
実は触覚・味・香り・温度・痛み……といった共感覚情報も同時に感じていた、ということも。
視覚優位な共感覚者(自分も含め)には、これが容易に起こり得るとさえ思えて来てしまう。
ある意味、総ての知覚をヒエラルキーなく楽しめたら理想的ではあるが、日常生活の中で
達成することは非常に困難であり、ふとした隙に"気付く"ことで道が現れるのではないか。
時折、"サブ"として生きている彼等を"メイン集団"と同一に数え上げて良いのだろうか
と疑問に思ってしまうことがある。これは言い換えるならば、メインとサブの両方が居る、
つまり、一共感覚者内の知覚にも多様性があることの現れでもあり、非常に興味深い。
がしかし、一見してサブ扱いだった要素がいつの間にか主役の座を掴んでいて驚いた、
なんてことも現実には結構あるもので、ここでもう一つの多様性に遭遇することになる。
元来、共感覚が神経活動の一環であることを思い起こせばそれは何の不思議もないが、
どんな感覚をどう感じるか、は実際のところ"習慣の産物"とも言えるのではないだろうか。
思うに、私がこれまで不快な共感覚をやたらと避けなくなったのもこれと深い関係があり、
共感覚的な選択肢の多さを活かしたからだと思う。例えば、ある文字の色が苦手ならば
文字→味・香りに集中力を傾けてみる、といったこと。例外はあれども、8割方上手く行く。
冒頭に挙げた話題に立ち返るならば、どうだろうか。個々の共感覚の認識自体は不変で、
良い・悪いや強弱・明暗に関係なく共感覚それ自体は変わらないということが言えそうだ。
無論、過去の知覚記憶が本人の中にも残っており、現実に感じる共感覚との同一性が
ある程度なければ問題は別だろう。記憶が無ければ、当然、"イマ"の知覚が総てとなり、
文字の色一つ採っても各事象に具わる要素に揺らぎが生じる、と自身の経験から感じる。
そもそも、人工的に共感覚を消される経験をしなければこういった見方も持たなかったが、
共感覚は変幻自在な性質も兼ね備えていると感じる。認識の上に積み重ねたイメージで
逆に"損"をしてはいないだろうか、とここで振り返ってみると物事の構造が判然として来る。
一言で"脳の可塑性"云々並べたところで共感覚者の心に強く響かないのは当然の話だ。
経験に対する内・外の差を考慮すれば、共感覚者は"森の中"で生活しているのではないか。
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- 2009/08/30(日) 00:34:47|
- 共感覚/synaesthesia
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時折、こんな誤解に出くわすことがある。「共感覚って、単なる知覚過敏ではないのか」と。
初めに断っておくが、これは偏見の基となる考えであって私は真っ向から否定する他ない。
と同時に付け加えておきたいのは、単なる感覚の暴走を安易に共感覚と思い込むことも
どこかしら間の抜けた話だということ。似ているもの同士を一緒くたにして考えるのに比べて
似て非なるものを抽出して洞察することの方が余程難しいのは、ともあれ事実ではないか。
実際、共感覚者にとって現代社会の中で生き抜いていくのは至難の業とも成り得るもの。
人工物からの知覚量が際限なく積もっていけば、別に共感覚者でなくても疲弊するだろう。
自分で知覚量を制御出来る環境にいつも居られるとは限らないのが世の常なのであり、
そうして振り返ると、共感覚者の"ハードディスク"が過熱気味になっていてもおかしくない。
無防備に過ごしていれば、どんなに楽しく元気に遣っているつもりであっても限界は来る。
無論、共感覚の種類や強度がそこまで多様でもなければ、バッテリーも持つことだろう。
要するに、共感覚が豊かで在れば在るほどリスクも高まる。ある意味、妥当ではないか。
共感覚を感じるということは、一方では自らの感覚を具に観察する機会を与えられている。
そうであれば、逆に感覚・感性を管理する術を主体的に考えるチャンスもそこにあるはずだ。
見出せば決して裏切られはしない、私自身これまでの経験からそう感じずには居られない。
ところで、ここで少し方向転換してみたい。若干偏っていると思われても仕方ないだろうが、
"共感覚の近傍"的な知覚現象を須くこれと並列化・同一視する向きには私は反対である。
心理的にクリティカルな状況ともなれば、人間誰しも感覚が鋭敏・繊細になるものだと思う。
だが、こうした特異的な環境条件でなければ感じられない"感覚"には大概落とし穴があり、
自分の経験も含めて言えば、はっきり言って心地良くない感覚が多いと言わざるを得ない。
何しろ、普段健康なままに知覚する共感覚の多くは快感や安心感さえも感じられるのだ。
一般的な五感覚知覚にある普遍的な快・不快と同様にマイナス面もあるとは言うものの、
我慢の限界を超えるのは、他者の無知や偏見以外には実はこれと言って見当たらない。
あまりにもマイルドな感覚なのだから。仮に、成人以後もそういった共感覚による不快感で
世界を斬捨てるような真似をするとなれば、やはりそれは幼稚さが表出しただけなのだろう。
現実、共感覚知覚とそれら鋭敏な感覚を知覚することの間には類稀な親和力が在る。
ともすると、そのグラデーションは本人にも他人にも差異を感じさせない空間なのであり、
何がどう違うのか敢えて分別はしないが、真性の共感覚者にしてみれば、言葉にせずとも
"空気"で分かってしまうほどの距離感か。普段はKYな筈の共感覚者にしか読めない流れ、
少なくともそこに在るのは排他的な感情ではなく、共感覚者としての自負に他ならない。

- 2009/08/27(木) 00:55:10|
- 共感覚/synaesthesia
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業が先か、名前が先か。共感覚者として常日頃考えざるを得ない問いの一つだと思う。
なぜ単なるカミングアウトだけでなく、手業と共に共感覚を証明した方が良いのだろうか。
当事者として理不尽さを感じない訳ではないが、視点を変えれば当然の論理でもあろう。
結論から言えば、私にとって共感覚はブランドではない。それに付随する経験も同様だ。
人間そのものを生き、理解する一つの側面として共感覚がある。そんな様相を見ている。
絵を描いたり、詩を詠んだり、音楽を奏でたり・・・というのは共感覚者に限らない楽しみ。
上手・下手ではなく、人間の普遍的欲求として芸術を求めることほど喜ばしい行為もない。
"共感覚"は文献で知らなくても自然に感じられるものである。ならば、知覚の先に在る
感性の振る舞い方も、自然なままで良いではないか。感覚はそれぞれに行き先を持ち、
相応しい表現方法を探すのが自分の役割なのだ、といつしか私は考えるようになった。
ある意味で、言語は共感覚者を護ることもあれば、その逆にも成り得るのではないか。
共感覚は言語そのものではなく、あくまでも感覚だ。クオリア/クワーレといった部類の
感覚質を言葉だけで説明出来るはずがない。もちろん、これは挑戦し甲斐のある話だが、
現実を生きる共感覚者が追求する根源は、単なる自己表出を超えた次元に在ると思う。
果たして共感覚は何なのか、共有出来るのか、伝わるものなのか。総て、答えはない。
そもそも、人間の感覚自体は曖昧模糊としたものであり、物体の存在と対等ではない。
自分の見聴きする世界が他者にとって同じではないからこそ、興味をそそるのだろう。
相手にどんな風に世界が見えているのか、なぜあの人はあんな行動・表現を好むのか。
そういった疎外感や悲しみがなければ、ともすると世界への疑問・怒りは生じないはず。
と同時に、それらマイナス要因こそが自分の表現活動の根源だと気付かざるを得ない。
太古の昔は全人類が共感覚者だった、との見方には私自身は少々賛同しかねるが、
何はともあれ、現代社会として共感覚者が少ないのは洋の東西問わず事実であろう。
幼少から自他の明白な違いを感じ、"なぜ?"から解放されたことのない私にすれば、
幾多の問答を風に流すだけでは生きた心地がしなかったので独りでに表現を始めた。
他者に感じられない共感覚でも絵画や造形の中の実体を否定する者はないだろう、と。
無論、疑問や思惟からではなく、純粋な感覚の表現を試みることも往々にしてある。
が、両者に共通して言えるのはボザール式のアートとは程遠いということかもしれない。
共感覚アートは学問的基盤に沿って存在するものではなく、感覚・感性ありきの事象。
どこかしら観念した上での表現であり、他者の理解・評価を得ることは目的ではない。
言うなれば、これはカミングアウトを超えたカミングアウト。ある意味では爽快な話だ。
私の経験上、「共感覚者です」と打ち明けるよりも共感覚体験に基づいたアートの方が
他者の反応が良いのは皮肉でも在るが、これはヒトの感覚の構造からすれば当然か。
言語という高度な表現媒体より、感覚そのものに訴えた方が共感覚の根源に近付ける、
これは強ち嘘でもない筈。言語を通して非言語的共感覚に辿り着くのは遠回りなのだ。
文字→色という知覚も、実際には視覚・聴覚→色と何等境目がないのは明白だろう。
もし私が誤診に遭うこともなく共感覚を認知していたら、筋書きは別物だったのか。
恐らく、"手付かずの自然"ではないにしろ表現活動の趣も何もかも違っていたと思う。
共感覚者・非共感覚者の間に跨る"感覚的パラダイムシフト"を延々と考え始めたのも
ひとえにそういった経験が活きていると感じるし、アート表現もその居場所を変えた。
一度は解体され、再び建て直される。なるほど、共感覚は名も業もなく、普遍である。

- 2009/08/16(日) 15:15:28|
- 共感覚/synaesthesia
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表現如何で幾らでも美化されてしまうが、現実の共感覚の中には苦痛を生じるものもある。
所詮は感覚なのだから、これは致し方ない話ではないか。痛覚が上手く働かない状態とは
考えてみれば危険なのだから、共感覚も同様の感覚としてそこに在るというだけのことだろう。
不快感もあれば、快感もある。耐え難い痛みもあれば、ずっと感じていたいような感覚もある。
では、共感覚の負の側面をどのように迎えることが出来るのか。一度は考え直したい話題だ。
不快感を避ける・消すための努力というのは、誰でも当然のこととして日常の中で行なうもの。
共感覚ではない一般の感覚における不快感・苦痛というのは、大概の場合"一般論"として
社会に受け入れられているので、多数派の現実を口にして逆に戸惑うこともないものである。
対する共感覚における不快感はまるで異なった性質を持つ。当事者本人の知覚世界では
マイナス要素であるのに、他の共感覚者にとっては快感ということも決してない訳ではない。
非共感覚者の中に居れば、これは尚のこと違和感をもたらし、ともすれば自己嫌悪にも陥る。
そういった齟齬は共感覚者自身の感性世界の形成にも多いに影響を及ぼし得るものであり、
どこかしら社会生活で疎外感・孤独感を抱き始めるものだろう。私にとってもこれは現実だ。
そんな時に自分自身の感覚を肯定すべきか否かで悩み苦しむのも当然か。と同時にこれは
共感覚者としてどのように生きるか、というやや重苦しい岐路にも差し掛かった瞬間とも思う。
私の経験上、他者の人格・風貌→色彩といった人間自体を包含した共感覚に関してだけは
自分の感覚を捨てることにしている。「あの人は共感覚的に黒くて怖いから避けておきたい」
などと本人が思うのは勝手だろうが、だからと言って他者の人格総てを知らずに共感覚で
判断してしまうのは非常に愚かなことだと私は思う。というのも、共感覚はオーラではない。
そして、物理的要素から生じた不快感を極度な思い込みに変換してもいけない話だろう。
共感覚により生じる第三者への心理的不快感も悩ましい問題である。がしかし、当人の
生命活動の中で痛みや苦しみをもたらす共感覚の知覚ともなれば、より一層つらいものだ。
非共感覚者にとっては何でもないはずの行為でも、共感覚者の場合には事情が異なる。
日常生活を送ることそのものが自分自身を苦しめている、これがどんな意味を持つかは
想像を超えた世界だろうか。遣る瀬無い感情と闘う自分の姿、決して笑うことは出来ない。
音を聴いたり、文字を読んだり、人と話したり・・・。どれも当たり前過ぎて疑いたくもないが、
私自身にとってはこれらが痛みをもたらすこともある。心地良いことや楽しいことであっても
苦痛と常に隣り合わせ。慣れた今では悲劇とも思わないが、やはり悲しい時もたくさん在る。
だが、私の場合には理解する・しないの範疇を超えた事象も多いため他者にも期待出来ない。
その代わり、自分の身体に何が起こっているのか知識として知ることが救いともなっている。
現実、打ち明けられるような悩みも在ればそれさえ控えてしまう共感覚の苦痛も存在する。
一方的に痛みや不快感を避けていても生きては行かれない、そういうことも在るのだろう。
正負の関係を解消して、ただ感覚や存在そのものだけ認識する状態に到達するということ。
ある人物に"ヒトの脳はつながっているのだから"と言われただけで私の心が癒えたのは
何も誇張ではない。実際、共感覚者は複雑さを学んでこそヒトを生きたことになるのだろう。

- 2009/08/02(日) 01:03:55|
- 共感覚/synaesthesia
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