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* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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痛みは見えているか

痛覚に共感覚を感じることがある。色彩や形、手触りとなって痛みが知覚されること、
これがいかに特殊な状態か、当事者として振り返ると種々の様相が見え隠れして来る。
果たして、痛みとは何なのか。なぜ痛みに不快感を覚えるのか。疑問は尽きないだろう。
この共感覚は、言うなれば、主観性のパズルを解くきっかけにもなるような現象であり、
"苦痛"の一言で痛みを片付けてよいものか、と私に問い掛けてくる体験だと感じている。

まず初めに書いておこう、私の日常は痛みと共にあるのだと。もはや、表裏一体である。
一月のうち持病の片頭痛に悩まされないのは多くても10日間、そんな環境下にあるため、
文字や数字、音楽等の共感覚と同様に身近な存在として意識し始めたのかもしれない。
別段騒いだからと言って発作の回数が減る訳でもないし、共感覚を強く感じている以上、
痛みは避けられないと観念したから、こうも悠長なことを書き続けられるのではあるが・・・。

はて、幸か不幸か、傍から見て私は痛みに鈍感な人間であるかのように映るらしい。
現実にはヒトの感じる痛みは主観的事象であるゆえに当人以外には分かられもしないが、
私が耐え難い頭痛を感じているのに、大よそ痛がっているようには見えないことが多い。
「本当は痛くないんじゃないの」と疑われて、逆に物凄いショックを受けたこともあるほど。
今から考えても怒りを感じる話だが、簡単には痛みを外に出さない体質なのだと言おう。

が、あたかも苦痛を感じていないかのように見える訳を、もう少し紐解いても良いだろうか。
痛みと同時に共感覚を感じていると苦しさから意識を遠ざけることが出来る、と私は思う。
無論、身体が苦痛によって蝕まれているのには変わりないが、心理的には安らぎを感じ、
年がら年中ただ痛みを感じ続けるよりは余程まともな世界を味わっているのではないか。
痛みの不快感とは裏腹に柔らかい光を感じる、これは皮肉でもあり、救いともなっている。

基本的に共感覚には好き嫌いを設けない方が良い、と私が感じるのもこのゆえなのか。
その不快感ゆえに片頭痛の色彩は嫌われて当然だが、敢えて私はそう考えないことで
笑顔を忘れずに生活することが出来ているのかもしれない(しかし、これは大事な姿勢だ)。
と、ここまで書いて思うのは、実際に私の痛覚が鈍っている訳でもないということだろう。
必ずしも意識的行為とは言わないが、あくまでも共感覚は人間的な感覚だと感じている。

片頭痛と共感覚を誤診された、と言っても一度に理解されない理由には幾つかあるが、
閃輝性暗点があることと、痛みを色や形で表現したことが不幸を呼んだのかもしれない。
いずれも視覚情報であって痛覚とは一切関わりのない事象と言い切ってよいのだろうか。
脳の神経回路がそこまで単純なら、人生どれほど退屈だったろうと逆に私は懸念する。
共感覚という大草原をまだ見尽くしたとは言えない私にとって、先はまだまだ長いだろう。

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  1. 2009/05/16(土) 15:45:52|
  2. 共感覚/synaesthesia
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