時の経過がここまで著しい変化をもたらすものとは・・・。近頃、溜息が出るほどに感じることだ。
他者にはいかなる様相をもってしてこの変移は把握されているのであろうかと、ふと立ち止まる。
誤診の意味も共感覚の存在もまったく理解できない人には、何も響かないことには間違いなく。
本人の中で何が激しく揺れ動いていたのか、言葉にはし難いものなれど、それが世の常か。
一挙手一投足をすべて見守ることが出来たのは私しかいなかったはずなのだが、妙だな。
私が見ているのは鏡に映し出してみた自らの姿なのか、それとも他者の語る私の背面なのか?
いずれでもないように思う。共感覚や心身の痛み苦しみはそこまで単純なものでもないのだから。
このブログを初めてからかれこれ4ヶ月以上が経つ。それにしても、なぜ心の内を明かし始めた?
誰にも口にせずにはいたものの、誤診の事実が近いうちに明かされるだろうと察知したからよ。
自らの身体に流れる旋律がこの変化の予兆を演奏していた。序曲に続く物語が必ずあるのだと。
時として私の感情だけを振り撒いていた文章、内に秘めておくこともできない悲しみばかり。
いったい誰がこんな文字の羅列を読んで爽やかになるものか、いや、なるはずがないものよ!
あくまで、共感覚も片頭痛も個人の体験。それに付随した苦しみも何もかもそうなのだったわ。
共有できることは一生涯なさそうだが、どこか一点で直線が交差することもあろうか、と思う。
個として生きる、これの重みを噛み締めながら生きる人間は如何程この地球にいるのかしらん。
いつも目の前に問題は山積み。制約だらけの森の中で前を塞ぐものを掻き分けながらも歩く。
もし、何も制約がなかったのなら、苦労することがなかったのなら、今の私はどこに生きていた?
こう考えると、物事は成るようにしか成らない、と確信する。そう、それは私の
Aが
Aであるように。
偶然の中で出会った必然、これに感謝の言葉を捧げつつ、己の業を振り返れ、との声もあり。
はて、嵐の後に残るのは塵だけかいな?もっと目を凝らして真実を見抜いてみよ、己が弱さを。
- 2008/08/18(月) 20:22:24|
- らせん と じかん
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