seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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知って解き放つ、その意味は

共感覚という名称はどこか物足りない、と感じてしまうことがこれまで幾度となくあった。
そう、文字・数字に音楽、手ざわり、味や匂い、はたまた時間単位に色や形を感じるのに
これら総ての感覚に呼び名が一つしかないというのはいささか不具合が多いように思う。
尤も、名称だけではなさそうだ。見える、聴こえる、感じる、といった形容の仕方が少なく、
言語の幅の狭さに追い詰められるようなことも少なくない。その点、感覚は正直だろう。

一般の五感覚にはこの不自由さがこれと言って感じられないというのも何だか妙であり、
心の片隅では"That's unfair! We're playin' the same role!"という声も上がる。
共感覚の種類が多いことに起因して生じる葛藤は個々人で異なるものと思われるが、
「見える」という動詞一つの上に被さる知覚の現実とて、決して生易しいものではない。
共感覚を表現することの目的はいったい何なのか?との問い掛けが常に己に付き纏う。

無論、個々の共感覚のカテゴリー総てに名称がないのには歴然とした理由がある。
それはすなわち、共感覚は人類共通の知覚現象ではないという現実によるのであり、
今更このことを掘り下げたところで望む答えにたどり着かないし、それでいて自然だ。
1/23~1/200の人口比率で社会に生きる共感覚者の中にさえ二人と同じ感覚はなく、
当てはまる知覚パターンも、感じる色も形も異なる。まさしく個性そのものなのだから。

言語表現、これが人間同士で意味を成すには共通性の有無が鍵となるものであり、
何等普遍性のない表現を造り出したところで廃れるのは人類史の示すとおりである。
共感覚一つひとつに相応しい言語表現が見つからないのはある意味では合理的で、
どこか短絡的な"感覚的口論"を防ぐための、ある種、賢明な手法とも言い換えられる。
と、我が身に覚える苛立ちを宥めることも時として必要に感じられるのではあるが・・・。

共感覚を持つ者とて、この現象のもたらすことの意味を総て把握することはないものだ。
しかし、共感覚現象そのものの内容の深さを知らずして"知った"と言うのは恥だろう。
今日においても研究者が日夜頭を悩ましている知覚現象、謎解きはそう楽ではない。
知覚する種類が多いとなれば、当事者とて学ばずして平安のうちに生活できようか?
純粋な意味での人間理解として共感覚を知る、これが私に教えることは測り知れない。

私自身の話を付け加えるなら、共感覚について学ぶ意味はこれだけではなさそうだ。
誤診という出来事によって生じた数々の苦痛を受け入れるためのカタルシスでもある。
呼び名の少なさはどうとして、共感覚は私が私足り得る所以なのだ、と感じられるのは
この上ない喜びだろう。そして、こうして喜べるからこそ表現に向かうのではないか?
いずれの共感覚にも序列はない。事実、ヒトの生の根本は要素であり、難解な現象だ。

Nearly there

  1. 2009/02/04(水) 00:05:41|
  2. 共感覚/synaesthesia
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