seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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色彩和平協定の故郷

共感覚のオンライン・テストなるものが存在する。年に数回、私も受けることにしている。
もちろん海外版なので日本語の文字はないが、文字だけでも相当数の試行を繰り返す。
実際、骨の折れる作業ではあるものの、毎回挑戦するだけで多くの発見に出会えるし、
普段は自分でも気に掛けないような共感覚を具に思い起こす良いきっかけと感じている。
テスト上には登場しない共感覚を問い直すための材料を調達できる、そんなところか。

英語は英語で考える私だが、これを終えれば当然日本語の世界に舞い戻ってくる。
いつもなら触れ合う色彩の変化としか感じないところを、今度は深く考え直してみるか。
テスト上で使われているgrapheme(書記素)とphoneme(音素)、彼等は曲者だろう。
そんなことを唸るほどに悩んでみたら、一つの考えが生まれた。本来、共感覚としては
日本語の仮名文字も発音も先に挙げた横文字で説明してはいけないはずだ、と。

私の平仮名と片仮名の色彩、実は両者で色の異なるものもあり、それなりに幅が広い。
現実として、"異なる"と言うにしても共感覚者独特の厳密さを加味すれば総て異なる。
文字の形態により色の濃さや柔らかさに違いが現れるのでどうしても同じにはならない。
つまり、私の文字の色は視覚優位な共感覚なのかもしれない。だが、早合点はまずい。
ここでもう一歩踏み込めば更に面白いだろう。どこでどのように差異は生じたのか、と。

いつ、どこで、何をもってして言葉を学んだのか、"結果"としての共感覚に尋ねてみる。
それにしても、地の果てまで続く文字の地平をずっと歩いて来た一人間ではありながら
自分の"出自"や"行き先"さえも不定なままにしておいた理由はどこにあるのだろうか。
"Indeed, I'm from nowhere."と主張していたのは、流浪の共感覚者の苦肉の策だ。
感覚の真の姿、それが表向きの言葉に隠されることを知った上での演技とも言えよう。

仮名文字の色を知ってから海を渡った私にとって、総ての文字の基本は一つだった。
"聴く色彩は読む色彩の後姿でも横顔でもなく、別人格として大切に生かすべし"と。
共感覚を知らぬ者にとってはまるで意味を成さぬ"掟"は決して生易しいものではなく、
私と同じく文字→色の共感覚を知覚する共感覚者にとっても謎の多い話ではないか。
多様な言語環境に育ったことで結論を下そうとする当事者がいるのも不思議ではない。

cちゃんとhちゃんはなんでいつもグルになってgちゃんの真似をしてからかってるの?
思えば、gという文字の理不尽な気持ちを気遣いながら私はオランダ語を学んでいた。
言語学的に説明すれば、当地の言葉でgとchが同じ発音になること、それだけだ。
一文字で音素を作り出すgは"偉い"のに対し、chは"真似している上に二文字"、
そんな違反行為がどうやら許せなかったらしい。分かっていても綴りが嫌いだった。

仮に、字形に感じる色彩と発音の色彩がまったく同じでなければならなかったら、
この文字同士の"人間関係"をいつ何時引き摺っているのは苦痛以外の何物でもない。
子供時分にそんな諍いが居た堪れなかった私は結局"暖簾分け"を命じたことになる。
大文字と小文字、平仮名と片仮名、これらの色彩を形ではなく音を基準に統合するのも
共感覚の和合のあり方だが、何やら私は慎重過ぎた政策を施行してしまったようだ。

無論、日本語の中で私が感じた共感覚的葛藤は若干意味が異なってくるだろう。
私が仮名文字に感じるフォティズムは、その曲線系ゆえに独特でとても強烈である。
単純に色だけではなく、私自身の体全体を覆う被服のような感覚をも感じさせる。
どこか建築空間を体験するかのような優美な感触が文字一つひとつにあるがため、
音という表象に行き着く前に既に余りあるほどの世界がそこに在ると感じるのだ。

文字と発音の言語的関係性を学ぶ以前に私が文字の共感覚を知覚していた証拠、
そんな見方が妥当かと思う。もし私が活動的な子どもだったら現実は違っていたが、
私の人生の初期は共感覚の熟成に重きが置かれていたといっても過言ではない。
その"熟成方法"が視覚機能を中心に築かれた仮名文字は100人以上の大所帯。
中には双子を装う者も在るが、片方が"年季の入った着物"を着ているだけなのだ。

仮名は便宜上書記素として扱われるが、共感覚として考えるならそうとも思えない。
私の仮名の色には多様性があるにしても、発音との相関性は特筆すべき点であり、
これがもたらす"和"の感触は何とも言えない安心感を生み出していると言えよう。
あくまでも共感覚は主観的な世界に留まるものであって、一個人の中の法則性が
文化にまで及ぶとは限らないが、表現され得るという点では可能性を秘めている。

Salty rain
  1. 2009/04/30(木) 23:01:30|
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