seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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道具としての顔

文字に知覚する共感覚の中に、文字→人格という極めて謎の多いものがあったりする。
謎の多い、などと言っておきながらこの私も日々感じている。では、謎解きをば始めよう。
はじめに断っておくが、共感覚は個々人パターンも異なれば感じ方にも大きな幅がある。
あくまでも私の感じている世界の中でしか、これからの記述は当てはまらないことだろう。
兎にも角にも、この共感覚の恩恵を存分に受けている私としては書かずには居られまい。

文字に人格、この事実を素直に受け留められなかった非共感覚者の驚きはおもしろい。
いったい私が何を感じているのか分からぬままに怒鳴りだしたセンモンカもいたほどだ。
いや、かのお方は字義通りに文字に人格が"宿っている"とでもお考えになったのか、
私をビョーキ扱いすることによって自分の驚きと無知を隠し通そうとしていたに違いない。
そうだ、知覚している世界をそのまま口にせぬ方が良いのは何人にとっても同じだろう。

迫害されること必至のこの共感覚でさえ、日本の向こう側では真面目に研究されている。
彼等が関心を持っているのは人格の中でも性別や性格だったりするのだが、私としては
これに関しては保留にすべき点があまりに多いので、ここでも触れるつもりは更々ない。
強いて言うならば、私が文字に感じているのは人格と言うよりかは"相貌"なのだと思う。
カッコイイとかカワイイの範疇ではなく、正しく顔の形そのものに近い感覚を覚えている。

文字に読み難さを訴える人々の中では文字→顔は共感覚者でなくとも割と知られている。
ただし、この場合には「文字が文字に見えず、人の顔のようにしか感じられない」と訴える。
そうして比べてみると、色彩のフォティズムとセットで文字に顔を感じる私とは意味が違う。
彼等が読み難い"原因"として捉えているものを、私は読解の道標としているではないか。
何も私の世界観が総てあべこべなのではなく、共感覚とは実際にそういう現象であろう。

文字と言わず、私は人の顔を記憶することに関しては長けていると思う。見ず知らずの人も
一度道で擦れ違っただけでも覚えてしまえる。ある意味でこれは非常に疲れるのであって、
10年前は私なりに悩んでいたりもした。がしかし、今になってみればカラクリは明らかだ。
日本語のように文字種の多い言語に日々接していれば自ずと"顔"の知覚が習慣になる。
少なくとも、私が文字の読み難い共感覚者として生まれなければ起こり得なかった話だ。

文字に感じる色彩が被服となり、字形に覚える手ざわりが顔となる。よく考えてみると、
何かがおかしいことに気付く。そう、全体像としては"ヒト"の姿をしている訳でもなくて、
敢えて言うならば、パーツだけを知覚するから私の中の文字イメージがそこに在るのだ。
抽象的概念として組み換えていたなら、文字の相貌は何一つ役に立たなかったはず。
感覚そのものを手頃な方法で使いこなすには、逆に考えない方が良いのかもしれない。

世間には共感覚を障害と捉える人々もあろうか。しかしながら、こんな珍事も存在する。
幾つかの障害を足して割ったら表向きには分からない、そういうことも在っていいのだ。
現実、当事者がどんな共感覚を持ち合わせているかによって認知される世界も違うし、
個の中でも行方は知らない。私が誤診されていた間は文字の顔も色も消えていたように。
はて、この"相貌失認"の意味は何か?言うまでもなく、記憶喪失ということになるだろう。

Ik dachte...
  1. 2009/05/13(水) 00:50:16|
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