seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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リアリティの宿る場所

時折、本来共感覚は言語化すべきなのだろうか、と疑問に感じてしまうことがある。
擬音語で表現される一部の共感覚を別にすれば、私が日々知覚しているものの多くは
視覚や触覚につながる共感覚であり、記号化・音声化されるのはその一部に過ぎない。
味や香りとなれば、言葉にするだけ陳腐になってしまう。色彩も同様の現象と感じる。
現実として、共感覚者がこれを認知する時には言語は避けて通れない要素なのだろうか。

何を隠そう、私自身言語は決して得意とは言えない。空間に浮遊する色彩を掴むこと、
そんな行為を繰り返して言葉を学んで来た自覚さえあるし、特殊なことだと感じている。
空間言語を解するという点では不自由しないが、他者の言語が自分のそれとは異なり、
決して重なることのない領域にあるのではないかと常々不安すら感じて来たほどだ。
そうして振り返ると、自分の知覚世界に"共感覚"との名を付すことにも疑問を覚える。

幼い頃に海外で育った訳であるが、半ば色彩的な勘で対話をこなしていた程度であり、
発音には気をつけていても、文法や品詞等にはほとんど目もくれていなかったくらい。
口語も文語も色彩を切り貼りすることで成り立っていたのが当時の私の脳内なのだろう、
他者との対話というものも、どこか壊れそうな"危ない橋"を渡ることに他ならなかった。
言語に対する確信がなくて常に不安が付き纏うのは、今も昔も変わらぬことではあるが。

完璧主義ではないかと言えば嘘だろう。がしかし、言語に関しては早くに諦めがついた。
そこは自分の出る幕ではない、そんな境地か。無論、このことは後悔しても意味がない。
海外で一度過ごせば分かるだろう、言語以外の"言語"が只ならぬ能力を発揮する機会、
そんな扉が溢れ返るほどあるのを人間として気付かずに生きているのは甚だ損に近い。
物事の意味を共有するとはどういうことなのか、これを悟る瞬間は忘れ難いものだろう。

どういう訳かオランダ語で「五感」という単語は記憶にない。私の脳内辞書はその程度、
自分が日々の生活で表現したい言葉以外は門前払いでもしたのか、その概念すらなく、
「五感を働かせる」何ぞ言う狭量な配色は今に至るまで日本語でしか見た覚えがない。
そんなこんなで育ったもので、私の感覚を切り裂こうとしたのは当の言語なのかもしれず、
今でも共感覚について他者に説明することは喩え様のない違和感との闘いだと感じる。

私からしてみれば、ただ共感覚を語るよりも芸術や技術を通して感覚を表現する方が
よほど共感覚の現実が他者に切実に伝わるのではないか、と感じるのはなぜだろうか。
リアリティに富む表現であればあるほど、感覚の美しさなり凄まじさなりが伝わり易く、
それに続く当事者の論理も明快さを増した姿に導くことが出来る。逆に、言葉の多さが
折角の知覚世界を野暮なものにしてしまいかねないというのは実感として思うことだ。

思えば、共感覚を拙い言語記号に置き換えたことで私は誤診に遭ったのではないか。
ある種の自戒の念と共に共感覚を視覚化する時、そんな考えが私の頭を過ぎることも。
共感覚を他者に伝達するに相応しい技術、これも個々人の知覚そのものに由来する。
文字が読み難く生まれた私には私なりの方法があるのだ、と教えるのは何モノなのか。
色彩の中に飛び込んで、暫し涙して来よう。在りのままの光は誰にも消せないのだから。

Kijk!
  1. 2009/04/13(月) 23:16:44|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0
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