seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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言葉のまえに

共感覚を感じる者同士で色や形、香りや音について語らうことはこの数年間に日本でも
少しずつ増えて来ている。オンライン・オフライン問わず、これは喜ぶべき変化ではないか。
出来るなら身近な家族友人と分かち合いたいが、そうは言っても貴重な機会なのは確かだ。

一方で、私はこんなことも感じずには居られない。当事者間で話し合われるその言葉は、
はたして、ありのままの感覚に忠実な姿をしているか、と。此れは非常に繊細な事象なのだ。
社会的な意味も併せ持った言語、それは何がしかの妥協を含んでいると言えなくもない。

共感覚それ自体が言葉で表現するには難しさを伴うためか、文学的要素の力を借りることで
難解極まりない現象の姿が共有するに値するものへと変化することも往々にしてあるだろう。
美学的世界をも共に出来る仲間内であれば、そうした趣向も決して無駄なものではない。

はて、文字や音楽等の汎用性のある媒体の関わる共感覚ならいざ知らず、一般性のない、
超越した現象を表し示すには、そのような既知の伝達手段のみで事足りるのだろうか?
主体的ではあっても、社会的な"我"の存在とは懸け離れた共感覚に行き場は在るのか、と。

芸術表現をあくまでも虚構としてみなすならば、詩歌や絵画の限界を見過ごすことは出来ず、
素の感覚状態を分かち合う場には、或る種の痛みと悲しみが在るのではないかと私は考える。
無論、そこまでして感覚の様相を深く理解しようとする者が現実に居れば、の話ではあるが・・・

兎角、恐怖感や痛みに関しては、現状を語ろうとする前に他者の共感を求めたくなるものだ。
常日頃から苦痛を"科学する"姿勢を持っていると、或る種、冷静さを培う訓練とは為っても、
他方では人間味を失いがちであり、ともすれば、均衡を欠いた状況をも生み出しかねない。

グロテスクな感覚を敢えて語らないのは単なる"思い遣り"の現れなのか?それとも違うのか?
ただ心地好いことを語るだけが共感覚的語らいの総てではない。と同時に、共通の目的無しに
そうした試みが達成されることも決してないだろう。"仲間"であればこそ、そうなるものだ。

決死の覚悟で発した言葉が、何の応えもなしにただ其処に木霊して居るのではやはり物悲しい。
"一歩踏み込んだ"共感覚への眼差しは、時を越えて何処かで必ずや実を結ぶのだろうか?
評価ではなく、素のままを洞察するということ。此れは恒久の願いであり、目指すものである。

Wat er was om je heen

  1. 2011/06/26(日) 23:16:21|
  2. 共感覚/synaesthesia
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