seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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何がその姿を決めるのか ― 階層的回想録Ⅱ

文字に色を感じる共感覚、これはこの知覚現象のタイプとしては色聴と同時に良く知られている。
無論、認知されていると言っても現状はそう喜べるほどのものではないが、知識としての認知、
これが皆無という訳ではないだろう。しかしながら、文字の色、と単純に表すにしても実に多様だ。
文字の形に色を感じるgrapheme型、文字の読みor発音に色を感じるphoneme型もあるのだ。
Graphemeとphonemeの邦訳用語は、私の知る限りではその色を聴いたことも見たこともない。

だがしかし、あったからといって何の役に立つ訳でもあるまい。それはただの分類だけだから。
一つだけ私自身が海外書誌からの知識として推測できることがあろう。私の共感覚の特徴、
と安易に断言はできないが(何せ多様性の宝庫だから)、私が日本語の色・形を知覚する際に、
文字一つひとつの色に注目するのは確かだ。音読み、訓読み、それに送り仮名、私の場合には
これらの個々の色が分からないことにはまずもって今も昔も日本語を読み、書き、話せなかった。

序に言えば、私が英語・オランダ語を認識する構造も同じ。アルファベットの中で"死ぬ"色はない。
各々の文字の発音に具わる色・形・性格・性別、それらの全共感覚情報の組み合わせを記憶して
これまで言語を学んできたということ。"あいうえお"は行ごとに"クリア"していったようなのだが、
オランダの小学校では"ABCの歌"なんぞ歌ったことはないので、A~G、H~P etc.の並びでは
知覚する必要もなかった。自由に宙に浮かんで、旋回しながら昇って行く文字の色を覚えただけ。

地球上の言語・文化の構造はあまりにも複雑であり、共感覚も同様にして複雑だと感じる。
ある国の人々は、文字列に"dominant colour"があるというのに対し、他の国ではそれがない。
音楽関係者が発音の色の違いに細かく注目したり、物理学者がカラフルな公式を記憶したり。
要するに、すべては個体差に結び付けられてゆく。この複雑さを困難さと取るか、豊かさと取るか、
これは人それぞれだろうけれども、共感覚者本人の証言ほど深い意味を持つものもないだろう。

数限りなく存在する共感覚情報と原感覚情報―すなわち"一般的"知覚情報―とを束ねていく、
共感覚者の脳内ではそんな記憶の作業が延々とシークエンスを描いているのだろうと私は思う。
言うまでもなく、このような記憶の体系化は共感覚の有無に関わらず、脳の学習行為の中では
人類史の中で普遍的に行なわれて来た事象であろう。多感覚統合情報、そういった情報により、
空間知覚や全般的な環境認知が可能となる。すべては共通感覚の成し得る業なのだろうか?

この情報処理行為を複数のレイヤーの重ね合わせの図式で考えていくことにでもしてみよう。
文字の形状、音読み・訓読み等の発音、意味といった要素は共感覚抜きでも一応は成立する。
これらの情報の重なりの中にいくつかの共感覚知覚による情報が不随意に挿入されてゆき、
時間変位を加味した学習行為によって、まとまりを持った情報として咀嚼されていくということ。
では、なぜ、"無味乾燥な"文字数字の共感覚に人格や性別などのイメージが具わるのか?

この先の話題に踏み込むには、共感覚者の成長過程での知覚体験を須く掘り起こさねば、
真実は顔を出しては来ないことだろう。"時間"という類稀な存在によって解き明かされること、
これは無数に存在する。いつ、どこで、どのような環境でその共感覚は"学習"されたのか?
意外に勘違いされているのだが、成人の共感覚と赤ん坊に具わる新生児共感覚は厳密には
異なる知覚現象であり、共感覚者の脳が未分化とする考えは科学的にも精確とは言えない。

人間が産声を上げた瞬間から視力や聴力を5歳児のように巧く使いこなしているはずはなく、
徐々に自分の生きる環境に適応していく、そんな段階的なプロセスの中で何もかも学んでゆく。
いくつかの条件が重なることで、共感覚者は共感覚を強固な感覚として認知するようになるが、
音・色・光・形・香り・味・・・として在るレイヤーの背後に"条件"としてのサブレイヤーがありそうだ。
総じて私が思うのは、このサブレイヤーこそが共感覚の個性を裏付ける証拠の居場所なのだと。

相対的な環境条件で微妙なブレをも見せる共感覚であるが、レイヤー/サブレイヤーにある、
階層性の構造如何で共感覚者の中での、現象認知への印象も変わってくると私は考えている。
共感覚者Aが文字の形に強く色を感じるのに対し、共感覚者Bは文字の発音に強く色を感じる。
不随意に知覚される現象であるゆえ、本人の意識的な操作により"加工・編集"はできない。
生まれ持った脳の個性、これと環境条件の順列・組み合わせで各要素間に関係性が生まれる。

文化や言語環境といった"他者全般"がこの階層構造の組み方の決め手と成り得るのだろうか?
脳の学習活動の多様性・可能性からすれば、私一人には断定はできない。何でもアリだろう、と。
英語を話し続ければ英語脳になり、日本語のみの環境で育てば日本語脳となるか、という事柄は
争論を巻き起こしかねない事象となろう。というのも、両方を持ち合わせた私もここにいるからだ。
種々の共感覚の共存が成立することもある。要素間の優劣が相殺される、これは無きにしも非ず。

Even stoppen, en ga ik naar buiten
  1. 2008/10/03(金) 00:48:02|
  2. 階 層 的 回 想 録
  3. | コメント:0
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