seek for sounds, step into forms...

* * * * * 色とともに生きる共感覚者から * * * * *

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折り目のゆらぎ

結果かプロセスか、という次元で言えば、共感覚は紛れもなく後者に属する知覚現象だと思う。
付け加えれば、プロセスはプロセスでも微視的な知覚であるし、要素間の関係性も存在する。
当事者にとって確実な知覚であると共に、揺れ動く何かも同時に共生しているのではないか。

これが確かな知覚だという認識は、私の中では決して消えることがないだろう。だが同時に、
不確実性の中にあることも自覚する。時間の経過と共に色や形が弱くなったり強まったり・・・
行く当てもなく揺らいでいる水のような存在でありつつも、否定する必要は感じられない。

夜中に地震が来ると、その少し前に激しい色に目を覚まされてしまうことが私にはよくある。
ナマズでもなければ小動物でもないが、凄まじい黄色と赤色を脳内に感じることは否めず、
ただ天災が遣って来るのを知って、ハッと驚いているだけだ(人間的愚かさと遅さゆえか・・・)。

共感覚がコレコレであるからドレドレの論理の正しさが証明される、といったような事柄は、
研究現場では数値的に示されることはあったにしても、私にしてみれば皆無に等しいもの。
知覚する本人の中では至って平凡な知覚であり、高尚なものとみなすには些か距離がある。

言わずと知れたことだが、共感覚は不随意に起こる知覚であり、意識的な"結果"ではない。
何時、何処で、どんな色や味に出遭うかは脳内に決定権があり、一見強固な文字の色でも
其れは必ずしも保障され尽くしたものとは言えないのだろう。動的な知覚であるならば。

がしかし、不確実な脳の知覚を他所にして共感覚者は贅沢な我侭で身を固めていることも。
共感覚者自身が色や形の海にどっぷり浸かっていたいと望むこともあり、これはさながら、
非共感覚者の中に共感覚を待ち望む者が居ることも鑑みれば、奇妙な話という訳でもない。

ただ単純に同じ刺激を欲する人も居るものの、ある種の不確実さに常時接する不安感から
心地好い音楽を見返したり、眩いばかりの文字の世界を行き来することもあるのではないか。
決してこれは人間的弱さのみにより説明出来る習慣ではなく、いとも複雑な話と言えよう。

"在る"と"無い"の境目とは、共感覚者の私からすればそれほど大きな溝とも思えないものだ。
人体の繋ぎ目よろしく、総ては連続体の中に在りながら始まりも終わりも判らぬ姿をしている。
単純な複雑さの営み。そうした知覚の繰り返しが、やがては色から言葉、空間に生きるのだろう。

aar...
  1. 2010/09/11(土) 19:47:54|
  2. らせん と じかん
  3. | コメント:0

幾多の幻

人類史上の何処かで人間は文字を手に入れたらしい。何故、そんな道を選ぶに至ったのだろうか。
他者との対話のためか、或いは、自分個人で色を楽しむ為だったのか。もっと深い理由が在ろう。
たった数千年前に起こった此の事実を、私は疑うことがある。いっそのこと、逆でも良かった?と。

文字を放棄したって良いじゃない、と私が思うのは、恐らく「言葉の乱れ」を懸念する諸氏の機嫌を
損ねてしまうような事象とはまるで別個の範疇においてである。文字が無くても人は人であろう、
序に言えば、文字による文化を少し距離を持って見ることも必要ではないかと常日頃感じるのだ。

数字や文字は、果たして人間を"賢く"して来ただろうか。そんな筈はないだろう。どんなに知識を
蓄えたからと言って知恵を身に着けるのは別のこと。そして知識と知覚は別事象だが、自分のように
総ての文字に色を感じるのも実は褒められたもんじゃない(寧ろ"馬鹿の一つ覚え"と呼ぶべきか)。

文字や記号に色彩を感じるとはいえ、私の場合には文法を文法として解すことがないと自覚する。
見掛けの文字の刺激が強過ぎて(共感覚の刺激ではない)読みづらいこともあるが、それより何より、
目の前で文字が整然と並んでいても文字が整然と並んでいないと感じる。(此れは謎々ではない)

仮に文法的な順序を守って読書をしたとすれば、宙に浮かぶ大小の光を両腕で掴むようなものだ。
網膜にはそれなりに平面らしく映っている文字が、何故にして空間的に姿を変えて感じられるのか。
本人も不思議でならないが、他人にとっては更なる疑問であり、其れがしばしば誤解を生むことも。

付け加えておくが、"器用に"ジグザグに読むことで私は何とか対処している。書く時も同様である。
普通の人々と同じ読み方をすれば、数分と経たないうちに私は宇宙の中で"溺れる"ことになるため、
判り難い文章はそのまま放置し、文法上のミスは適当に想像することで"海難事故"を防いでいる。

もしも、私の文章を書かれたままに受け取る人が居れば、自他共に災難に遭うことも在るには在る。
過去にもそんな例に数多く遭遇しているため、言い方を変えれば文字色に感謝しつつ矛盾を感じる。
人間の脳の複雑さや精巧さを思えば何のことは無いとはいえ、人の感情も同様の側面を持つのだ。

時折、共感覚者の中にも言語の歴史と文字の色の間に強い絆があると話す人々が居て私は戸惑う。
果たして本当にそうだったのか。多面体を一方向から眺めていても、答えは曖昧なものに過ぎない。
文字も空間も共感覚も、普遍なようで居て特殊である。何れの現実も、"今"を経験しているだけなのだ。

la vita
  1. 2010/08/21(土) 23:51:50|
  2. もじいろ おといろ
  3. | コメント:0

空洞の向こう

今まで生きて来て疑問に感じたことは数知れないが、中でも"中心"という概念は特に奇妙に感じる。
世界の中心、理想のカタチ、一番であること・・・時としてこれ等の存在意義が理解出来なくなることも。
そうした思考のあり方の根本に知覚の問題があると気付いたのは最近のこと。だが、不思議ではない。

前置きとして付け加えておくが、この私の傾向が共感覚者を代表しているとは到底言い切れないもの。
この真逆も同様に存在する価値があるし、どんな見方が正論という訳でもないとここで私は考えている。
同じであることや、何がしかの基準や理想にこだわる当事者が居たとしても、きっと間違いではない。

はて、どういう訳か、私は目の前にあるものに上手く集中出来ない。生まれつきそうなのだと感じている。
一つの文字や一つの形を眺めていても、その存在や意味を認知出来ていないことが、ほとんどだったり。
この世の大概の事象が"関係性"の下に成り立つことには、幾分か感謝の念を覚えているといった状況だ。

勿論、私にだってまるで集中力がない訳ではない。敢えて言えば、"ドーナッツ状"には集中力がある。
平面媒体の情報はブレて見え難く、空間的な情報はスッと身体に心に溶け込んで来るのは不思議だが、
自分の中で中心性がないと感じるのは、そうした視覚の特徴が理由なのだろうと今になって振り返る。

"ドーナッツ化"が競争心を剥いで、気の抜けた状態を作り出すかと言えば、決してそうではない筈だ。
常日頃、こうであったら良いなぁ・・・と妄想・想像は十二分にしているが、それを完成形で見るのではなく、
ある種の"環境の在り方"として眺めているに過ぎない。そして、それを実現するかどうかは別問題、と。

これが共感覚の知覚という事柄へと向けられると、それまた固有の様相に出くわすことになると感じる。
同系色を好むよりも、組み合わせを愛するようになると言えるし、感覚の好き嫌いも幾許か淡くなる。
元来、共感覚自体が異種混合なのであるが、感覚同士が合わさっているという認識さえ私の中では弱い。

「何々が一番優れている」という表現を目にして、時折頭を悩ませることがある。気持ち悪いのだ。
常に理想的な結果ばかり求めている人々に出会うとゾッとすることも。それは本当に"理想"なのか?
仮に、ヒトの目や心に見えているものが総てではないのなら、完璧など実はまやかしではないか、と。

人は生来恒常性を求める傾向にあり、恐らく私にも"ある程度"の定性は具わっており、役立っている。
そういう点では、私が必要としているのは大きな変化ではなく、知覚要素として識別され得るような、
どちらかと言えばディテールにおける変位なのかもしれない。でなければ、"生活"自体が成立しない。

だが、プロセスを重視する、つまりは人が感覚するその状態を大切にしようという思いはとても強い。
変化している状態を眺めて考えることで自分の生活は成り立っている。では、私にとっての恐怖とは?
言うまでもなく、変化がなく、総てが膠着し切った環境は私の不安の種となる。当然の論理であるが・・・

或るカタチを極めようとする人々にとって、そのカタチが崩壊したり、達成されなかったりするのが
恐怖や葛藤となってしまうのだろう。片や、私にとっては"keep on doing, keep on moving"が
目的であるがゆえに、そういったカタチも常に"カタチを変えて"いて、崩壊もカタチの内だと言える。

夏空に浮かぶ入道雲とて一つとして同じものはなく、今日と明日とでは空模様も別の姿をしている。
私が安堵するのは、そんな風景のような生き様か。我が身の変化と環境の変化は別物であろうが、
宇宙的な規模を除けば、変化もきっとバランスの一つだろう。総てを等しく愛せよ、と私は歌いたい。

blauauauauauuauau

  1. 2010/07/31(土) 00:11:46|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

鳴き声は何のために

近年、共感覚研究が進んで来たことで、この知覚現象を取り巻く事実が明らかになってきている。
それらの進行状況はまだほんの始まりに過ぎず、当事者の私にとっては微々たる変化とも言えよう。
共感覚者の側は当の昔に現実を提示していて、それが証明されるのを待っているようなこともある。

そんな事象の一つとして、共感覚と発達障碍の関わりが取り上げられているのは周知の事実だろうか。
敢えて最初に申し上げておくが、共感覚=発達障碍では断じてない。これは、共感覚者の中に双方の
当事者が優位な数含まれているという意味であり、両者を混同するのは甚だ勘違いなことだと言える。

さて、研究現場の現実と共感覚者の周りの"観衆"の反応からここで少し距離を置き、共感覚者同士の
事柄へ目を向けてみたい。私の経験上、当事者が複数集えば必ずやこのテーマは話題に上っており、
共感覚のみを手放しに褒め称えてその場が収まったことなど、一度としてないように振り返るところだ。

感受性の強さや、好き嫌いの幅、得手・不得手の特徴が、共感覚と全く関わりがないとは到底言えない。
非共感覚ワールドで日々を過ごすには支障がありそうだ・・・と傍から聞いていて判ることもよくある。
と同時に、誰一人として"同じ"ではないのだと確信するのも、これまだ事実。論題は多面的なようだ。

と、ここで時折疑問に思うことがある。自分は相手の苦労や苦手なことをどこまでフォロー出来るのか。
私自身、文字や平面媒体の認知が不得意である。人が言語を通じて対話をする以上仕方ないことだが、
文字を通じた対話は自らリスクを選んだようなもの。どれほどまでにそれは他者に"見えて"いるのか。

他人を知って自らを知る、という意味では共感覚者同士で話すことほど恵まれた機会もないと思う。
自分の弱さが何であり、逆に強みは何なのか。兎角、世間では後者をどう活かすかにばかり目が行くが、
弱さを持つ者にしか出来ないこともあるのだろう、と今になって考えることが私は増えて来たようだ。

そこで相手の強さに嫉妬し出すのほど愚かなこともない上に、悲観するより前に出来ることを探す方が
余程前途が明るいのは間違いない。いや、それ以前の問題として、共感覚等の知覚の多様さを見知ると、
勝ち/負け、完全/不完全だけで判断することの意味が見出しづらくなる。云わば、価値観の崩壊の如く。

自分にはない困難を知ると、初めは驚くものだ。えっ、そんなことがあるのか、と一瞬は信じられない。
その状況がどんなものか想像が付かないと、尚のこと疑問を抱いてしまうのは私も同じのようである。
だが、これが"見かけの美しさ"に騙されているだけなのは明白で、その先に進む必要もあるのだろう。

仮に、想像を絶する世界を他者が生きていたとしても、それを否定する権利は誰にもなかったりする。
自分の直観が正しいと思って来た場合でも、共感覚者相手にはその『原理』が崩れることも当然あるし、
寧ろ、その崩壊を温かく迎えた方が余程心地良いのだと感じる時もある。無知の知とは、此れの事だ。

相手の知覚に合わせるためにちょっとくらい眼を瞑っても良いだろう、と思って此処まで来た気もする。
何にもこちらの障碍を知らない相手に対してもっと"譲歩"しているのは逆におかしな話と言えようが、
だから何だと言うのか?(私には、健常者の方が"重症"に見える時もある。合わせて貰いたがる為だ)

現実問題、障碍や知覚の個性の理解というのは、単なる言語的な理解だけでは物足りないことが殆ど。
実践的な何かのない限り共感覚者自身の困難が解消されないのは、敢えて"言葉にする"事実でもない。
アイディアを分かち合うことは出来ないものかと悩む。これは共有を超えた概念を生み出す時なのか。

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  1. 2010/07/27(火) 00:53:04|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

扉のない空間

これは"恐らく"という前置きの下で語る方が良いのかもしれないが、芸術には危うさを伴うものもある。
時として理性のたがをわざと外してしまうような音や形に出会った瞬間、私は何を感じるのだろうか。
悦び?恐怖?恍惚感?・・・言うまでもなく、これを言語に置き換えるようとするのは些か陳腐な精神だ。

共感覚、それも空間性を持ち合わせた感覚の状態を例にとるならば、ある種"危ういもの"が満ち溢れ、
誰にも止めようのない、いや、もはや止める必要のないような流れにしばしば遭遇するようにも思う。
この領域に入った自分に向かって"戻る"ことを要求するのは、制止を生業とする理性の存在くらいか。

異論もあるだろうが、感覚や感性をその根源とする共感覚芸術に関して言えば、アートを言語化する、
という翻訳作業は"批評家体質"の者でもなければ、敢えてしようとは思わないのだろうと私は考える。
何せ、言語という論理体系に組み込むこと自体が甚だ愚かと感じられるような共感覚もあるからだ。

今から数年前に私は"ある失敗"をした。誰かに災難が降りかかるとか、所謂社会的責任のあるミス等の
一般的な意味合いでの間違いではなかったと断っておくが、理性で感性を殺めかけたようなところか。
失敗の背景に、周囲の共感覚(及び芸術)への根本的誤解や先入観があったのも事実ではあるが・・・

"危うい感覚"の"危うい"を、何を以ってして"危うい"と論ずるかは読者諸君にその判断を任せるが、
仮に、ここで私が焦点を当てている対象が色や触覚に関る共感覚のみであるならば話は単純であり、
空間性に潜む矛盾―これは時として合理ともなる―を殊更に苛める必要もない。自明の論理として。

柔かい時空、そこには明確な出入口などない。なぜないのか?玄関口があれば分かり易くなるのか?
明日の扉を開くのが、他でもなく明日を生きる主体そのものであるのと同じように、共感覚の空間も
共感覚者という主体なしには存在し得ない"優れもの"である。これが共有されないのも明白だろう。

言うなれば、私の失敗とは共感覚空間は固有なものとしてのみ感じられるものだと断らなかったこと。
自分ではこの空間の精緻な構造を知っていながら、周囲の圧力に負けてあたかも"共有される対象"
であるかのように表現したがために、その言葉に思いも依らぬを断面を与えてしまう結果となった。

その後暫くの間私が経験したのは災難以外の何物でもないが、今になって振り返ってみると不思議だ。
それこそ、非共感覚者にとっては奇妙なだけの共感覚の空間だが、私などには否定のしようがない。
主観的な知覚体系とは、個人空間と共に形成されるがゆえに、本来、他者には検証不可な領域だが・・・

一人の人間が他者の一生を最初から追体験する、などという珍事は(生憎)達成され得ないだろう。
煮え滾る対話の中で線と線が交点・接点を造り、その論理が共通の解に廻り会うにしても、大概、
個人空間は侵害されずに眠りに就くことを保障されている。一部の病的状態を除くとするならば。

科学的立場も考慮に入れるべく場においては、今現在の私は多少は弁えることを覚えたらしい。
これはつまり、共感覚それ自体は他者の知覚とは何等リンケージを持ち得ないのを認めること。
その上で共感覚が芸術を生むのは何も偶然ではない。感性の論理は、如何にも"常識的"なのだ。

ssssssshhhhhhhhhhhhhtt..........
  1. 2010/06/07(月) 00:40:22|
  2. 数 と くうかん
  3. | コメント:0

色泥棒の夕暮れ

つい先日のこと、夕暮れの空を眺めながら街を歩いていた時、"あの青さを泥棒してもいいかな"と
ぼんやりと考え始めた。"空は要らない、私が欲しいのはあの青さだけ、でもどうしたら手に入る?"
そして、数秒経って"正気"に戻ってから思い返す。私はいったい何に心を奪われていたのだろうか。

勿論、"誰かの何か"を盗むことは犯罪だが、あの時私が何としてでも手に入れたいと思ったのは
所謂ところのモノではなく感覚質そのものだった訳である。それも、滅多に出会えない空の色という。
きっと、自分が恋焦がれた対象はその数分後にはこの世から消え去った色であったに違いない。

共感覚者の中には、"同じ感覚にまた出会いたい"と思って何度も何度も文字の色を読み返したり、
音楽の色を聴いたり・・・と、幾重にも重なった知覚現象の世界に繰り返し赴いていく者もあろうか。
恐らく、この知覚体験を繰り返すという点では共感覚の有無はあまり関係のないこととも思える。

はて、私がここで常々思うのはこの反復行為が如何なる体験の追求なのか、ということだろう。
付け加えれば、その"同じ"と思われる知覚の対象も、当事者の環境次第で揺れ動く多様なもの。
果たして、彼等(或いは私)は何に再び"出会おう"と目論むのか。総ては変位の中を生きている。

共感覚者同士での対話には、面と向かった生身の対話もあれば、書き言葉を介してのそれもある。
これまでの私の経験値から言えば、前者と後者では気付かされるものにかなりの違いが存在する。
何がどう違うのか、当然ながら前者の方が具に感じ取れるように思うのは何も偶然ではないだろう。

驚きながらも相手の言葉にその場で耳を傾けているうちに、"あっ"と思う瞬間に必ずや出会うもの。
そうか、音楽に色を見ていると言っても同じじゃなかったんだ、でもなんだかどれも素敵なものだ・・・
嬉しそうに話す相手の手振りや身振りを見ながら感じられるのは、幸せでなくて何だと言うのか。

それぞれが感じる重層的な感覚質を、他者の私が完全に『わかる』ことなどはきっとないと思う。
"何となくわかる"ことは在るにしても、『わかる』と言ってしまうのは傲慢極まりないことでもあり、
相手の感覚を尊重するどころか、軽んじることにも繋がりかねない。これは決して誇張ではない。

例えば色聴と呼ばれる共感覚があり、音に色を見るという表現がそこで"ごく一般的に"用いられる。
何長調の音楽は緑色で、何短調のどれどれの曲は桃色だ・・・という共感覚者が居るとするならば、
その傍で"本当にそれは色なのかな・・・でもこの人は色だけ見えると言ってる"と感じる私が居る。

私も確かに"音に色"という表現に50%ほどは賛同するが、"音に光や空間がある"と自分では思う。
平均律十二音による独裁の布かれた西洋音楽を10年以上も続けたのに調性を無視して音を聴く、
そんな破天荒さは共感覚の共感覚らしさそのものだと秘かに喜んでいる。(誰にも分りますまい!)

冒頭に挙げた"空の青さ"が一期一会の色との出会いであるとすれば、次に掲げた"繰り返し"は
いったい何であろうか。追体験ではなく、ある者には純粋な感覚体験との再会であるかもしれず、
ある者には"相似形"の変奏となるのかもしれない。その全様を知るに至る程に私は完全ではない。

仮に私がある曲を繰り返して聴いたとしよう。毎回"同じような空間"がそこで待っていてくれる。
それはさながら、夕刻に見慣れた隣人の家に灯りが燈るのを見てほっと一息つく様に似ている。
しかし、だからと言ってその風景を知るのは自分だけである。きっと、その事実は変わらない。

icikrici

  1. 2010/04/26(月) 00:16:26|
  2. 共感覚/synaesthesia
  3. | コメント:0

感じて、そして造るために

創作という観点から共感覚を眺める時、私は得も言われぬ困惑と期待を同時に感じることがある。
それは決して悪い意味を持つものではなく、どちらかと言えば至福に近く、心地良さとも言えよう。
戸惑ってはいても、この表現行為で巡り会うその感情は、後味が良い。世界の具現なのだから。

共感覚を感じると一口に言っても、その意味内容は驚くばかりに広いものだと私は常々思っている。
これは、共感覚者同士の知覚の手法の違いとはまた別次元に在る豊穣さと言い換えられるのだろうし、
そしてまた、それが一人の人間の内奥で静かに、強く生きている点においてもどこか優しさを感じる。

私の場合、文字の色や音楽の形等を表現している間は言葉という言葉が頭の中から抜け出たかと
感じる程であり、時としてそれは人間を人間たらしめる感覚と"言語"の間を行き来しているかのようだ。
神秘的という形容詞を付けるのは場違いだろう、なぜなら、共感覚は私の感覚の常の姿でもあるから。

ここで、普段の感覚であり、尚且つ逆でもある、矛盾を抱え込んだ共感覚にも同時に目を向けるべきか。
そうなのだ、現実生活を見渡せば判然としているだろう、共感覚者はこの感覚を隠す方が余程が多い。
他者からの好奇の目を避けるため、或いは自他の中に生じるであろう混乱を想定して慎重さを選ぶ。

生まれてからずっと"傍に在る者"を襞の下に匿い続けるとは、いったいどんな心境の成せし業だろう。
無論、匿いもせずに"放し飼い"にした経験のある者でもなければ、実際にはこの意味は知らない筈だ。
ある種の"失敗"から共感覚を内に秘めてしまうのが、大方のシナリオの進み方なのかもしれない。

共感覚を口にしたところでその場が凍り付く、なんてことは私もざらにあるがもう慣れてしまった。
というのも何も、人それぞれに世界の見え方が違うと分かっているのに押付けがましくはなれない。
自分にとっての知覚世界を明かしたところで共感や賛同のみが返って来る方が、ともすれば"危い"。

例えば、絵や音で示せば共感覚を見知らぬ(ないしは忘れた)者も彼等の感覚を通して知覚する訳であり、
初めて知った現象の姿を、全くの"無"の空間に築き上げるという至難の業を経る必要もないだろう。
"経験が力となる"のであれば、当事者自身が何がしかを他者の中に"感覚させる"ことも益に成り得る。

我々共感覚者の中で在るものが彼らの中には無いことが不可解極まりない/なかったのであるならば、
その逆もまた然りであり、無いものが在ると言われて戸惑う人々の心も尊重すべきかと今の私は思う。
そうとなれば、共感覚の表現は唯自分個人のみならず、世界のどこかでも意味を成すのではないか。

もしかすると、この感覚体験が自分のそれと"同じような"意味を持つかもしれないし、或いはまた、
想像し得る答えとは全く異なった考えや体験が生まれ出るかもしれない。思考の行方は無数に在る。
喜劇が創意として在るのと同様に、悲劇も其処に有りの侭に生かさねばならないのは屈辱だろうか。

何かの発見をもたらすことに期待を寄せ、内的な感覚が外的な感覚へと"置換"されたことに戸惑う、
そんな重層性があるからこそ、私は共感覚の表現を堪能出来るとも言えよう。その根源は複雑だ。
"総ては方向性を持つ"という動かし難い事実に比して人は弱い。変化という賜物を私は見守りたい。

ideeen

  1. 2010/03/20(土) 00:45:34|
  2. 共感覚/synaesthesia
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