seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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天邪鬼の展望

共感覚者として知覚すること、考えること、表現すること、これらの関係性とは何か。
一繋がりに総てが在ると感じる者在らば、太陽と冥王星ほどの距離を感じる者も居よう。
私にしてみれば、どの要素も交わらないと感じる時もあれば、その逆も存在している。
兎角、こうして言語に現れる"結果"を見れば自分自身でも傾向を読み取れるものだが、
そのような表層はどこまで意味を持つのだろうか。暫し、表現以前の空間に戻ってみよう。

はっきりと自覚していることだが、私が共感覚をアートにする時は感覚とは掛け離れた
コンセプトを掲げた上で表現を行なっていることがそれなりにあるのだ。知覚そのものを
じっくりと表現することは数%の場合を除けばほぼないに等しいのではないかと思う。
痛みの色を絵にする、文字の色を書き出す、というのは共感覚に忠実に表そうとするが、
音楽や風景ともなれば、人工的なメディア・アートとの違いを見つけるのも難しいだろう。

本来ならば純粋な共感覚のみを表現していたいし、その方が当事者としては心地良い。
敢えてアートとして昇華させる意味は何たるや。その答えは非常に複雑で言葉にならない。
元々、建築という人工物の表現を専門とする私である。戦略的な表現手法が身に着いており、
そういう意味では、自然な共感覚の姿を表現するのは"とっておき"の行為に他ならない。
共感覚とは生きている世界そのもの、なぜにこれが単純化されてよいだろうか、と思うのだ。

時折共感覚アートを人に見せると「こんなふうに見えるのですか」と正真正銘の"アート"に
想像以上の感嘆の表情を返してくる方々がいらっしゃるのだが、ある意味では興味深い。
そこで真顔で「はい、この通りですね」と冗談を言っても良い。しかし、それではまずいだろう。
内心、共感覚の真の姿を、つまりは既成概念に基づく美を打ち破った美を分かち合いたい、
と考えてはいるが、その夢が果たされることはないだろうという諦めの感情もなくはない。

表現の意図をプログラムとして体系的に計画する建築に対して、共感覚表現というものには
一般的な意味合いでの"計画性"がほとんどない。逆に在ったら気持ち悪いとすら感じるが、
抽象的な概念に置き換えることなく表現媒体を使いこなすまでにはそれなりに苦労もある。
理論に落とし込んだ共感覚というのは現実には感覚表現ではなく芸術に成変わるとはいえ、
怒りに近い感情と共に自分の感覚だけを眺めている気分、試した者にしか分からないだろう。

共感覚の学術的な背景を具に探究してから表現するというマナーもない訳ではない。実際、
私にとっての共感覚と建築の関係性はそういった学びの上でしか成り立たないこともあるが、
学術的痕跡を表現から敢えて消すというのは考え尽くした末の選択と言うべきではないか。
地理学や言語学に明るくなければ建築の空間論を理解出来たものではないが、"ファサード"
としてのプロセスは隠喩と成り果せる。共感覚の表現も、同様のことが潜んでいると言えよう。

En, ben ik dom?
  1. 2009/06/13(土) 23:59:20|
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