seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

音の行間に潜り込む

どういう訳か、音楽を専攻していた訳でもないのに私は音楽CDをたんまりと持っている。
中学の頃から、音楽史と美術史、建築史、政治思想史を丹念に追い掛けていたこともあるが、
いつの間にやら音と形の関係性を感じずして、考えずして音楽を聴くこともなくなったと実感する。
と同時に、建築の中に共感覚としての音や色を知覚せずに過ごすことも、考えられぬほど。
自らの設計行為では音楽を聴きながらの作業はできないものの、音楽は人生に欠かせない。

街並みを見ながら音楽を聴く、部外者から見れば奇妙奇天烈な話だろうが、はて現実は如何に。
音楽と言えど、風景に知覚する共感覚は"何拍子の何々調の曲"なんて分かり易いものではない。
どこか解体された、現代音楽に近い様相を帯びた自然体の旋律の集合体。そんなものだろうよ。
一般に"下町情緒漂う・・・"、"城下町の面影を残した・・・"と表される風景の形容詞のようなもの、
私はそれらを物理的視覚情報から理路整然と読み取っていることに他ならぬのだと言えようか。

建築基準法や都市計画法と言った、政策上の立法が音となる。考えるだけでもおかしなことだ。
それら法制の矛盾や不調和が一定/不定のリズムやメロディーで感じられる。政治家は知らずとも
私の中では自ずとその思惑が音源である建築によって分かるのだから、皮肉にさえ思えてくる。
世界一不純なアートが至極単純な音の羅列となるその様は、どこか潔くて愉快な現象なのだが、
かくたる人間社会の営為を言語や経済行為とは一線を画した観点から切ると、本質が抽出される。

こう言った"決まり事"となれば話はそれだけで済むだろうが、実際には建築家なる存在もいる。
あの作家はこれこれの作風で何々の材にこだわりを持ってデザインをする、とまぁ、建築雑誌では
批評が為されていく訳であるが、私の中ではこれとは別軸での共感覚的建築批評が存在する。
学校時代には決して口外しなかったものの、所謂、巨匠の作品の醸し出すテイストが気に入らぬ、
そんなことが始終ある。無論、業務上では眉間に皺が寄ろうとも、だんまりを決め込んではいるが。

20世紀の二大巨匠と称されるLe CorbusierとMies van der Roheの作品、いずれも好かぬ。
彼らの作品で"心地良い旋律"まで到達した作品は片手の指で事足りるな。嗚呼、嘆かわしい!
空間の生まれ持った流れや質感―Genius Lociとでも呼ぼう―を片っ端から無視したかのような
切り裂きジャック的な彼等の蛮行が許せず、Miesの著作に至っては読みながら激怒したことも。
空間のコンテクスト自体を人工的に造りもした西洋社会だからこそ、彼等の音楽は成立し得た。

Antonio GaudiのSagrada Familia、Casa Batlló、Parc Güell、いずれも有機的な造形だが、
私の共感覚音楽ではいかにも頽廃的で、なぜこれが名作なのかと立ち止まって考えたものだ。
無論、これらは共感覚の認知以前の話であるから、こういった悩みもあって然るべきものと思う。
に対して、Frank Lloyd Wrightの作品は最初からしっくりと脳内世界に収まってしまった部類で、
帝国ホテルのシャンシャン鳴り響くデザインはいざ知らず、彼の奏でた音楽は心地良いと感じる。

どう考えても主観的過ぎる知覚現象ではあるものの、こういった建築の楽しみ方がなかったなら、
敢えて建築設計に首を突っ込むこともなかったはず。何しろ、幼い頃の私は空間に敏感過ぎた。
余所の家の佇まい一つで怯えて足が竦んでいたほどの人間がどうして建築を志そうと思うのか?
高所恐怖に閉所恐怖、単なるアゴラフォビアの結晶体と化していた共感覚者の変化は急だった。
知りたい!聴きたい!触りたい!そんな"ゆかし"の小船に乗せられてここにたどり着いたらしい。

現実として、私が目指すのは視覚的デザインそのものが宿る現場ではないのだと推測している。
ものづくりの根幹に潜む知覚現象と人間の意識の関係性には興味が尽きない。実践の現実、
その背後にある文化的精神、それを司るのが尽きる所、共感覚のような現象認知に結び付く。
空間のコンテクストの解読や流動する世界情勢を読み解く行為は、音楽の解析に類似している。
これらの位相差を事細かに読み取り、何らかの関係性に出会えた瞬間の喜びは絶大なもの。

はてどういう訳か、この空間的音楽の解読行為、論理の初めと終わりが瞬時に掴めることがある。
殊に、既存の建築媒体に関する話であれば尚のこと。史実と現実の構築物がすべてを鳴らす。
音楽としてのクライマックスがどこに来て、誰が演者となるのか、それを読み解くのは清々しいわ。
これから起こることであろうとも、既に里程標を過ぎた建築であろうとも、このプロセスは同じだ。
視覚的な表現だからこそ、共感覚としてそれが判別できるのか。その答えは一先ず保留にしよう。

fiddle riddle dum-ti-dum
  1. 2008/09/16(火) 00:03:06|
  2. 数 と くうかん
  3. | コメント:0
<<その崩壊が生み出すものⅠ | ホーム | 闇に消え去る者もいる>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

178773

Author:178773
ある共感覚者のひとりごと。

カレンダー

10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -

最近の記事

月別アーカイブ

カテゴリー

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログ内検索

RSSフィード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。