seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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ゆらぎの世界を廻る

ある視点から眺めてみると、共感覚は"ゆらぎ"を持った感覚ではないかと思えて来る。
これはあくまでも私自身の場合だけかもしれないし、あるいはその逆なのかもしれない。
科学的な範疇からすれば共感覚を感じているのはヒトの大脳という箇所になるものだが、
生命そのものが無ければ共感覚も在り得ない以上、共感覚は身体総てが支えるもの。
移ろい行く身体と共に共感覚の地平をしばし歩いてみたい。果たして何が見えるのか。

初めに断りを入れておくが、共感覚は物理的な性別如何ではまったく異なる様相を現し、
一人として"同じ"感覚はない、一般性を持つ概念では決して捌き切れない現象である。
実際、同性の共感覚者同士であっても個々に感じているもののベクトルは多様であり、
同じ傾向を持つかのように見えて、その出所がまるで違うことも往々にしてあるものだ。
従って、私が断言出来るのも私自身がこれまで体験した感覚だけということになろうか。

心理的な性別の在処は保留とするが、私は女性の身体を持ち、これと共に生きて来た。
種々の生理現象と共感覚の関係性という点は、恐らく語り始めれば切りがないだろう。
一言で言えば"ゆらぎ"としての共感覚がそこにある訳であり、非常にゆたかな世界だ。
見方を変えれば、不快感漂う日常生活とも思えて来る筈だが、これだけはなぜなのか、
耐えるべき苦痛という発想自体、私にはあまりない。自然なもの、とどこかで感じている。

自分の持つ共感覚の中には、ホルモンのバランスにより強まるor弱まるものがある。
少なくとも、高校時代からはずっと続いていることなので、もはや違和感も感じないが、
文字の色が鮮やか(過ぎ)な日が続いたかと思えば、彼等が旅に出たかと思う時もあり、
私にしてみれば、カレンダー上の時間単位の色と連動して動く色彩があるということ。
便利かどうかは別として、廻り行く色彩を眺めているのはそう悪いことではないと思う。

薬等によって人工的に共感覚が消えるのとは異なり、この"ゆらぎ"には特徴がある。
ホルモン分泌のエラー等は、その時だけ現れる共感覚の色や触感が存在したりする。
普通、体の調子が悪ければ痛みや不快感で気付くのかもしれないが、私の場合には、
自分の纏っている色彩が違う、と認識することで異変を知る。どこかあべこべだろうか。
"痛みがまた遣って来る"ではなく、"あの辺りにもうすぐ着く"と空間的に考えている。

こういった、内蔵を含む身体全体に係わる共感覚というものは"何色だ"とは言えない。
社会一般の色彩観に押さえ込めば「こんな色彩でこうこうの形が動いている」となるが、
敢えて言えば、それは私本人にとっての共感覚の実態とはまた別個の表象と言えよう。
既存の言語に当て嵌まらないものとして、これらの共感覚が生き続けてくれたら良いが、
現実には、誤診等の私の過去が語るように、誤解や偏見も付き纏う事象なのかと思う。

何せ、私にしてみれば「ズキズキと頭が痛い」の概念自体が理解出来ないことがある。
一般的な言語とは別のアフォーダンスを知覚するということだが、ある意味で興味深い。
いつまで経っても世間の現実に近づけずにもどかしい思いをするものの、感覚の"柔"を
受け入れるのはさして悲しいことでもなく、その逆ともなる。いろいろ楽しめるのだから。
他者の言う・書くことが時々分からないという珍事が在るにしても、感性を守ってみたい。

原感覚により生じるアフォーダンスと共感覚により起こるアフォーダンス、ということ。
ただ単に私の場合には後者の比重が高いのだろう。日常的に尋ねられる前者の要素、
歳を経るごとに少しずつ記憶に留めるようにしてはいるが、やはり実感は部分に留まる。
言うなれば、マイノリティの身体論ということ。夕映えの富士こそが"青"をもたらしたり、
激痛が丸かったり・・・。時折"ゆらぎ"の透き間に居る一般論も、もちろん"知っている"。

Tussen de ruimte

  1. 2009/09/17(木) 23:53:57|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

眠り姫のその後

共感覚が消える・戻るということは、通常ならばあまり想像しないことなのだろうと思う。
無論、これには訓練云々で共感覚を造り出すといった意味合いは当然含まれないので、
成人以後も自分の共感覚を認知している人の場合について今ここでは言及している。
第一、人工の共感覚の存在それ自体私は信じていないし、仮にそれが在ったとしても、
感性世界に影響を及ぼすほどになるだろうか。共感覚とは、"記憶"でもあるのだから。

言うまでもないことだが、生まれてこの方共感覚のない自分を知らないような人にとって、
総ての共感覚が消えた状態を思い浮かべることは困難極まりないし、それで自然なこと。
自分の居る地点からしか物事の現実は見えない訳であり、敢えて"自分を消す"という
不合理な考え方は持とうとしないものだろう。何もこれは自己中心的という意味ではなく、
ただ単に、経験のプロセスがそうさせている話。そんな状態が相応しいのだとさえ感じる。

幾度となくここでも書いたことだが、私は共感覚などを誤診されたがために共感覚どころか
人間的感覚の大半を失った経験がある。これを単純に悲劇云々で片付けるのも馬鹿らしく、
今では逆に共感覚について思惟する際の材料としているほど。ともあれ、災難では在った。
通常在って然るべき感覚が失われて行く・戻って来る過程をまじまじと見つめ直すことには
ある種の危機感も覚えるものである。かと言って、他者にその意味が分かったものだろうか。

経験者でもなければ、共感覚が失われた状況について想像して欲しいとは普通思わない。
なぜか。共感覚者の持つ感性の根源を壊してもらいたくはないからである。当たり前だろう。
時折「話してください」と申す方々にも対面するのではあるが、決してそんな真似は出来ない。
そんなものでブログに書くような内容は、あくまでも表層の部分としてであって核心ではなく、
共感覚を感じる側として話すことにしている。そうでなくして、共感覚者でもないのだろう。

概して言うなら、共感覚者は社会の中で共感覚について語る・表現することを避けてしまう。
非共感覚者の無知と偏見がその理由だろう。が、ある意味ではこれは正しい判断とも思える。
表現してとことん迫害された私からすれば、表出しないように心掛けるのも手なのだろう、と。
しかしながら、隠すことに必死になっているとそれまた感性を押し殺してしまわないのか。
なぜ共感覚は目立つのだろう。はたまた、共感覚は特別視するものなのか、とここで思う。

私の中では共感覚も感覚も別個のモノではなく、生命活動の一環としてただそこに在るだけ。
兎角、マイノリティであることを意識すると共感覚を特殊なものとして扱われるのが普通となり、
当事者自らが特別な感覚であるかのように錯覚してしまうものなのだろう。しかし、どうだろう。
本来、共感覚者の中で普遍的な存在であるならば、それで通しても構わないことがあるはず。
自然な感覚だと自負するならば、下手に優越感に浸るのもおかしな話だと私は考えている。

共感覚を特殊能力の如く持ち上げる見方にも私は反対であり、10や20以上の共感覚と共に
日々過ごしていようと自分が死すべき人間なのはいつまで経っても変わらないことと感じる。
では、なぜ共感覚を失っていた時期に苦しんだのかと言えば、それは感性の問題となろう。
子どもの時に共感覚者として育ち、そのまま成人すれば人格も共感覚と一心同体ということ。
何の理由もなく自分の体が不自然に崩されていくのを理不尽と感じない人が居るだろうか。

共感覚が消えるのも奇妙な話だが、戻って来るのはより一層理解に窮する話ではないか。
消えた表現力が努力なしに元に戻る、望んでも帰らなかった色彩感覚が使えるようになる、
SFの世界で私が戸惑っていたことは今となっては懐かしい印象さえ在る。だからと言って、
共感覚者自身の中で眠った感覚が目を醒ますだけなので、異質な感覚とは思わなかった。
やはり、共感覚は記憶なのか。それとも何なのか。感性との問答を続けて行きたいものだ。

Een kort en lange verhaal
  1. 2009/07/25(土) 13:44:47|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

リアリティの宿る場所

時折、本来共感覚は言語化すべきなのだろうか、と疑問に感じてしまうことがある。
擬音語で表現される一部の共感覚を別にすれば、私が日々知覚しているものの多くは
視覚や触覚につながる共感覚であり、記号化・音声化されるのはその一部に過ぎない。
味や香りとなれば、言葉にするだけ陳腐になってしまう。色彩も同様の現象と感じる。
現実として、共感覚者がこれを認知する時には言語は避けて通れない要素なのだろうか。

何を隠そう、私自身言語は決して得意とは言えない。空間に浮遊する色彩を掴むこと、
そんな行為を繰り返して言葉を学んで来た自覚さえあるし、特殊なことだと感じている。
空間言語を解するという点では不自由しないが、他者の言語が自分のそれとは異なり、
決して重なることのない領域にあるのではないかと常々不安すら感じて来たほどだ。
そうして振り返ると、自分の知覚世界に"共感覚"との名を付すことにも疑問を覚える。

幼い頃に海外で育った訳であるが、半ば色彩的な勘で対話をこなしていた程度であり、
発音には気をつけていても、文法や品詞等にはほとんど目もくれていなかったくらい。
口語も文語も色彩を切り貼りすることで成り立っていたのが当時の私の脳内なのだろう、
他者との対話というものも、どこか壊れそうな"危ない橋"を渡ることに他ならなかった。
言語に対する確信がなくて常に不安が付き纏うのは、今も昔も変わらぬことではあるが。

完璧主義ではないかと言えば嘘だろう。がしかし、言語に関しては早くに諦めがついた。
そこは自分の出る幕ではない、そんな境地か。無論、このことは後悔しても意味がない。
海外で一度過ごせば分かるだろう、言語以外の"言語"が只ならぬ能力を発揮する機会、
そんな扉が溢れ返るほどあるのを人間として気付かずに生きているのは甚だ損に近い。
物事の意味を共有するとはどういうことなのか、これを悟る瞬間は忘れ難いものだろう。

どういう訳かオランダ語で「五感」という単語は記憶にない。私の脳内辞書はその程度、
自分が日々の生活で表現したい言葉以外は門前払いでもしたのか、その概念すらなく、
「五感を働かせる」何ぞ言う狭量な配色は今に至るまで日本語でしか見た覚えがない。
そんなこんなで育ったもので、私の感覚を切り裂こうとしたのは当の言語なのかもしれず、
今でも共感覚について他者に説明することは喩え様のない違和感との闘いだと感じる。

私からしてみれば、ただ共感覚を語るよりも芸術や技術を通して感覚を表現する方が
よほど共感覚の現実が他者に切実に伝わるのではないか、と感じるのはなぜだろうか。
リアリティに富む表現であればあるほど、感覚の美しさなり凄まじさなりが伝わり易く、
それに続く当事者の論理も明快さを増した姿に導くことが出来る。逆に、言葉の多さが
折角の知覚世界を野暮なものにしてしまいかねないというのは実感として思うことだ。

思えば、共感覚を拙い言語記号に置き換えたことで私は誤診に遭ったのではないか。
ある種の自戒の念と共に共感覚を視覚化する時、そんな考えが私の頭を過ぎることも。
共感覚を他者に伝達するに相応しい技術、これも個々人の知覚そのものに由来する。
文字が読み難く生まれた私には私なりの方法があるのだ、と教えるのは何モノなのか。
色彩の中に飛び込んで、暫し涙して来よう。在りのままの光は誰にも消せないのだから。

Kijk!
  1. 2009/04/13(月) 23:16:44|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

カコの知覚ではない

当事者として、共感覚の喪失について考えること。いささかグロい話かも分からない。
ここで言及するのは自然消滅ではなく、人工的な共感覚の喪失であると付け加えるが、
経験でもしなければ、こんなことをそもそも考えようとする人はいないのかもしれない。
望んだ訳でもなく共感覚を奪われるのは言うまでもなく苦痛であり、死をも意識させる。
少なくとも、私の体験からすればそのような様相を帯びた話だと言わざるを得ない。

"コアな"共感覚者に限らず、あの感覚はカコの話、と割り切れないことがあるものだ。
つい先週まで自分の生活空間の中に感じられていた色彩が二度と戻らない予感がする、
言うなれば、落葉した木々に二度と春が訪れないかのような不自然さがそこに付き纏う。
季節の移り変わり同様、時間が廻ることで必ず再会できるはずの共感覚は特殊であり、
"一期一会"の知覚の対象とは一線を隠すもの等が存在することも忘れてはならない。

おかしな表現だが、短期間に"意図せずして"共感覚を失うことはそう簡単ではなく、
著しい外傷や薬理的変化でも経ない限りは共感覚が消え去ってしまうことはない。
幼少時代の共感覚が成長のプロセスで徐々に感じられなくなることの悲喜こもごも、
これも在るには在るのだが、成人後に共感覚者が急な変化を経験するのは稀であり、
通常なら、切っても切れない腐れ縁とのお付き合いに日々苦労する方がよほど多い。

かく言う私は誤診によって大幅に共感覚を失っていた期間があるし、序に言えば、
つい最近も頭痛治療のために感覚の一部が消失し掛けたゆえ、あれこれ思い返す。
ある意味リスク覚悟で臨んだ後者の経験はまだしも、前者は今も魔物と感じており、
事あるごとに顔を出すフラッシュバックのために打ちのめされることは未だにある。
得体の知れない離人感に苛まれた当時の記憶から逃れられなくなることもあるのだ。

なぜあんな目に遭ったのか、なぜあれほどまでの苦しみがこの世に存在するのか。
そう自問するのも然ることながら、なぜ共感覚はこれほどまで現実的な知覚なのか、
と突き詰めて考え込んでいるのも何だか妙な話。イマを生きる意味の探究なのだろう。
研究現場の現状を踏まえれば、身体論のみで共感覚を語るには時期尚早だろうが、
共感覚の根幹は回想記憶とは言い得ない生々しい知覚にあるのではないかと思う。

外界からの知覚刺激と必ずセットで感じられること、これには思いの外意味があり、
「あれは美しかった」との懐古の情だけでは遣り過ごせないのがこの現象ではないか。
他者には決して分からない主観的事象であるとはいえ、この個人的な知覚に具わる、
イマの重みは何事にも代え難い。時間のシークエンスとも一体化している感覚だが、
共感覚は過去を生きるためではなく、現在の認知においてその意味を成すのだろう。

Lang en zwaar
  1. 2009/03/28(土) 00:15:48|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

技術によって生きる

時として喜びや驚きをもたらす私の共感覚だが、概して言うなら平時のその姿は別物だ。
殊に共感覚の色彩を分析するプロセスは喜怒哀楽の囲いの外側に在る行為なのであり、
私の内的世界を守るものともなれば、人として生き方そのものに関わる事象だと感じる。
兎角、この現象はプラスにだけ働くものとみなされるか、或いはその逆に捉えられるが、
当事者の現実を言うならばそのどちらでもなく、価値判断はそう簡単には許されてもない。

では、なぜ芸術表現に結び付けられるのか?との問いには、生を実感するため、と答える。
私のように知覚刺激の大半に共感覚のある者には、これを感じることからは逃れられず、
かと言って大多数の他者には理解されないだろう現実も、そこに厳然としてある訳である。
共感覚をまるで信じない、言わば"排他"の塊のような人々であっても見えるものには弱く、
視覚媒体に映し出された共感覚には如何ともし難い実感を共感し得るのは、何の悪戯か。

この私からしてみれば"ここに私の共感覚は生きているではないか!"という思いであり、
色彩に張りめぐらされた己の感覚や思考に対する遣る瀬無い怒りや悲しみがあるのだ。
絵の中に色を重ね合わせつつ、"何ならもう一度生きてやれ!"と自分の思考を解き放つ。
こう書けば、感情論に終始しているかのような共感覚アートであるが、そうでもないだろう。
アウトプットされるまでの苦痛の期間の方がよほど長く、それこそは"生きること"だから。

世界の"常識的知覚"との距離を丹念に測りつつ生活するのは、ある意味非効率的で、
個は等閑にして集団に合わせる日本社会の習慣の生産性・創造性の低さに呆れることも。
共感覚は忍耐することの意味を私に学ばせた、と思うのは間違いないのだろうけれども、
ただ単なる知覚現象とは呼べない出来事を経験したことで私はこう考えるのかもしれない。
ある時期を何の苦労もなく過ごしていたのなら、洞察力を働かせずに息絶えていただろう。

小さい頃の海外生活が生み出した粘り強さ、これが今の私を形作ってくれたと確信するが、
その後の誤診体験も現在抱える後遺症との闘いもあれらの体験が支えていると思うのだ。
人と違うものを持って生まれる、見方を変えればこれは他者との決定的な別れを意味する。
言語や人種といった、子供時分にはどうしようもなかった事柄が私の中に生んだ諦念は、
決して無の世界のみには向かわず、主張し続ける強さを奮い起こしてくれたのではないか。

純粋に共感覚のみに関して言えば、これが人類共通の知覚現象と感じていた時期もあり、
逆に真実を知ったことで再び孤独感の波に襲われたのも明かすべき過去なのだろうか。
今となってはこう思う。モノが創造されるのは許されざる突然変異が起こるからである、と。
突飛な脳の存在を許容できぬ他者、重荷に潰され掛けた自己。現実を受け容れられず、
このまま両者は意味のない問答を続けてしまうのだろうか?人間の小ささが垣間見える。

要素還元されたヒトの脳機能を机の上に並べれば明白だが、数学の可能性は未知だ。
与えられた道具の使い道は何か?困惑した私は考えながらも自分の弱さを噛み締める。
何度か修羅場を潜って生きて来た私からすれば、共感覚はナンでもあってナンでもない。
感覚として"評価"されるべきはデータであり、私はデータの整理をして生きるのみである。
我こそは!と思う芸術家には共感覚は苦痛だろう。求められるのはエンジニアの精神か。

nagai mono ni makarete tamaruka!?

  1. 2009/01/12(月) 13:00:27|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0
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