seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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記憶と認知の透き間

時折、"共感覚保持者"という表現を見掛けるのだが、そこで一つ疑問に思うことがある。
果たして、共感覚は保持する・保持出来るものなのか?と。当事者と共感覚との関係性、
これについては過去にも幾度と無く自問して来たのだが、もう一度考え直してみても良い。
ここで思うのは、共感覚との出会いや別れというのは実際にはひどく個人的な事象であり、
他者から見れば、感覚の有無で人の価値が決まる訳でもない。"共感覚者"とは何なのか。

あくまでもこれは私の経験上の話であるが、成人以後まで共感覚を知覚する環境にあれば、
どんな目に遭っても共感覚者は"引退"出来ないと思うし、何がしかの形で感じ続けるだろう。
年齢と共に共感覚がフェードアウトしていく人は居たにしても、"実感"そのものともなれば、
恐らく一生涯剥れることはないと思う。要するに、強弱の差に変化はあっても在るには在る。
海外で言う、projector/non projectorの分類の何れかに当て嵌まるかということなのか。

私自身、誤診に遭ってほぼ総ての共感覚を失っていた期間を数年経験した。そんなもので、
今現在、共感覚が溢れんばかりに戻った身としては、"保持している"というイメージは薄い。
ただ単に共感覚が"そこに在る"という印象の方が余程強く、自分で守っているつもりもない。
どちらかと言えば、成長過程で構築された感性の方が共感覚を強く希求しているのであり、
ヒトの行なう資産運用に比べれば、遥かに動物的な感覚を持ってそれが"維持されている"。

神経の構造自体は固有のものだろう。がしかし、これは意志だけではどうにもならない。
もし仮に、自分の神経総てを意志(ないしは意思)によって管理出来たら、奇妙ではないか。
恐らく、共感覚によって心弾ませることもなくなるだろうし、文学もアートも生まれないだろう。
共感覚者自身がこの感覚を大切にしようと日々努力するのは紛れもない事実だと感じるが、
かと言って、本人のみがこの感覚を支えているのではない。総ては相互作用で起こっている。

半ば折衷的な"他力本願"でもあるならば、なして当事者のみがその保持者と成り得ようか。
思うに共感覚とは間主観的な事象を数多く含んでおり、決して主観的なだけでは終わらない。
知覚している本人の感性・感情総てを理解出来ないにしても、社会的な関係の中に在っては
共感覚(者)は何がしかの形で守られているのかもしれない、と私は感謝の念と共に振り返る。
無論、そういった経験には極端に差があり、時に人間性に欠けたエピソードも見るとはいえ。

知覚現象の起こるメカニズムも考慮すると、共感覚は遺伝子によって"守られている"としか
言い様がないのではないか。共感覚の強さも物理的身体の特徴同様、受け継がれる筈だ。
仮に家族の中で自分だけ共感覚者だったとしても、保持者として名乗りを挙げてしまっては
些か不遜な態度となろう。理屈や言葉はどうとして、大概の人間は共感覚を"知っている"。
それを裏打ちするのが新生児共感覚の存在だと私は思うし、これは現実の示す通りだろう。

事実、共感覚を極端に理解出来ない人々も結構居るものだ。それを"忘れて"しまったのは
別に彼等の能・不能の問題ではない。分化を愛した神経が学ぶチャンスを逸してしまった、
それだけに彼等は共感覚者とは掛け離れた感性で生きている、と逆手に取ることも出来る。
原始社会が共感覚で満ちていたというのも、現代の世にあっては"妄想"の範疇を超えない。
共感覚者間の差異を直視する中で遭遇した現実が、それを物語る。"個"も普遍である、と。

Fallen asleep

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  1. 2009/09/27(日) 12:18:00|
  2. 数 と くうかん
  3. | コメント:0

体験へ立ち返るとき

日常的に見る色彩を"空間的なもの"として感じる人は、世界にどれほど居るのだろうか?
この問いが"共感覚的"なのか、はたまたそうでないのか正直なところ良く判らないでいる。
では、視覚世界の見え方とは果たして固有なものなのかと問えば、これの答えは明白だ。
共有されているという前提の下でなければ産業構造自体が成立しないこともあるだろうし、
逆に個性が無ければヒトの営みも機械的で面白くない。両者の駆け引きがモノを創っている。

形態・色彩のいずれに関しても言えるが、社会的に通用する指標というのは便利でも在り、
同時に不便でも在るはず。「これこれの色彩の部材をどれどれの大きさで加工すると美しい」
などと一デザイナーが主張したとしても、他者の脳細胞達は首を縦に振らないかもしれない。
「センスが良い」と世間一般に言われるのは、「常識的な美」に関する話だけなのだろうか。
一方で活躍する"主観的な美"、これの出番は果たしてどこに来るのか?疑問は尽きない。

私見を述べるなら、ヒトの感性に含まれるのは決して一つのコンセプトだけではないと思う。
共感覚者としての考えも当然あろうが、一般ピーポー寄りのアイディアだって皆無ではない。
加えて文字等の2次元平面の知覚が他者と違うこともあるので、どれが絶対とも言えない。
幾つかの要素が複合的に混ざり合うことで、初めて私個人の知覚があるということになる。
日常的には、無意識のうちに可能な限り"演じ分けている"といった感じの印象を受ける。

文字認知に関して言えば、私の場合には物理的な痛み以外に然したる"自己表出"がなく、
他者に対して「障害」というイメージを与えないらしい。代替手段で生き延びて来たとはいえ、
私としては共感覚よりも理不尽さを経験する。がしかし、こちらには"変位"が存在しない。
どういうことかと言えば、補助手段がなければ文字の歪み・滲みの具合が一定ということ。
そして、脳機能としても(恐らく)共感覚より解り易い話なのだろう、障碍の姿はシンプルだ。

これに対して共感覚というのはかくも"気紛れ"な役柄であり、ある文字が色だけなのに、
他の文字には空間性が伴い、味が付いていたりテクスチュアも具わっていたりするのだ。
無論、或る共感覚者には同じ文字体系に"同じ"タイプの共感覚質が感じられるだろうし、
他の共感覚者は、私と同じく"多様性"を見知るのかもしれない(後者の方が多いと思うが)。
しかし一人として完全に同じ共感覚体験をしない点では、共感覚はカメレオン同然である。

類似性は無きにしも非ずだが、各共感覚者が抱える問題とて常に"同じ"だとは思わない。
ある共感覚者にとっての"快感"が他の共感覚者にとって耐え難いことだって在るだろう、
言葉の上で「同じ」であることが、体験でも"同じ"とは限らない(もちろん同じでも良いが)。
一個人の中でも多様性があるだろうし、個人間でも差が存在するということ。とどのつまり、
共感覚者にとって相応しい知覚の指標もどうやら無さそうだ、と。別に悲しいことではない。

結局共有出来ないのなら、共感覚者は孤独なままに過ごさねばならないのかと言えば、
決してそういうことではないと思う。いろいろな知覚があるという"掟"さえ知っていれば、
お互いの過ごし易さに早く近付けるのではないか。たまには常識を破壊するのも悪くない。
ほんのジョークだが、キーボードで共感覚と心行くまで打ってみたまえ、とでも言い残そう。
共感覚者がKY呼ばわりされる理由も自ずと分かる筈。彼方のKYは何色に煌くだろうか?

Is het altijd donker voor jouw?
  1. 2009/09/24(木) 00:03:33|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

平面への憧れ、空間への望郷

文字に色を感じる共感覚。色聴と共に、もはや共感覚の代名詞的な存在なのではないか。
他の共感覚者に「どんな共感覚を感じますか」と尋ねれば、文字→色、音→色・・・といった、
非常に"分かり易い分類"をもって説明してくれる。当事者間では挨拶代わりにもなる事柄だ。
がしかし、文字→色や音→色の共感覚はある地点に到達すると疑問を生じさせる話ともなる。
というのも、"色"だけを純粋に感じているとなれば、どこか不自然なこととはならないか、と。

人類が文字を使っているのは高々5千年程度と言われているが、現代の日本社会に居ると、
ともすれば文字の読み書きを行なえること自体が"標準"となり、疑うこともなくなってしまう。
具にたどっていけば自明なことだろうが、文字そのものは"言語を演じる形態"に他ならない。
そして、純粋に歴史を溯って行けば文字→色の共感覚が新進気鋭の部類に入ることも判る。
文字表象を使うことなしに、この共感覚は生まれ得たのか。果たして、現実は何を語るのか。

注意深い共感覚者ならばとうに気付いていることだが、文字→色の共感覚と一口に言っても、
発音→色から派生した色であったり、純粋に形だけに色彩を知覚している場合・・・と様々だ。
純然たる連想とはまるで別物だが、言葉そのものに宿る人格・イメージの色彩が他の表象に
跨って同じ共感覚色として現れることは、数の概念→色といった部類からも理解出来そうだ。
"Actually, where do you come from?"と共感覚の出自を問い直すことは興味深い。

子どもの頃はより強く、多くの共感覚を感じていたと口にする共感覚者は殊の外多いもの。
私含め成人以後に逆に強まるような例は無きにしも非ずとはいえ、大概は前者ではないか。
"共感覚"という用語の下に自らの知覚を認知するのが何時なのかも関係するのだろうが、
地が固まる前の共感覚の飽和状態を追体験するような機会は、別の意味で新鮮さを持つ。
太平洋プレートの移動とまでは行かなくとも、共感覚は時と共に"動く"知覚現象だと感じる。

本来、五感の壁を知らない世界で起こる共感覚である。私からしてみれば、文字→色で言う
色彩は世間一般で考えられている色彩とは大よそ異なる閾に住む代物と思えて来るものだ。
では、いったいその色彩は何物で、なぜ"色"だと言えるのか。なぜ"別物"と感じられるのか。
共感覚の色とは光であり、そこには温度や質感、重さ、感情が在る。と同時に、同一性が在る。
がしかし、色相のような社会的な色彩の概念とは相容れない点では似て非なる色なのだろう。

複数の感覚情報が出合って初めて共感覚は生まれる。実験等で「この文字は何色ですか」
と尋ねられた瞬間というのは、現実には国境を跨いで行き先を決め兼ねている状態に近く、
"文字には色もあれば、質感もある。この文字には味と空間性があるので特定の色はない"
と答えても構わないのだが、この回答がどんな結末を生むかは触れなくても明らかだろう。
"何色"と言うにしても、全体的に見れば共感覚情報の数%だけに留まっているということだ。

そういう点では"文字→色は感じますか?"という質問自体、"木を見て森を見ず"なのだろう。
私自身、文字を含む2次元平面の統合画像が上手く見えていないことも関係しているのか、
初めて共感覚者とこの"挨拶"を交わした時には、何か決まりの悪い思いをしたものである。
文字の共感覚を一般的な色名で語るのはどこか"フラット"で、寂しさを覚えるものではないか。
共感覚者間では、せめて囲いを飛び出したい。現実の世界へようこそ、と言わんばかりに。

mayoeba mayou hodoni
  1. 2009/09/19(土) 17:24:06|
  2. おとをみる いろをきく
  3. | コメント:0

ゆらぎの世界を廻る

ある視点から眺めてみると、共感覚は"ゆらぎ"を持った感覚ではないかと思えて来る。
これはあくまでも私自身の場合だけかもしれないし、あるいはその逆なのかもしれない。
科学的な範疇からすれば共感覚を感じているのはヒトの大脳という箇所になるものだが、
生命そのものが無ければ共感覚も在り得ない以上、共感覚は身体総てが支えるもの。
移ろい行く身体と共に共感覚の地平をしばし歩いてみたい。果たして何が見えるのか。

初めに断りを入れておくが、共感覚は物理的な性別如何ではまったく異なる様相を現し、
一人として"同じ"感覚はない、一般性を持つ概念では決して捌き切れない現象である。
実際、同性の共感覚者同士であっても個々に感じているもののベクトルは多様であり、
同じ傾向を持つかのように見えて、その出所がまるで違うことも往々にしてあるものだ。
従って、私が断言出来るのも私自身がこれまで体験した感覚だけということになろうか。

心理的な性別の在処は保留とするが、私は女性の身体を持ち、これと共に生きて来た。
種々の生理現象と共感覚の関係性という点は、恐らく語り始めれば切りがないだろう。
一言で言えば"ゆらぎ"としての共感覚がそこにある訳であり、非常にゆたかな世界だ。
見方を変えれば、不快感漂う日常生活とも思えて来る筈だが、これだけはなぜなのか、
耐えるべき苦痛という発想自体、私にはあまりない。自然なもの、とどこかで感じている。

自分の持つ共感覚の中には、ホルモンのバランスにより強まるor弱まるものがある。
少なくとも、高校時代からはずっと続いていることなので、もはや違和感も感じないが、
文字の色が鮮やか(過ぎ)な日が続いたかと思えば、彼等が旅に出たかと思う時もあり、
私にしてみれば、カレンダー上の時間単位の色と連動して動く色彩があるということ。
便利かどうかは別として、廻り行く色彩を眺めているのはそう悪いことではないと思う。

薬等によって人工的に共感覚が消えるのとは異なり、この"ゆらぎ"には特徴がある。
ホルモン分泌のエラー等は、その時だけ現れる共感覚の色や触感が存在したりする。
普通、体の調子が悪ければ痛みや不快感で気付くのかもしれないが、私の場合には、
自分の纏っている色彩が違う、と認識することで異変を知る。どこかあべこべだろうか。
"痛みがまた遣って来る"ではなく、"あの辺りにもうすぐ着く"と空間的に考えている。

こういった、内蔵を含む身体全体に係わる共感覚というものは"何色だ"とは言えない。
社会一般の色彩観に押さえ込めば「こんな色彩でこうこうの形が動いている」となるが、
敢えて言えば、それは私本人にとっての共感覚の実態とはまた別個の表象と言えよう。
既存の言語に当て嵌まらないものとして、これらの共感覚が生き続けてくれたら良いが、
現実には、誤診等の私の過去が語るように、誤解や偏見も付き纏う事象なのかと思う。

何せ、私にしてみれば「ズキズキと頭が痛い」の概念自体が理解出来ないことがある。
一般的な言語とは別のアフォーダンスを知覚するということだが、ある意味で興味深い。
いつまで経っても世間の現実に近づけずにもどかしい思いをするものの、感覚の"柔"を
受け入れるのはさして悲しいことでもなく、その逆ともなる。いろいろ楽しめるのだから。
他者の言う・書くことが時々分からないという珍事が在るにしても、感性を守ってみたい。

原感覚により生じるアフォーダンスと共感覚により起こるアフォーダンス、ということ。
ただ単に私の場合には後者の比重が高いのだろう。日常的に尋ねられる前者の要素、
歳を経るごとに少しずつ記憶に留めるようにしてはいるが、やはり実感は部分に留まる。
言うなれば、マイノリティの身体論ということ。夕映えの富士こそが"青"をもたらしたり、
激痛が丸かったり・・・。時折"ゆらぎ"の透き間に居る一般論も、もちろん"知っている"。

Tussen de ruimte

  1. 2009/09/17(木) 23:53:57|
  2. らせん と じかん
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プロフィール

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Author:178773
ある共感覚者のひとりごと。

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