seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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空洞の向こう

今まで生きて来て疑問に感じたことは数知れないが、中でも"中心"という概念は特に奇妙に感じる。
世界の中心、理想のカタチ、一番であること・・・時としてこれ等の存在意義が理解出来なくなることも。
そうした思考のあり方の根本に知覚の問題があると気付いたのは最近のこと。だが、不思議ではない。

前置きとして付け加えておくが、この私の傾向が共感覚者を代表しているとは到底言い切れないもの。
この真逆も同様に存在する価値があるし、どんな見方が正論という訳でもないとここで私は考えている。
同じであることや、何がしかの基準や理想にこだわる当事者が居たとしても、きっと間違いではない。

はて、どういう訳か、私は目の前にあるものに上手く集中出来ない。生まれつきそうなのだと感じている。
一つの文字や一つの形を眺めていても、その存在や意味を認知出来ていないことが、ほとんどだったり。
この世の大概の事象が"関係性"の下に成り立つことには、幾分か感謝の念を覚えているといった状況だ。

勿論、私にだってまるで集中力がない訳ではない。敢えて言えば、"ドーナッツ状"には集中力がある。
平面媒体の情報はブレて見え難く、空間的な情報はスッと身体に心に溶け込んで来るのは不思議だが、
自分の中で中心性がないと感じるのは、そうした視覚の特徴が理由なのだろうと今になって振り返る。

"ドーナッツ化"が競争心を剥いで、気の抜けた状態を作り出すかと言えば、決してそうではない筈だ。
常日頃、こうであったら良いなぁ・・・と妄想・想像は十二分にしているが、それを完成形で見るのではなく、
ある種の"環境の在り方"として眺めているに過ぎない。そして、それを実現するかどうかは別問題、と。

これが共感覚の知覚という事柄へと向けられると、それまた固有の様相に出くわすことになると感じる。
同系色を好むよりも、組み合わせを愛するようになると言えるし、感覚の好き嫌いも幾許か淡くなる。
元来、共感覚自体が異種混合なのであるが、感覚同士が合わさっているという認識さえ私の中では弱い。

「何々が一番優れている」という表現を目にして、時折頭を悩ませることがある。気持ち悪いのだ。
常に理想的な結果ばかり求めている人々に出会うとゾッとすることも。それは本当に"理想"なのか?
仮に、ヒトの目や心に見えているものが総てではないのなら、完璧など実はまやかしではないか、と。

人は生来恒常性を求める傾向にあり、恐らく私にも"ある程度"の定性は具わっており、役立っている。
そういう点では、私が必要としているのは大きな変化ではなく、知覚要素として識別され得るような、
どちらかと言えばディテールにおける変位なのかもしれない。でなければ、"生活"自体が成立しない。

だが、プロセスを重視する、つまりは人が感覚するその状態を大切にしようという思いはとても強い。
変化している状態を眺めて考えることで自分の生活は成り立っている。では、私にとっての恐怖とは?
言うまでもなく、変化がなく、総てが膠着し切った環境は私の不安の種となる。当然の論理であるが・・・

或るカタチを極めようとする人々にとって、そのカタチが崩壊したり、達成されなかったりするのが
恐怖や葛藤となってしまうのだろう。片や、私にとっては"keep on doing, keep on moving"が
目的であるがゆえに、そういったカタチも常に"カタチを変えて"いて、崩壊もカタチの内だと言える。

夏空に浮かぶ入道雲とて一つとして同じものはなく、今日と明日とでは空模様も別の姿をしている。
私が安堵するのは、そんな風景のような生き様か。我が身の変化と環境の変化は別物であろうが、
宇宙的な規模を除けば、変化もきっとバランスの一つだろう。総てを等しく愛せよ、と私は歌いたい。

blauauauauauuauau

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  1. 2010/07/31(土) 00:11:46|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

鳴き声は何のために

近年、共感覚研究が進んで来たことで、この知覚現象を取り巻く事実が明らかになってきている。
それらの進行状況はまだほんの始まりに過ぎず、当事者の私にとっては微々たる変化とも言えよう。
共感覚者の側は当の昔に現実を提示していて、それが証明されるのを待っているようなこともある。

そんな事象の一つとして、共感覚と発達障碍の関わりが取り上げられているのは周知の事実だろうか。
敢えて最初に申し上げておくが、共感覚=発達障碍では断じてない。これは、共感覚者の中に双方の
当事者が優位な数含まれているという意味であり、両者を混同するのは甚だ勘違いなことだと言える。

さて、研究現場の現実と共感覚者の周りの"観衆"の反応からここで少し距離を置き、共感覚者同士の
事柄へ目を向けてみたい。私の経験上、当事者が複数集えば必ずやこのテーマは話題に上っており、
共感覚のみを手放しに褒め称えてその場が収まったことなど、一度としてないように振り返るところだ。

感受性の強さや、好き嫌いの幅、得手・不得手の特徴が、共感覚と全く関わりがないとは到底言えない。
非共感覚ワールドで日々を過ごすには支障がありそうだ・・・と傍から聞いていて判ることもよくある。
と同時に、誰一人として"同じ"ではないのだと確信するのも、これまだ事実。論題は多面的なようだ。

と、ここで時折疑問に思うことがある。自分は相手の苦労や苦手なことをどこまでフォロー出来るのか。
私自身、文字や平面媒体の認知が不得意である。人が言語を通じて対話をする以上仕方ないことだが、
文字を通じた対話は自らリスクを選んだようなもの。どれほどまでにそれは他者に"見えて"いるのか。

他人を知って自らを知る、という意味では共感覚者同士で話すことほど恵まれた機会もないと思う。
自分の弱さが何であり、逆に強みは何なのか。兎角、世間では後者をどう活かすかにばかり目が行くが、
弱さを持つ者にしか出来ないこともあるのだろう、と今になって考えることが私は増えて来たようだ。

そこで相手の強さに嫉妬し出すのほど愚かなこともない上に、悲観するより前に出来ることを探す方が
余程前途が明るいのは間違いない。いや、それ以前の問題として、共感覚等の知覚の多様さを見知ると、
勝ち/負け、完全/不完全だけで判断することの意味が見出しづらくなる。云わば、価値観の崩壊の如く。

自分にはない困難を知ると、初めは驚くものだ。えっ、そんなことがあるのか、と一瞬は信じられない。
その状況がどんなものか想像が付かないと、尚のこと疑問を抱いてしまうのは私も同じのようである。
だが、これが"見かけの美しさ"に騙されているだけなのは明白で、その先に進む必要もあるのだろう。

仮に、想像を絶する世界を他者が生きていたとしても、それを否定する権利は誰にもなかったりする。
自分の直観が正しいと思って来た場合でも、共感覚者相手にはその『原理』が崩れることも当然あるし、
寧ろ、その崩壊を温かく迎えた方が余程心地良いのだと感じる時もある。無知の知とは、此れの事だ。

相手の知覚に合わせるためにちょっとくらい眼を瞑っても良いだろう、と思って此処まで来た気もする。
何にもこちらの障碍を知らない相手に対してもっと"譲歩"しているのは逆におかしな話と言えようが、
だから何だと言うのか?(私には、健常者の方が"重症"に見える時もある。合わせて貰いたがる為だ)

現実問題、障碍や知覚の個性の理解というのは、単なる言語的な理解だけでは物足りないことが殆ど。
実践的な何かのない限り共感覚者自身の困難が解消されないのは、敢えて"言葉にする"事実でもない。
アイディアを分かち合うことは出来ないものかと悩む。これは共有を超えた概念を生み出す時なのか。

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  1. 2010/07/27(火) 00:53:04|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

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178773

Author:178773
ある共感覚者のひとりごと。

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