seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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動と静について

"内的な光"について考えたことはあるだろうか。自分にしか見えない視知覚の不思議に驚嘆したり、
それを言葉に出来ずにもどかしい思いをした経験はあるだろうか。其処から少し歩みを進めて行くと、
共感覚者の知覚世界が"異端"でも何でもない、日常の風景になり得ると気付くのではないだろうか。

無論、共感覚とは言えどそれは必ずしも視覚情報に限られてはおらず、触覚に繋がるものもあれば、
聴覚情報として感じられるものもある。極々単純な知覚ではあるが、共感覚とは外的な情報に応じて
当事者が内的な世界において認知するものであり、それ以上に何がしかの意味を持つ訳でもない。

しかし、人間の知覚とはそれが如何様にも―つまり良くも悪くも―変化出来ることが明証するように、
重層的な現象であり、"定性的"と思われて然るべき事象であっても、種々の変位を持ち併せている。
実際、人体内部で化学平衡が成立しているとするなら、ヒトは動的な知覚により生きているのだろう。

もし私が、病気の時でも人間はバランスを保っている、と主張したなら誤解も生まれるかもしれない。
とはいうものの、共感覚のように"基準値"を持たない知覚世界の中を生活していると、疑問も感じる。
そもそも"健康"や"健常"とは、何処の誰に必要な概念なのだろう、と。ある意味、"妄想"ではないか。

異論はあるだろうが、共感覚が"普通の知覚"ではなく、単なる『オプション』だと自分で認知して以来、
私は人体の個性的な条件を無視することが出来なくなった。ある人には3錠必要な薬が、別の人には
たったの1錠かそれ以下の分量で足りることがあるように、人それぞれの知る均衡も個々で異なる筈だ。

先に挙げた"定性"の話をここで思い起こせば、所謂グラデーションも、実際には事物の見かけだけを
勝手に、そしてテキトーに振り分けたものだと言えるのではないか。動的なものを静的な事象として
捉え直すにはある種の"代数"を登場させねばならないが、それとて単なる"身替わり"に過ぎないのだ。

日常的な社会生活とは、言語も含めて大概のことはそうした"代数"によって成立しているように感じる。
だが、具に観察するとこれが"多変数関数"なのだと気付かされる。そして、皆が同じ"関数を生きている"
ということは決してなく、それぞれに固有の道理―すなわち動的均衡を持つだとも言えるのではないか。

共感覚は如何ともし難い程に内的な知覚であるが、同時に言えるのは此れが動的な現象だということだ。
ともすれば、共感覚とは内的な"動き"を感知している状態と言い換えられるだろうし、その"変位"こそは
この感覚を活かしているのかもしれない。内的な"光"の変化とは、果たしてどこまで見えるものだろうか。

waaaawaaaaawaaaaaaaaa

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  1. 2010/02/13(土) 20:42:17|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

いきものであればこそ...

時間の共感覚、というものがある。ある共感覚者にとってこれは"時間単位"に感じる共感覚であり、
一方では、これが生物的な時間のサイクルに呼応する共感覚だと感じる共感覚者もいるのではないか。
一見して"時間"とは共有されている事象でもある。共感覚は、如何にして其処に生きるのだろう。

共感覚における時間とは、社会的な意味合いを持つ時間とは一線を画す存在とも考えられそうだ。
なぜなら、これは感覚や感性としてある種の共感を寄せることは出来ても、共感覚それ自体となれば、
如何なる場合であっても共有はされ得ないものだからである。あくまで個人の知覚ということになる。

所謂、時間単位に対する共感覚とて厳密な意味合いから分析していけば、文字→色の共感覚に近く、
何かの意味記号との符合の繰り返しに近いものと感じられる。カレンダーの色、時計の針の位置の色…
これらは共感覚者本人の身体性からは少しばかり距離のある知覚であり、外的世界との関係を示す。

生物学的な観点から言えば、もう一つの共感覚が在っても何等おかしなことではないのだと思う。
つまり、体内時計やホルモン周期等の可変性を持つ"時間"である。それは歪みもすれば消えもする。
言うなれば、日照時間や月の満ち欠けといった"自然界の時間単位"との関係が其処に在るのだろう。

私個人の見方をもってすれば、先に挙げた"時計の色"は然したる重要性も持たないものと言えよう。
逆に、後者の流れはヒトとして生きていくためにはなくてはならないものだと常日頃感じている訳だ。
どちらが脆いかと言えば、当然変化に富んだ後者の共感覚だろう。いとも簡単に消えてゆくのだから。

仮に、夜型になったり生活リズムが奔放なままに過ごしていたら、私の身体の時間性は消え行く。
時計にだけ時間の共感覚を知覚するのは、ともすれば現代の特徴と言えるだろう。そう考えていけば、
共感覚の時間が"共有"されない理由がまた増える。彼方の時間は、すぐ近くに生きているだろうか。

ishi_ni_naru
  1. 2010/02/02(火) 00:26:04|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

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178773

Author:178773
ある共感覚者のひとりごと。

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