seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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鳴き声は何のために

近年、共感覚研究が進んで来たことで、この知覚現象を取り巻く事実が明らかになってきている。
それらの進行状況はまだほんの始まりに過ぎず、当事者の私にとっては微々たる変化とも言えよう。
共感覚者の側は当の昔に現実を提示していて、それが証明されるのを待っているようなこともある。

そんな事象の一つとして、共感覚と発達障碍の関わりが取り上げられているのは周知の事実だろうか。
敢えて最初に申し上げておくが、共感覚=発達障碍では断じてない。これは、共感覚者の中に双方の
当事者が優位な数含まれているという意味であり、両者を混同するのは甚だ勘違いなことだと言える。

さて、研究現場の現実と共感覚者の周りの"観衆"の反応からここで少し距離を置き、共感覚者同士の
事柄へ目を向けてみたい。私の経験上、当事者が複数集えば必ずやこのテーマは話題に上っており、
共感覚のみを手放しに褒め称えてその場が収まったことなど、一度としてないように振り返るところだ。

感受性の強さや、好き嫌いの幅、得手・不得手の特徴が、共感覚と全く関わりがないとは到底言えない。
非共感覚ワールドで日々を過ごすには支障がありそうだ・・・と傍から聞いていて判ることもよくある。
と同時に、誰一人として"同じ"ではないのだと確信するのも、これまだ事実。論題は多面的なようだ。

と、ここで時折疑問に思うことがある。自分は相手の苦労や苦手なことをどこまでフォロー出来るのか。
私自身、文字や平面媒体の認知が不得意である。人が言語を通じて対話をする以上仕方ないことだが、
文字を通じた対話は自らリスクを選んだようなもの。どれほどまでにそれは他者に"見えて"いるのか。

他人を知って自らを知る、という意味では共感覚者同士で話すことほど恵まれた機会もないと思う。
自分の弱さが何であり、逆に強みは何なのか。兎角、世間では後者をどう活かすかにばかり目が行くが、
弱さを持つ者にしか出来ないこともあるのだろう、と今になって考えることが私は増えて来たようだ。

そこで相手の強さに嫉妬し出すのほど愚かなこともない上に、悲観するより前に出来ることを探す方が
余程前途が明るいのは間違いない。いや、それ以前の問題として、共感覚等の知覚の多様さを見知ると、
勝ち/負け、完全/不完全だけで判断することの意味が見出しづらくなる。云わば、価値観の崩壊の如く。

自分にはない困難を知ると、初めは驚くものだ。えっ、そんなことがあるのか、と一瞬は信じられない。
その状況がどんなものか想像が付かないと、尚のこと疑問を抱いてしまうのは私も同じのようである。
だが、これが"見かけの美しさ"に騙されているだけなのは明白で、その先に進む必要もあるのだろう。

仮に、想像を絶する世界を他者が生きていたとしても、それを否定する権利は誰にもなかったりする。
自分の直観が正しいと思って来た場合でも、共感覚者相手にはその『原理』が崩れることも当然あるし、
寧ろ、その崩壊を温かく迎えた方が余程心地良いのだと感じる時もある。無知の知とは、此れの事だ。

相手の知覚に合わせるためにちょっとくらい眼を瞑っても良いだろう、と思って此処まで来た気もする。
何にもこちらの障碍を知らない相手に対してもっと"譲歩"しているのは逆におかしな話と言えようが、
だから何だと言うのか?(私には、健常者の方が"重症"に見える時もある。合わせて貰いたがる為だ)

現実問題、障碍や知覚の個性の理解というのは、単なる言語的な理解だけでは物足りないことが殆ど。
実践的な何かのない限り共感覚者自身の困難が解消されないのは、敢えて"言葉にする"事実でもない。
アイディアを分かち合うことは出来ないものかと悩む。これは共有を超えた概念を生み出す時なのか。

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  1. 2010/07/27(火) 00:53:04|
  2. 共感覚/synaesthesia
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色泥棒の夕暮れ

つい先日のこと、夕暮れの空を眺めながら街を歩いていた時、"あの青さを泥棒してもいいかな"と
ぼんやりと考え始めた。"空は要らない、私が欲しいのはあの青さだけ、でもどうしたら手に入る?"
そして、数秒経って"正気"に戻ってから思い返す。私はいったい何に心を奪われていたのだろうか。

勿論、"誰かの何か"を盗むことは犯罪だが、あの時私が何としてでも手に入れたいと思ったのは
所謂ところのモノではなく感覚質そのものだった訳である。それも、滅多に出会えない空の色という。
きっと、自分が恋焦がれた対象はその数分後にはこの世から消え去った色であったに違いない。

共感覚者の中には、"同じ感覚にまた出会いたい"と思って何度も何度も文字の色を読み返したり、
音楽の色を聴いたり・・・と、幾重にも重なった知覚現象の世界に繰り返し赴いていく者もあろうか。
恐らく、この知覚体験を繰り返すという点では共感覚の有無はあまり関係のないこととも思える。

はて、私がここで常々思うのはこの反復行為が如何なる体験の追求なのか、ということだろう。
付け加えれば、その"同じ"と思われる知覚の対象も、当事者の環境次第で揺れ動く多様なもの。
果たして、彼等(或いは私)は何に再び"出会おう"と目論むのか。総ては変位の中を生きている。

共感覚者同士での対話には、面と向かった生身の対話もあれば、書き言葉を介してのそれもある。
これまでの私の経験値から言えば、前者と後者では気付かされるものにかなりの違いが存在する。
何がどう違うのか、当然ながら前者の方が具に感じ取れるように思うのは何も偶然ではないだろう。

驚きながらも相手の言葉にその場で耳を傾けているうちに、"あっ"と思う瞬間に必ずや出会うもの。
そうか、音楽に色を見ていると言っても同じじゃなかったんだ、でもなんだかどれも素敵なものだ・・・
嬉しそうに話す相手の手振りや身振りを見ながら感じられるのは、幸せでなくて何だと言うのか。

それぞれが感じる重層的な感覚質を、他者の私が完全に『わかる』ことなどはきっとないと思う。
"何となくわかる"ことは在るにしても、『わかる』と言ってしまうのは傲慢極まりないことでもあり、
相手の感覚を尊重するどころか、軽んじることにも繋がりかねない。これは決して誇張ではない。

例えば色聴と呼ばれる共感覚があり、音に色を見るという表現がそこで"ごく一般的に"用いられる。
何長調の音楽は緑色で、何短調のどれどれの曲は桃色だ・・・という共感覚者が居るとするならば、
その傍で"本当にそれは色なのかな・・・でもこの人は色だけ見えると言ってる"と感じる私が居る。

私も確かに"音に色"という表現に50%ほどは賛同するが、"音に光や空間がある"と自分では思う。
平均律十二音による独裁の布かれた西洋音楽を10年以上も続けたのに調性を無視して音を聴く、
そんな破天荒さは共感覚の共感覚らしさそのものだと秘かに喜んでいる。(誰にも分りますまい!)

冒頭に挙げた"空の青さ"が一期一会の色との出会いであるとすれば、次に掲げた"繰り返し"は
いったい何であろうか。追体験ではなく、ある者には純粋な感覚体験との再会であるかもしれず、
ある者には"相似形"の変奏となるのかもしれない。その全様を知るに至る程に私は完全ではない。

仮に私がある曲を繰り返して聴いたとしよう。毎回"同じような空間"がそこで待っていてくれる。
それはさながら、夕刻に見慣れた隣人の家に灯りが燈るのを見てほっと一息つく様に似ている。
しかし、だからと言ってその風景を知るのは自分だけである。きっと、その事実は変わらない。

icikrici

  1. 2010/04/26(月) 00:16:26|
  2. 共感覚/synaesthesia
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感じて、そして造るために

創作という観点から共感覚を眺める時、私は得も言われぬ困惑と期待を同時に感じることがある。
それは決して悪い意味を持つものではなく、どちらかと言えば至福に近く、心地良さとも言えよう。
戸惑ってはいても、この表現行為で巡り会うその感情は、後味が良い。世界の具現なのだから。

共感覚を感じると一口に言っても、その意味内容は驚くばかりに広いものだと私は常々思っている。
これは、共感覚者同士の知覚の手法の違いとはまた別次元に在る豊穣さと言い換えられるのだろうし、
そしてまた、それが一人の人間の内奥で静かに、強く生きている点においてもどこか優しさを感じる。

私の場合、文字の色や音楽の形等を表現している間は言葉という言葉が頭の中から抜け出たかと
感じる程であり、時としてそれは人間を人間たらしめる感覚と"言語"の間を行き来しているかのようだ。
神秘的という形容詞を付けるのは場違いだろう、なぜなら、共感覚は私の感覚の常の姿でもあるから。

ここで、普段の感覚であり、尚且つ逆でもある、矛盾を抱え込んだ共感覚にも同時に目を向けるべきか。
そうなのだ、現実生活を見渡せば判然としているだろう、共感覚者はこの感覚を隠す方が余程が多い。
他者からの好奇の目を避けるため、或いは自他の中に生じるであろう混乱を想定して慎重さを選ぶ。

生まれてからずっと"傍に在る者"を襞の下に匿い続けるとは、いったいどんな心境の成せし業だろう。
無論、匿いもせずに"放し飼い"にした経験のある者でもなければ、実際にはこの意味は知らない筈だ。
ある種の"失敗"から共感覚を内に秘めてしまうのが、大方のシナリオの進み方なのかもしれない。

共感覚を口にしたところでその場が凍り付く、なんてことは私もざらにあるがもう慣れてしまった。
というのも何も、人それぞれに世界の見え方が違うと分かっているのに押付けがましくはなれない。
自分にとっての知覚世界を明かしたところで共感や賛同のみが返って来る方が、ともすれば"危い"。

例えば、絵や音で示せば共感覚を見知らぬ(ないしは忘れた)者も彼等の感覚を通して知覚する訳であり、
初めて知った現象の姿を、全くの"無"の空間に築き上げるという至難の業を経る必要もないだろう。
"経験が力となる"のであれば、当事者自身が何がしかを他者の中に"感覚させる"ことも益に成り得る。

我々共感覚者の中で在るものが彼らの中には無いことが不可解極まりない/なかったのであるならば、
その逆もまた然りであり、無いものが在ると言われて戸惑う人々の心も尊重すべきかと今の私は思う。
そうとなれば、共感覚の表現は唯自分個人のみならず、世界のどこかでも意味を成すのではないか。

もしかすると、この感覚体験が自分のそれと"同じような"意味を持つかもしれないし、或いはまた、
想像し得る答えとは全く異なった考えや体験が生まれ出るかもしれない。思考の行方は無数に在る。
喜劇が創意として在るのと同様に、悲劇も其処に有りの侭に生かさねばならないのは屈辱だろうか。

何かの発見をもたらすことに期待を寄せ、内的な感覚が外的な感覚へと"置換"されたことに戸惑う、
そんな重層性があるからこそ、私は共感覚の表現を堪能出来るとも言えよう。その根源は複雑だ。
"総ては方向性を持つ"という動かし難い事実に比して人は弱い。変化という賜物を私は見守りたい。

ideeen

  1. 2010/03/20(土) 00:45:34|
  2. 共感覚/synaesthesia
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見立てて遊ぶということ

共感覚のある生活の中で心掛けていることは何かと問われたら、『遊び心』と私は返すだろう。
勿論、これは如何にして感じているかという話ではなく、ある種の"対処法"としてのそれである。
そもそも共感覚に無知な人々には理解以前の話題だろうが、ここでは敢えて一歩前へ進みたい。

共感覚の"同類項"として感覚過敏(sensory overload)なる"者"が存在するのは、当事者間では
言わずと知れたこと。時折、この感覚過敏を共感覚と間違える人々もいる位であることからして、
両者はあたかも"親戚"のようである。がしかし、現実には双方を区別した方が良い場合もあろうか。

感性や情緒的側面と統合して共感覚を探究する見方もある一方で、それらの前提条件としての
知覚そのものとして共感覚を捉える手法もあるのだと私は思う。当然ながら、そうした双方向的な
思考回路があってこそ共感覚の理解が進むことを鑑みれば、どちらが真・偽ということはなかろう。

冒頭に挙げた、"共感覚的遊び心"とはその意味で言えばどちらか一方の観点に基づくのでもなく、
種々の"イデオロギー"を超越した空間に存在する。そして恐らく、自らの共感覚に関して十二分に
居直ってなければ遊びも何もあったものではなく、ただ苦悶したままに終ってしまうかもしれない。

無論、そうした共感覚の"社会的立場"という"描画法"が当事者の中に芽生えるのは、大概の場合、
自分の感覚を当然のものとして過ごす子供時代ではない。他者にも共感覚が在ると信じて疑わない、
そんな環境の中では誰しも共感覚的に遊び、それを自然として世界の中に感じるのではないか。

では、感覚の遊びとはどういうことなのか。例えば、共感覚でいう色彩や味、音、感触・・・というものは
私にしてみれば知覚の"素材"のような存在である。文字に色が見えると言っても、眼では見えない。
"素材"を基にして、見立てて遊ぶ。言うなれば、これは"ごっこ遊び"に近い行為ではないのか。

通常、玩具なり、遊具なり、あるいはその遊びが成される"場の存在"を信用することなしには、
"遊びの状態"は成立しない。この遊具は自分が乗ると壊れるなどと思い込めば、我が身を委ねて
思う存分に楽しむことなど出来たものではない。共感覚に対する遊び心もその範疇にあるかと思う。

これはつまり、自分の感覚を疑ったままには(学術的な"疑い"はこの限りではない)、それを信用し、
"遊ぶ"こともなければ、知覚の意味を知り尽くすこともないということ。何かに"見立てて"遊ぶのと、
感覚質を"何かに置き換えて"遊ぶこと。何れも軽やかで、柔軟な発想ではないかと私は感じる。

他者からどんなに疑われようとも、共感覚とは当事者本人にしか分からないことばかりである。
科学者が探究するのは共感覚そのものの存在であったり、その発生のメカニズムであったりと、
現実生活の中で"役に立つ"こととは程遠いが、だからといって我々に危害を加える訳でもない。

本来、共感覚とは他者に侵害されるモノではないし、共感覚故に何かを捨てることもない筈だ。
共感覚自体は遊ぼうが悩もうが、その"素材"は変わらないが、其の遊びには終わりが訪れる。
しかし、"遊び心"さえ残っていれば、また何かが始まることだろう。事実、存在とは無限である。

jjjjjjjjjamada
  1. 2010/03/07(日) 15:28:51|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

動と静について

"内的な光"について考えたことはあるだろうか。自分にしか見えない視知覚の不思議に驚嘆したり、
それを言葉に出来ずにもどかしい思いをした経験はあるだろうか。其処から少し歩みを進めて行くと、
共感覚者の知覚世界が"異端"でも何でもない、日常の風景になり得ると気付くのではないだろうか。

無論、共感覚とは言えどそれは必ずしも視覚情報に限られてはおらず、触覚に繋がるものもあれば、
聴覚情報として感じられるものもある。極々単純な知覚ではあるが、共感覚とは外的な情報に応じて
当事者が内的な世界において認知するものであり、それ以上に何がしかの意味を持つ訳でもない。

しかし、人間の知覚とはそれが如何様にも―つまり良くも悪くも―変化出来ることが明証するように、
重層的な現象であり、"定性的"と思われて然るべき事象であっても、種々の変位を持ち併せている。
実際、人体内部で化学平衡が成立しているとするなら、ヒトは動的な知覚により生きているのだろう。

もし私が、病気の時でも人間はバランスを保っている、と主張したなら誤解も生まれるかもしれない。
とはいうものの、共感覚のように"基準値"を持たない知覚世界の中を生活していると、疑問も感じる。
そもそも"健康"や"健常"とは、何処の誰に必要な概念なのだろう、と。ある意味、"妄想"ではないか。

異論はあるだろうが、共感覚が"普通の知覚"ではなく、単なる『オプション』だと自分で認知して以来、
私は人体の個性的な条件を無視することが出来なくなった。ある人には3錠必要な薬が、別の人には
たったの1錠かそれ以下の分量で足りることがあるように、人それぞれの知る均衡も個々で異なる筈だ。

先に挙げた"定性"の話をここで思い起こせば、所謂グラデーションも、実際には事物の見かけだけを
勝手に、そしてテキトーに振り分けたものだと言えるのではないか。動的なものを静的な事象として
捉え直すにはある種の"代数"を登場させねばならないが、それとて単なる"身替わり"に過ぎないのだ。

日常的な社会生活とは、言語も含めて大概のことはそうした"代数"によって成立しているように感じる。
だが、具に観察するとこれが"多変数関数"なのだと気付かされる。そして、皆が同じ"関数を生きている"
ということは決してなく、それぞれに固有の道理―すなわち動的均衡を持つだとも言えるのではないか。

共感覚は如何ともし難い程に内的な知覚であるが、同時に言えるのは此れが動的な現象だということだ。
ともすれば、共感覚とは内的な"動き"を感知している状態と言い換えられるだろうし、その"変位"こそは
この感覚を活かしているのかもしれない。内的な"光"の変化とは、果たしてどこまで見えるものだろうか。

waaaawaaaaawaaaaaaaaa

  1. 2010/02/13(土) 20:42:17|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0
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