seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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感じて、そして造るために

創作という観点から共感覚を眺める時、私は得も言われぬ困惑と期待を同時に感じることがある。
それは決して悪い意味を持つものではなく、どちらかと言えば至福に近く、心地良さとも言えよう。
戸惑ってはいても、この表現行為で巡り会うその感情は、後味が良い。世界の具現なのだから。

共感覚を感じると一口に言っても、その意味内容は驚くばかりに広いものだと私は常々思っている。
これは、共感覚者同士の知覚の手法の違いとはまた別次元に在る豊穣さと言い換えられるのだろうし、
そしてまた、それが一人の人間の内奥で静かに、強く生きている点においてもどこか優しさを感じる。

私の場合、文字の色や音楽の形等を表現している間は言葉という言葉が頭の中から抜け出たかと
感じる程であり、時としてそれは人間を人間たらしめる感覚と"言語"の間を行き来しているかのようだ。
神秘的という形容詞を付けるのは場違いだろう、なぜなら、共感覚は私の感覚の常の姿でもあるから。

ここで、普段の感覚であり、尚且つ逆でもある、矛盾を抱え込んだ共感覚にも同時に目を向けるべきか。
そうなのだ、現実生活を見渡せば判然としているだろう、共感覚者はこの感覚を隠す方が余程が多い。
他者からの好奇の目を避けるため、或いは自他の中に生じるであろう混乱を想定して慎重さを選ぶ。

生まれてからずっと"傍に在る者"を襞の下に匿い続けるとは、いったいどんな心境の成せし業だろう。
無論、匿いもせずに"放し飼い"にした経験のある者でもなければ、実際にはこの意味は知らない筈だ。
ある種の"失敗"から共感覚を内に秘めてしまうのが、大方のシナリオの進み方なのかもしれない。

共感覚を口にしたところでその場が凍り付く、なんてことは私もざらにあるがもう慣れてしまった。
というのも何も、人それぞれに世界の見え方が違うと分かっているのに押付けがましくはなれない。
自分にとっての知覚世界を明かしたところで共感や賛同のみが返って来る方が、ともすれば"危い"。

例えば、絵や音で示せば共感覚を見知らぬ(ないしは忘れた)者も彼等の感覚を通して知覚する訳であり、
初めて知った現象の姿を、全くの"無"の空間に築き上げるという至難の業を経る必要もないだろう。
"経験が力となる"のであれば、当事者自身が何がしかを他者の中に"感覚させる"ことも益に成り得る。

我々共感覚者の中で在るものが彼らの中には無いことが不可解極まりない/なかったのであるならば、
その逆もまた然りであり、無いものが在ると言われて戸惑う人々の心も尊重すべきかと今の私は思う。
そうとなれば、共感覚の表現は唯自分個人のみならず、世界のどこかでも意味を成すのではないか。

もしかすると、この感覚体験が自分のそれと"同じような"意味を持つかもしれないし、或いはまた、
想像し得る答えとは全く異なった考えや体験が生まれ出るかもしれない。思考の行方は無数に在る。
喜劇が創意として在るのと同様に、悲劇も其処に有りの侭に生かさねばならないのは屈辱だろうか。

何かの発見をもたらすことに期待を寄せ、内的な感覚が外的な感覚へと"置換"されたことに戸惑う、
そんな重層性があるからこそ、私は共感覚の表現を堪能出来るとも言えよう。その根源は複雑だ。
"総ては方向性を持つ"という動かし難い事実に比して人は弱い。変化という賜物を私は見守りたい。

ideeen

  1. 2010/03/20(土) 00:45:34|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0
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