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* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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誰のための論理か

共感覚を研究する時に何を目的とすれば当事者にとっても意義があるか、というのは
国内外の共感覚に関する研究報告を見ながら時折私が考え直す事柄の一つである。
オープンエンドな事象であるがゆえに共感覚研究の方向性も多岐に渡るものであり、
一共感覚者として疑問に思うこともある。心身の健康にも関わる知覚現象である上に
"個"そのものの意味合いが非常に強い。ここで一度振り返ってみても良い議題だろう。

研究者ではないが、私自身共感覚に関する文献は自己理解の一端として読んでおり、
当事者として日常的に知覚する事柄を解きほぐすのは実りの多い作業と感じるところだ。
私は片頭痛と共感覚両方についての誤診経験があるためか、普段から悩むことも多い。
科学的な枠組みに客観的に落とし込むことで昇華される苦痛もそれなりにあるからか、
アートとしての自己表現と全く別の視点から共感覚を斬ることには快感さえ覚えている。

「この研究は本当に社会的な意味があるのか」と問い直すのは何にしても大切だろう。
しかしながら、ここで共感覚特有の問題にも触れておこうか。そもそも共感覚は個性で、
社会集団への一般的応用が利くとは断言出来ない。訓練で身につくものでもないし、
共感覚者間の"傾向"というものに半分以上信憑性がないと言っても言い過ぎではない。
当事者本人を生きてみないことには学説の正しさも証明されない、そんなものである。

私が最も"危うさ"を感じるのは共感覚体験"全体"で結論を出してしまうような研究であり、
知覚しているディテールから考察しないのは、ともすれば倫理的にも問題があると感じる。
実験としての数値やデータがあったとしても、当事者の望まぬ方向へ論理が持って行かれ、
共感覚者として深く傷ついた経験さえも記憶にある。事実を解明するのには問題なくとも、
事実を踏み潰してまで研究を遂行しては学問的な稚拙さが露呈されるだけではないか。

元来、共感覚というのは当事者の自発的発言・参加なしには何の解明もされ得なかった。
あたかも研究者独自の予想を打ち破るために共感覚者が存在する、と言った印象がある。
仮に研究者自身が共感覚者であれば、尚のことその"気づき"は重要さを増すものだろう。
固定観念とまで行かなくとも、主観的に認識する共感覚が現実と距離感を持つこともあり、
二重写しの世界観を理解することは双方にとって深みの在るプロセスを生み出すはずだ。

最初から実験結果の予想がつくような研究は共感覚研究としては"似非"だと私は思う。
私自身、とある理由から苦悩の総てを他者に話すことを止めたのもこのゆえだと言おうか。
期待を裏切られること、ある意味でこれは共感覚者の宿命でもある。先は何も分からない、
そういった不安の入り混じった感覚なくして共感覚の何が解き明かされると言うのだろう。
失った感覚を奪い返した身としては、清水の舞台を飛び降りる研究に魅力を覚えるものだ。

蒼は熱いだろうか
  1. 2009/05/08(金) 22:02:51|
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