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* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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場合の数について

世間的には、今は新年だ。私の共感覚的には20092010になったので、それは"白く眩しい"年となろう。
時間単位という存在自体、社会の決まり事。これに共感覚があるのは皮肉でもあり、一方で楽しくもある。
はて、共感覚の意味論的意味から言えば10日前と今とでは然したる変化も感じないのがこの私のようだ。

2008、2009、2010、2011・・・と仮に数字が増えて行ったにしても、私の場合、個々にまるで別の共感覚を
知覚しているようにすら感じられる。ただ単に1されているのとは訳が違い、多様な世界を体験して来た。
これが数の認知に伴う人格の共感覚に依るのだけではないのは明白であり、殊更に驚くべき話でもない。

色、感触、人格、温度・・・そうした、順列・組み合わせのもたらした出会いに感謝するのは言うまでもない。
そして当然ながら、この種の多様性が数だけに留まらないことも付け加えておこう。文字も同様である。
文字一つずつにも共感覚があるが、単語毎にも感じる。あくまでも、私の場合だと添えてはおくべきか。

と綴る時には、の組み合わせも同時に感じられる(そしてえるらしい)。
全ての感覚に埋没してしまったら、恐らく「意味」は空の彼方に沈んだままその""を終えることだろう。
共感覚の存在が"在る"こと自体は認めつつ、其処から先は言語の世界と交わって行くといった具合か。

仮に英語であれば、thisthatは異なる"人物像"を持ち、isareもそれぞれに"御遣い"を頼まれていて、
一般的な言語や文法の成行きと重層的に進行する共感覚の"シナリオ"が、何れの瞬間も私の中に在る。
各文字に具わった人格も其処に居るのは複雑過ぎるようだが、人の心の多面性と良く似た話ではないか。

これは、良く名の知れた(つまり有触れた)量販店で買った服であっても、着こなし方の如何によって
見栄えが変わるというのと類似した状態を表わすのだと思う(事実、共感覚とはそうした感性の問題だ)。
思うに、私にとっての"国語"とは"コーデ"であり、服を自分で選ぶことと言葉を綴ることは同類項か。

無論、全ての文字に色彩が無ければこんな珍事は起こらないだろうし、それだから何だという話もある。
小耳に挟んだところでは、アルファベットを"制服"として"支給"されている海外の共感覚者の中には、
単語の先頭や、母音に色が付く程度の場合もあるらしい。えらい差だが、彼等も私も共感覚者なのだ。

当然ながら、文字が演者の如くと述べたのは比喩であり、被服のようだと形容するのも同様である。
しかし、そうした喩えを用いることなしに共感覚の状態や感じ方を説明出来ないのは、感覚質ゆえか。
共感覚は強くもあり、淡さも兼ね備えている。それが色彩だけではないならば、尚のこと道は広くなる。

awawawaaaaaaaaaaa
  1. 2010/01/03(日) 15:57:19|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0
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