seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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森の外から、森の中へ

共感覚関連の幾つかの書物には「共感覚者にとって共感覚は一生変わらない」とある。
はずっとのままである、といったことがこれに含まれるのは非常に分かり易い例だ。
だが実際、色彩の波長のように"明快"な要素だけを感じる訳ではない場合も存在する。
あくまでも個人差の問題だが、複数の共感覚を持っていればより複雑で豊かな環境が
生まれることも在り得る。では、ネットワークの様相までも果たして"不変"なのだろうか。

文字→色彩というカテゴリーの共感覚だけを知覚していると思ったのに、具に見ていくと
実は触覚・味・香り・温度・痛み……といった共感覚情報も同時に感じていた、ということも。
視覚優位な共感覚者(自分も含め)には、これが容易に起こり得るとさえ思えて来てしまう。
ある意味、総ての知覚をヒエラルキーなく楽しめたら理想的ではあるが、日常生活の中で
達成することは非常に困難であり、ふとした隙に"気付く"ことで道が現れるのではないか。

時折、"サブ"として生きている彼等を"メイン集団"と同一に数え上げて良いのだろうか
と疑問に思ってしまうことがある。これは言い換えるならば、メインとサブの両方が居る、
つまり、一共感覚者内の知覚にも多様性があることの現れでもあり、非常に興味深い。
がしかし、一見してサブ扱いだった要素がいつの間にか主役の座を掴んでいて驚いた、
なんてことも現実には結構あるもので、ここでもう一つの多様性に遭遇することになる。

元来、共感覚が神経活動の一環であることを思い起こせばそれは何の不思議もないが、
どんな感覚をどう感じるか、は実際のところ"習慣の産物"とも言えるのではないだろうか。
思うに、私がこれまで不快な共感覚をやたらと避けなくなったのもこれと深い関係があり、
共感覚的な選択肢の多さを活かしたからだと思う。例えば、ある文字の色が苦手ならば
文字→味・香りに集中力を傾けてみる、といったこと。例外はあれども、8割方上手く行く。

冒頭に挙げた話題に立ち返るならば、どうだろうか。個々の共感覚の認識自体は不変で、
良い・悪いや強弱・明暗に関係なく共感覚それ自体は変わらないということが言えそうだ。
無論、過去の知覚記憶が本人の中にも残っており、現実に感じる共感覚との同一性が
ある程度なければ問題は別だろう。記憶が無ければ、当然、"イマ"の知覚が総てとなり、
文字の色一つ採っても各事象に具わる要素に揺らぎが生じる、と自身の経験から感じる。

そもそも、人工的に共感覚を消される経験をしなければこういった見方も持たなかったが、
共感覚は変幻自在な性質も兼ね備えていると感じる。認識の上に積み重ねたイメージで
逆に"損"をしてはいないだろうか、とここで振り返ってみると物事の構造が判然として来る。
一言で"脳の可塑性"云々並べたところで共感覚者の心に強く響かないのは当然の話だ。
経験に対する内・外の差を考慮すれば、共感覚者は"森の中"で生活しているのではないか。

We gaan niet uit van het buurte
  1. 2009/08/30(日) 00:34:47|
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