seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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感覚的戯れの行き先

自分の感性と知覚体験の関係性について深く問い尋ねて、苦悩することはあるだろうか。
その数珠繋ぎの存在を知って宇宙の果てを目の当たりにしたこと、彼方にも記憶に在ろう。
ふとした瞬間に共感覚者として、いや一人間として気付かされるのは、こういったことである。
感覚そのものと、その上にある人間性。決して"同一"ではないが、相互に強く結ばれている。
時として奇怪な姿を現わす共感覚の世界を振り返ると、指揮棒の振り方に戸惑いを覚える。

共感覚の知覚体験とそれを前提とした感性の行き先。これらは本来は別物な筈なのだが、
当事者として日常生活ではこれ等を敢えて二分して考えるようなことはない。言うなれば、
不可分の関係にあるがために、言語化してみればほぼ判別の付かない状態にもなろう。
とは言うものの、洞察を重ねていけば両者が如何なるプロセスを経て"ここに居る"のかが、
具に見て取れることもあるのではないか。共感覚とは、"習慣の集積体"でもあるのだから。

無論、ここで言及しているのは思い込みやスピリチュアルと言った、似て非なるものとは
一切結び付きのない事象だと断りを入れておかなければならない。現実の共感覚現象は
それこそ自分自身の知覚の問題なので、他者の前世がどうとかいうとのは更々関係ない。
いや、それらより数段地に足の付いた話であり、気の遠くなるようなディテールの事柄だ。
既存の時間性から解き放たれた中で感じられる共感覚には、幸も不幸も意味を成さない。

共感覚それ自体について論ずるともなれば、私の中では場所性の意味も変わって来る。
果ては言語の違いにまでその"憑依現象"が及んで、ただの感覚だけが残るということ。
自分にとっての海外体験が、ごく一般的な意味でのそれとはまったく異なる様相を持ち、
時として国・言語の違いで認知されないのはこの"共感覚的憑依"によるところが大きい。
何語を話す何人という基準を、感覚そのものが通り越してしまう瞬間と言うことにもなる。

しかしながらヒトとしての現実を述べるならば、それは日常生活の部分的評価に過ぎない。
言語の担う"対話手段"としての役割は当然無視出来ず、そのことも併せて突き進むならば
感じる主体と感じる客体、そして表現する主体の存在を認めねばならない。この意味では、
共感覚を感じる"私"は選択を迫られているのだが、実際には幾つかの領域で暮らしていて、
感覚そのものに向かうヴェクトルと構築された感性へ進むヴェクトル、両者が共生している。

そんなひどく複雑な環境条件を振り返ると、一つの像として共感覚者の私が浮かび上がる。
"私は日本語を話す"という感覚が『私は英語を使う』『私はオランダ語を操る』と異なること、
または"音楽の中を歩く"と『音楽を絵に描く』、"文字の色で感じる"と『文字の色を表わす』、
いずれの関係にしても、どんな役柄を演じているかで私自身の生活も様変わりするだろう。
事実、まったく意味不明であるが、私は感覚質そのものではなく私であるという結論になる。

Niks is niks
  1. 2009/10/02(金) 00:43:02|
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