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* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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見立てて遊ぶということ

共感覚のある生活の中で心掛けていることは何かと問われたら、『遊び心』と私は返すだろう。
勿論、これは如何にして感じているかという話ではなく、ある種の"対処法"としてのそれである。
そもそも共感覚に無知な人々には理解以前の話題だろうが、ここでは敢えて一歩前へ進みたい。

共感覚の"同類項"として感覚過敏(sensory overload)なる"者"が存在するのは、当事者間では
言わずと知れたこと。時折、この感覚過敏を共感覚と間違える人々もいる位であることからして、
両者はあたかも"親戚"のようである。がしかし、現実には双方を区別した方が良い場合もあろうか。

感性や情緒的側面と統合して共感覚を探究する見方もある一方で、それらの前提条件としての
知覚そのものとして共感覚を捉える手法もあるのだと私は思う。当然ながら、そうした双方向的な
思考回路があってこそ共感覚の理解が進むことを鑑みれば、どちらが真・偽ということはなかろう。

冒頭に挙げた、"共感覚的遊び心"とはその意味で言えばどちらか一方の観点に基づくのでもなく、
種々の"イデオロギー"を超越した空間に存在する。そして恐らく、自らの共感覚に関して十二分に
居直ってなければ遊びも何もあったものではなく、ただ苦悶したままに終ってしまうかもしれない。

無論、そうした共感覚の"社会的立場"という"描画法"が当事者の中に芽生えるのは、大概の場合、
自分の感覚を当然のものとして過ごす子供時代ではない。他者にも共感覚が在ると信じて疑わない、
そんな環境の中では誰しも共感覚的に遊び、それを自然として世界の中に感じるのではないか。

では、感覚の遊びとはどういうことなのか。例えば、共感覚でいう色彩や味、音、感触・・・というものは
私にしてみれば知覚の"素材"のような存在である。文字に色が見えると言っても、眼では見えない。
"素材"を基にして、見立てて遊ぶ。言うなれば、これは"ごっこ遊び"に近い行為ではないのか。

通常、玩具なり、遊具なり、あるいはその遊びが成される"場の存在"を信用することなしには、
"遊びの状態"は成立しない。この遊具は自分が乗ると壊れるなどと思い込めば、我が身を委ねて
思う存分に楽しむことなど出来たものではない。共感覚に対する遊び心もその範疇にあるかと思う。

これはつまり、自分の感覚を疑ったままには(学術的な"疑い"はこの限りではない)、それを信用し、
"遊ぶ"こともなければ、知覚の意味を知り尽くすこともないということ。何かに"見立てて"遊ぶのと、
感覚質を"何かに置き換えて"遊ぶこと。何れも軽やかで、柔軟な発想ではないかと私は感じる。

他者からどんなに疑われようとも、共感覚とは当事者本人にしか分からないことばかりである。
科学者が探究するのは共感覚そのものの存在であったり、その発生のメカニズムであったりと、
現実生活の中で"役に立つ"こととは程遠いが、だからといって我々に危害を加える訳でもない。

本来、共感覚とは他者に侵害されるモノではないし、共感覚故に何かを捨てることもない筈だ。
共感覚自体は遊ぼうが悩もうが、その"素材"は変わらないが、其の遊びには終わりが訪れる。
しかし、"遊び心"さえ残っていれば、また何かが始まることだろう。事実、存在とは無限である。

jjjjjjjjjamada
  1. 2010/03/07(日) 15:28:51|
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