seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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いきものであればこそ...

時間の共感覚、というものがある。ある共感覚者にとってこれは"時間単位"に感じる共感覚であり、
一方では、これが生物的な時間のサイクルに呼応する共感覚だと感じる共感覚者もいるのではないか。
一見して"時間"とは共有されている事象でもある。共感覚は、如何にして其処に生きるのだろう。

共感覚における時間とは、社会的な意味合いを持つ時間とは一線を画す存在とも考えられそうだ。
なぜなら、これは感覚や感性としてある種の共感を寄せることは出来ても、共感覚それ自体となれば、
如何なる場合であっても共有はされ得ないものだからである。あくまで個人の知覚ということになる。

所謂、時間単位に対する共感覚とて厳密な意味合いから分析していけば、文字→色の共感覚に近く、
何かの意味記号との符合の繰り返しに近いものと感じられる。カレンダーの色、時計の針の位置の色…
これらは共感覚者本人の身体性からは少しばかり距離のある知覚であり、外的世界との関係を示す。

生物学的な観点から言えば、もう一つの共感覚が在っても何等おかしなことではないのだと思う。
つまり、体内時計やホルモン周期等の可変性を持つ"時間"である。それは歪みもすれば消えもする。
言うなれば、日照時間や月の満ち欠けといった"自然界の時間単位"との関係が其処に在るのだろう。

私個人の見方をもってすれば、先に挙げた"時計の色"は然したる重要性も持たないものと言えよう。
逆に、後者の流れはヒトとして生きていくためにはなくてはならないものだと常日頃感じている訳だ。
どちらが脆いかと言えば、当然変化に富んだ後者の共感覚だろう。いとも簡単に消えてゆくのだから。

仮に、夜型になったり生活リズムが奔放なままに過ごしていたら、私の身体の時間性は消え行く。
時計にだけ時間の共感覚を知覚するのは、ともすれば現代の特徴と言えるだろう。そう考えていけば、
共感覚の時間が"共有"されない理由がまた増える。彼方の時間は、すぐ近くに生きているだろうか。

ishi_ni_naru
  1. 2010/02/02(火) 00:26:04|
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