seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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塗りムラの姿は隠されるのか

ふと思い立って小学校の頃の作文ノートを開いてみたら、何とも奇妙な気分になった。
清書したはずなのに主語の居ない文章、いったいどんなつもりで私は綴っていたのか。
舌足らずの3歳児がそこで一生懸命に話しているような状況。切なくて、とても懐かしい。
こうして今ブログを書いていれば、どのようにして歩いて来たかさえ伝わらないだろうし、
何事もなく到達したはずだと自分でも信じたくなる。実際には道の数が増えただけでも。

私が虫食いパズルのような作文をしていたのは何も学校に上がってすぐの頃ではなく、
小学校3年生も終わろうとしていた時のこと。当時の記憶は鮮明に残っているのだが、
あれらを思い出せるのは楽しいからではなくただ単純に苦しかったからなのだと感じる。
そして、今も厳然と対面する問題であるがために、決して忘れることがないのだとも思う。
表面的な"何か"が如何に脆い存在なのか、つくづく考えさせられる事象でもあろうか。

ちなみに、上述した作文ノートとは、日本語ではなくオランダ語で書いたものである。
唯一私が"まともに"評価を受けたのは詩を書いた時。何もこれは偶然ではないだろう。
読字障碍と一口に言えど、現実には様々なタイプが存在していて"これだけ"と言った
明確な境目のない障碍なのだと思う。これは共感覚の従兄妹のような関係にもあり、
幾つかの層に亘ってグラデーションが重なって出来る、ある種の"環境条件"と感じる。

普通の文章で綴るとなれば、当然日本語の方が"共感覚的中率"は格段に高くなる。
逆に、韻文ともなれば漢文やオランダ語の方が私の場合には都合が良く、運も良い。
共感覚としての色彩の並びを考慮すればこれは至極道理に適った話なのではないか。
動詞の活用語尾の色に法則があること、韻を踏めば色が同じになること、何れの場合も
仕事量が軽減されるので言葉の意味そのものに集中出来て、非常に効果的なのだ。

同じ詩の範疇であっても、逆に日本語の俳句・短歌が含まれないことを考えるならば、
私の場合には共感覚の情報量の多さが逆に言語理解を阻んでいるという事実も判る。
言語の得意・不得意というのは、何も文化的な条件ではないのだと私は考えており、
経験上、人の倍の努力をしても成し得ないこともあれば、苦労なく達成することもある。
ヒトの持ち得る能力というのは、実際には"断面"の偏り方を見ているだけなのだろう。

共感覚を知覚する、という始原に立ち戻るならば断面の切り方には慎重になるべきか。
というのも、共感覚を言語変換するからには現象的な脆さも考慮に入れねばならない。
一方で、文字が歪んで感じられる私からすれば共感覚は"感覚以上の感覚"でもあり、
時に不確かな様相を持ち合わせてはいるものの、信用出来る相棒とも言うべき存在。
本人にとってどう感じられるのか、結局はそこに論理が絞られていくのかもしれない。

学校という空間から遥か遠ざかろうという時期に共感覚を知り、読字障碍はつい最近。
今だから冷静に見つめられるのか。いや、心の穏やかでない自分によく遭遇している。
話すように書け、と必死に頭に言い聞かせながら文章を綴る日々は現実のものである。
方程式の解き方を順繰りに覚えて来ただけなのだろう。未だに筆の運びはぎこちない。
感じることと表現することとの隙間を埋めていくこと。何人にとっても恒久の課題だろうか。

Welke wereld heb je gezien?
  1. 2009/07/21(火) 01:03:23|
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