seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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レイヤー、ふたたび

先回の記事にも書いたことだが、私自身の共感覚世界では"空間"が非常に大きな役割を演じている。
普段からその空間性を言語化せずにいるのには種々の背景があり、時として、そういった世界観を
言語の枠組みから守ることこそが、共感覚含めた諸事象の真の在り様を永らえさせるとすら思う。

あくまでも私の見方となろうけれども、言語とはそれこそ"枠組みに納まる"ことなしには存在せず、
古語から現代語へのパラダイムシフトもその中での"建具の一新"の繰り返しながら起こったと感じる。
建築的な意味合いでの、平面や断面、屋根伏図といった、2D形態にまとめることでこれは成立する。

もし仮に、私が大多数の人々(勿論、共感覚者も含む)と同じように空間思考が不得手だったならば、
先に挙げたような言語の仕組みに違和感を覚えることもなく過ごしていたに違いない。だがしかし、
あべこべの世界観をもって生まれたことで、かくも不可解な"間"の存在を意識せざるを得ないでいる。

恐らく、究極の平面世界に生きている人々も地球上にはそれ相応に居ることだろうし、私からすれば、
彼等の感性世界が私のそれより劣る、何がしかの要素に欠けると断言することはまずもって出来ない。
これは共感覚にも言えるが、感性の豊かさは感覚条件以上の"何か"に必ず支えられているものである。

総ての事象、即ち感覚も感性もその表現も"同じ"と感じることは空間人間の私にもない訳ではない。
幾層ものレイヤーにばらばらに散在していた要素がある瞬間に"集合する"ような状況、これこそは、
私にとって生きられた"平面世界"である。しかし、だからと言って其処に留まれるのでもないのだ。

自分の世界の認知の仕方がヘンだと気付いたのは子供の頃であり、この私とて平面に憧れたことが
ないと言えば"まぁまぁ嘘に近くなる"(=嘘も"一つ"のレイヤーだろう)。コピー能力には自信があり、
須くパンピー共の真似をしてフツーっぽくに生活することは、別段不可能という訳でもなかったりする。

なぜそうしないかと言えば、それが私の共感覚の消去行為だからだ。そして、空間寄りの共感覚者が
超マイノリティであることも付け加えればお分かりだろうか。個々人にとって"共感覚状態"というのは
それなりの距離感をもって存在するということ。私自身の空間的共感覚は決して"絶対"ではない筈だ。

詳細を数え上げたこともないので幾つかは知らないが、私の共感覚自体、物凄く数が多かったりする。
100に対して50くらいしか感じない共感覚は私には"其処に居るのか居ないのか知れない"程度なので、
別に夜空の星の如く在る共感覚が、空間的に感じられることはどことなく好都合な環境でもあろうか。

無論、空間的に共感覚を知覚すると言っても、所謂数学的な座標値に置き換えない分からないといった、
面倒臭い手順を踏んだ記憶は皆無である。時間と空間の関係性を認知するのに西洋的思考や論理操作を
経ねばならない等と考えてしまう御方は、それこそ「一枚の紙」の上でグルグル彷徨う人間のことを指す。

他者の話を聞く時に、私はどう思考しているか。これは愚問に違いないが、共感覚者の如何に係らず、
レイヤリングの仕方が個々人で異なることさえ明確に把握していれば別段苦でも何でもないということ。
そういう観点から鑑みれば私も酷く偏りの多い人間と見えるのかもしれないし、何事にも結論はない。

私自身にとっては、紙面の上の文字でさえも平面とは言い難い。文字が動く、位置関係が変わるetc...
つい最近或る方に言われた、"彼方は平面に押さえ込まない方がより良く生きられるのでしょう"と。
全くもってこれは事実であるが、と同時に何ものにも依存しない格闘との連続というのも現実だろう。

二項対立的事象が空間世界ではあまり意味を為さず、平面には居るらしい絶対存在も粗方姿を消す。
人生の早い時期に東洋vs西洋の図式の破壊を見たのは、ともあれ幸運だったのではないかと思う。
(そうではなかったにしても私は私の空間世界の中で生きている訳だが、矛盾や怒りは感じられる)

初めて共感覚者と出会った時、もしかすると彼等にも似た空間世界があるのかもしれないと思った。
確か彼等も非常に個性的であるが、必ずしも空間ありきの感性を持つ者ばかりではないと知るに至り、
一方では狼狽し、もう片方では安心感を心の内に感じたものである。やはり、共感覚は共感覚だと。

そんな背景もあるが、私が共感覚に関する文献を読む時は当然、"他人事"だという前提の下に読む。
仮に自分と「同じ」共感覚の話などと思い込んだら大変なことになろう。総てが"嘘"っぽいのだから。
しかしそういう範疇で続ければ、このブログも"疑惑の陳列棚"と化す。バランスは土台に必須である。

時として、人は不安を抱くもの。同じでなくて、なして他者と共有し、心を穏やかに出来るのかと。
そんな時には、大気中の水蒸気の存在を思い起こすのは快い。共感覚は類稀なる均衡の下にあって、
空間(或いは平面)の中で事も無げに其処に在る。心の盲目さとは、何かの始まりを告げるものか。

iiiiiiiiiiiiikagennnnnn
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  1. 2009/12/26(土) 16:21:29|
  2. 数 と くうかん
  3. | コメント:0

空間は、消えてしまったのか

彼方は、共感覚とその空間性について問うたことはあるだろうか。これは非常に壮大な事象ではないか。
そもそも共感覚がどのような知覚を指すのか体験・認知されていない段階では意味を為さぬ問答だが、
当事者、ないしはその体験談を生に見聞きしたことのある者にとっては、全く覚えのないことではない。
共感覚と空間認知が係ると感じる・考える人は決して多数派ではない。捉え方に依っては非常に少なく、
且つ"隠された"感覚でもある。意外や意外、現代空間に在る現代人の多くは"間"を知らずに居るからだ。

ともすると、今回の記事は"意味不明"かもしれない。ヒトは三次元よりも二次元的な思考が容易に出来る、
という"驚くべき"事実を私が知ったのは今からたった数年前の出来事だが、どうやらこれは「普遍」のようだ。
"アベコベ"な私が以下に書くことは、読み手によっては鏡の中の世界よりも理解し難いことにもなるだろう。
平面図形よりも空間図形にこの上ない愛情を覚えた者や、地図情報よりも"世界"の方が正しいと感ずる者、
文字よりも空間の構造に魅力を覚えた者には、少しは入り込む余地も有るのだろうか。正直、自信はない。

実を言えば、これまで出会った多くの共感覚者や書物の中で読んだ共感覚体験を具に思い起こしてみても、
"これだ!"と思える空間性の表現にほぼ遭遇したことがない。これは共感やら何やらの感情のお話ではなく、
空間認知の仕方がただ単に異なっているということ。無論、共感覚者でなければ意外に仲間も居たりする。
建築専攻の者等か?否、彼等こそは消化不良を起こすような現代空間を信奉しているのだから、当然違う。
私の言う仲間とは文字から遠く離れた世界に本拠を置く彼等のこと。その呼び名は・・・別に何でも良いだろう。

共感覚者の近傍では在りながら、そして両者は重なるもので在りながらも、なぜか隠されているのが現実。
言うまでもなく、文字にされることのない"文化"は弱い。空間文化は語られはしても、やがて壊されるものだ。
何もこれは建築だけの話ではなく、ヒトの感覚世界についても同様ではないか?朽ちて生えるのもまた文化。
実際、共感覚は空間感覚の脆さに比べれば余程生き延びている知覚現象である。これは異論も在ろうけれど、
三次元思考の人間の生き難さが共感覚者のそれに比して救いようのない点では、そんなものだと考えられる。

純粋に視覚優位な人々の知覚体験とも、私自身を含めた空間優位の人々はどこか異なる印象を与える程で、
前者の知覚が静止画像中心なのに対して、後者は常に"動き"を持ち合せている。より曖昧で、鮮やかなのだ。
仮に静止画だけなら空間的な要素の幾つかは捨象されて行き、"見えないものは見えない"ということになる。
だが、常に動画で世界を認知するのが"普遍"な私には逆に平面が平面と感じられず、静止画は虚構である。
ゲシュタルト的な観点から見直せば、私のような人間が如何に"飽和した"世界を生きるかも想像出来ようか。

これと共感覚とが対になった状態は、別段不可思議な姿をしている訳でもないことはお分かり頂ける筈だ。
共感覚者総てとまではいかないにしても、色彩を放つ音楽が宙を舞い踊る風景を見る者は居ることだろうし、
私含め、種々の身体現象を色彩として体験する者にとっては空間性なしには共感覚そのものも存在し得ない。
がしかし、ここで私が非常に奇妙に思うのは、言葉に置き換えられたと同時に共感覚から空間が姿を消して、
あたかも一枚の絵の中に閉じ込められたかの如き様相を見せることだ。空間はどこで生きているのだろうか。

古の日本に生きた詩人たちが我々に残した芸術を参照すれば明白なことだが、彼等は空間を知っていた。
ここで言う"知る"とは、先日の日記に綴った二つのうちの後者に近い事象で、「ああ、それ私も知っている」
といった、"上辺の認知"を遥かに超えた体験そのものとしての、つまりは実践の中での"知る"を指している。
教科書通りの世界を歩くのではなく、且つ唯一無二の空間体験を忠実に表現することは果たして難問なのか。
情報の溢れかえった現代の中であっても、"間"そのものは我々が遣って来るのを待ち侘びていることだろう。

悲しいかな、私が共感覚という言葉を目にしたのは空間の中ではなく、文字に満たされた"森の中"である。
幾ら空間に寄り添っているつもりであってもそれが総てとは到底決められず、生きることには冒険も必要か。
ネットが現代の共感覚者を繋いだと感じる者は居るのだろうし、これも正論だ。しかし、共感覚の在処を見よ。
既に見知る共感覚では物足りず、野山に飛び込んで行く者が居ても良いではないか。はて、素朴な疑問だが、
私の文字の色彩はどこから生まれたのだろう?少なくとも、それは今でも空間の中で生き抜いているようだ。

Miyasudokoro, sonata ha izuko he
  1. 2009/12/14(月) 23:47:27|
  2. 数 と くうかん
  3. | コメント:0

知ることについて

近頃、この日本でも共感覚という言葉を良く聞くようになった。何はともあれ、これはメディアのお陰だ。
共感覚という知覚現象が社会の中で流布することは、一方ではこの名称を知らない当事者を安心させる。
だが、それは同時に共感覚を"知る・知っている"という言葉の曖昧さをも暴いて行くのではないかと思う。
体験として知る、そして、知識として知ること両方があるのは、依然として否定出来ない事実ではないか。
果たして共感覚者自身が"知ること"とは何なのか。一当事者として、今一度振り返ってみたいものである。

言うまでもなく、共感覚は主観的な知覚であり、それがために然も複雑に見える。他者は感じないからだ。
偏に知覚とは言うものの、共感覚は心理的な要素がその近傍にあるために、ただの感覚だけには留まらない。
ある者には快感であるかと思いきや、他方では"不快で嫌い"な共感覚を持つ当事者も其処此処に居ると聞く。
共感覚者の多くは、"自分にしかない"この感覚を愛したいとは感じるらしい(無論、疑う者も意外に多いが)。
それは何も偏った自己愛ではなく、自らの身体を大切にして健康を保ちたい、といった普遍的次元の話だろう。

時に、「嫌いな共感覚はあるか」と私が尋ねられたとする。包み隠さず真実を言えば、答えは"ない"になろう。
当然私にだって嫌いな感覚の一つや二つは存在するけれども、それは共感覚そのものに対する感情ではなく、
それとは全く別個の趣味趣向がこれに係っていると言い直した方が余程相応しいだろう。感覚は感覚なのだ。
元来、私は"苦手"を作ること自体を"タブー"に定める位の人間である。感覚、感性の双方を認めてはいても、
共感覚を嫌いだとは感じたことがない。たとえ他人に何も分からないにしても、在るものを否定は出来ない。

何にしても、共感覚者自身の"自分の持つこの感覚は、いったい何物なのか?"という疑問は実に奥が深い。
時としてこの地点で戸惑いを覚える者も少なくはないだろう、何しろ共感覚者とて、誰一人"同じ"ではない。
そもそもヒトはみな差異を持って生まれて来る、という極々当たり前の結論に舞い戻って来れればこれ幸い、
ある意味、"生きている世界の違い"を持つことに恐怖心さえ持たなければ、"知る"ことの意義も在るかと思う。
これは別に西洋的な分割方法を学ぶということではなく、純然たる現実の認知だと私は付け加えておきたい。

自らの感覚の名前を知り、それがある程度"普遍的"なものと認知すること。しかし、これは一つ目の"知る"。
ここで、もう一つの"知る"が存在することも忘れてはならないだろう。そう、知識として"知る"ことの方である。
必ずしも総ての人間が書物に興味を持つのではないのは紛れもない事実だが、さりとて共感覚者でありつつ、
この現象について具に学びたいと思わない者が居るだろうか。そうした知識を取り入れる方法は多様であり、
何も学術論文だけでなく対話もそのツールに含まれるが、誰しも手段が許せば知りたいと考える筈かと思う。

我国の言語的事情を踏まえて言えば、純粋に日本語だけで書かれた共感覚関連の文献は非常に少ない。
事実、私が知識を取り入れたのは英語の書誌だったが、客観的、尚且つ偏りなく共感覚を学ぶというのは、
これでもかと言う程に障壁があるものだ(が、壁を打ち壊してまでしても知りたいのがこの私の本性である)。
そしてまた、"知った"後に当人に残る疑問はそれこそ夥しいものであり、消化するまでの時間も殊の外長い。
あれは・・・?これは・・・? と言った問答は今も終の棲家に出会わぬまま、私の思考回路を彷徨い続けている。

思い起こせば、知識なしに共感覚について悩みあぐねていた日々というのは実に主観的な作業の連続だった。
それらが不毛だったとは一概に言えないが、ある種の自己超克から表現へと向かった自分の姿を振り返ると、
知識がそれなりの役割を演じたことを窺い知ることが出来る。"何のため"の共感覚か、が言語化されたのか。
言うまでもなく、これは他者との共有とはまるで別の方角を目指す旅であろう。しかし、実に清々しい道だ。
「共感覚の共有」を求めずに生きるには幾許かの強さも要るが、"知る"ことのアウトプットは鮮やかに見える。

以前は不快だった筈の共感覚、というのは私にもない訳ではないが、今では敢えて避けなくなったようだ。
無防備になった訳でもなく、かと言って好きになった訳でもない。いろいろな次元でそれを"知った"だけだろう。
非共感覚者にとっても共感覚者にとっても無知は不安を呼び起こす要素であり、これは間違いないと感じる。
共感覚の存在を知るだけでは、私も心が揺らぐ。これはヒトが機械ではなく、繊細な生き物だという証拠か。
群れることなく探究し、ひたすらに感じ続けること。まだ先は長く見えないが、心躍るものが其処に生きる。

Night, that favours
  1. 2009/12/13(日) 18:22:15|
  2. 共感覚/synaesthesia
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Author:178773
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